ほんのすこしだけ未来の約束

(鴇沢と昴)



 今日は天気のせいか客足が鈍く、二時ごろに最後の客が帰って以降、ぱったりと人が来なくなった。

 もうすぐ三時、いつもより早いがそろそろ店じまいにしようかな、と考えながらスマートフォンを見る。と、昴から連絡が来ていた。

 つい最近、昴もついにフィーチャーフォンからスマートフォンに機種変更して、それを機にLINEを導入した。

 鴇沢は昴から届くメールの件名をいつも楽しみにしていたので、それがなくなったのは寂しいなとひっそり思っている。

 けれども今はそのかわり、メッセージの一行目にかならず鴇沢を気遣う言葉やあいさつが入っていて、これはこれで気に入っているのだった。

 おつかれさま。

 店出るときれんらくして。

 いまだに操作に慣れていない昴からの、やけにひらがなの多いメッセージにほほえましい気持ちになる。

 何かあるのかな。いつもは帰りの連絡が欲しいなんて言わないのに。ひょっとして何か困ったことがあったのかも、だから変換もしてないのかも……そこまで考え、いてもたってもいられなくなり、鴇沢は急いで帰り支度を始める。

 コートに腕を通しながら慌てて「いまからかえります」と打つと、すぐに既読がついて「○」のスタンプが返ってきた。

 店のドアに施錠する間ももどかしく、階段を駆け上がって地上に出る。

 と、十センチに満たないぐらいの雪が積もっていた。日付が変わる前、出勤したときから降っていた雪が、ずっと続いていたらしい。初雪はずいぶん前だったが、道路が白く覆われるほど積もるのは今年初めてだった。

 いくつもの足跡に荒らされた歩道の縁に立ち、こんな時間でも流して走っているタクシーを捕まえる。

 住所を告げてから改めてLINEの画面を確認すると、昴からのメッセージは一時間ほど前に届いていた。起きる時間はいつももっと遅いはずだし、ひょっとしたらほとんど寝ていないのかもしれない。

 薄っぺらい板をぎゅっと握りしめ、そわそわと家に着くのを待つ。いつもより引っかかる信号の数が多い気がして、ひどくもどかしい気持ちになった。

 あと三分程度で家に着くあたりで、ひと気のない歩道を歩く人影を見つけた。思わず窓にすがると、相手も鴇沢に気付いて立ち止まる。

「あ! す、すみません、ここでいいです!」

 気付いた瞬間そう口にして、急いで代金を払った鴇沢は、転がるように車外へ出た。

「おかえり、鴇沢」

 鼻の頭を真っ赤にした昴が、目の前に立っている。

「あ、ただいま……昴、どうしたの」

 昴の頭からつま先まで急いで確認したけれど、どこも何ともない。ほっとして肩の力を抜いた鴇沢に、昴は朗らかに笑った。

「初雪、……じゃないか、初積雪じゃん。ちょっと散歩したいなって思って。もしお前も歩いて帰ってきてたら、ちょうど真ん中で会えるかなって思ってたんだけど、タクシーかー」

「ごっ、ごめん、何かあったのかなって思って、急いでて」

「あー、ちゃんと理由書けばよかったな。心配させてごめん。まだ打つの慣れないんだよな」

「俺が勝手に勘違いしただけだから……」

 ぶんぶん首を振ると、「ん」と昴が手袋を嵌めていない手を差し出してくる。指先が赤く、冷たそうだった。

 差し出された意味を考えるより早く、あっためなきゃ、と強く思って両手で包むように握る。やっぱり、氷みたいに冷え切っていた。

「ちがうだろ、もー」

「え、あ」

 ちょっと呆れたみたいに言いつつ、昴は楽しそうだった。

 間違えたのだとうろたえる鴇沢の両手をそっと振りほどき、右手だけを取り直して指を絡める。そしてそのまま、昴のコートのポケットに入れられた。ポケットの中にはカイロが入っていて、ぽかぽかと暖かい。

「あの、す、昴、外だけどいいの」

「何が?」

「手……だれかに見られたら、昴は困らない?」

 深夜の住宅街には人影も車通りもない。さっきのタクシーはもう行ってしまったし、ここには二人きりだ。

 鴇沢は倒れそうなぐらい嬉しいけれど、もしも誰かが現れたとき、昴は困らないんだろうか。

 ――そうやって気遣うふりをしてはいるが、自分から離れることはできないのだった。広くて深いポケットの中で、まだ冷たさの残る昴の手に縋るようにきつく力を込めてしまう。

 昴は、全部わかってると宥めるみたいに、指先で鴇沢の手の甲を撫でてくれた。

「何で? つきあってんだからいいじゃん」

 けろりとした口調で言いながら歩き出す。鴇沢も同じ速度で足を踏み出しそうとして、もつれそうになった。酔っ払っているわけでもないのに足元がおぼつかない。

 いいのかな。付き合ってるって、ほんとにそんなに贅沢でいいんだろうか。

 昴は上機嫌だった。まだ誰も踏んでいない雪の上を、鴇沢より半歩先に歩く。

 まっさらな雪道にくっきりと残る足跡を見つめながら、鴇沢は今年のはじめのことを思い浮かべていた。そういえば昴は、ここに来たばかりのときも雪に喜んでいた。

 あのときは並んで歩きながら、こんなに先の未来まで一緒にいるなんて想像すら出来なかった。一ヶ月、という期限が短いのか長いのか、十年ぶりの再会が夢みたいで、きちんと考えることも出来ていなかった。

 もちろんこんなふうに当たり前みたいに手を繋いでもらえることだって、思いもよらなかった。

 すごいことだな、としみじみ幸せを噛みしめながら、昴の足跡を拾っていくようにほんの少し後ろを歩く。

 まっさらな雪道はまだまだ先まで続いていて、鴇沢は昴が飽きるまで、どこまでだってついていきたいと思う。

「鴇沢は、こっち来て何年経つんだっけ」

 楽しそうに歩いていた昴が、急に立ち止まって鴇沢の顔を見上げた。

「え? あ、俺は、えっと……もうすぐ八年目かな」

「そっか。雪、好き?」

 唐突な質問に鴇沢は困った。雪が好きかどうかなんて考えたこともない。でも、最初の頃にいろいろ驚いたのは覚えている。

 雪道は、思っていたよりずっと滑ること。雪の日に傘をさしている人はあまりいないこと。そのとき着ていた黒いコートの表面に落ちた雪の美しい結晶が、はっきり見えたこと。

 鴇沢には、「好き」という感情を持つ対象が少ない。

 一番確かなものが昴であり、それと同じぐらい好きなものなんて何もない。

 昴にとっての星みたいに、強く惹かれるものなんて。

 質問の答えに迷っている鴇沢を見て、昴は少し困ったように眉根を寄せる。

「んー……、難しく考えてほしいわけじゃなかったんだけど。俺は、きっとこれからあんまり好きじゃなくなると思う。すげー降るし、寒いしさ。でも、初めて積もった日にこうやって鴇沢と歩くのは好きだから、来年もまた散歩しようなって言いたかったんだ」

「す、する! 絶対……あの、来年はタクシーにも乗らないから」

「約束な」

 ふっと笑いながら、昴は鴇沢に肩をぶつけてきた。それから先の道を見て、くちびるを尖らせてつぶやく。

「あんま遠くまで行くと戻るのめんどくさいな。戻りは足跡ついてるし、つまんないけど」

「べつの道から帰ろうよ。誰も歩いてないところ探して」

「そうする。あ、最後に肉まん買って帰ろう」

「うん」

 道路を挟んだ向こうにあるコンビニを指さして昴が言う。

 誰もいないし、車も通っていないのに、昴はちゃんと信号を待って道路を渡った。横断歩道のラインも雪に消えている。

 白い景色の中にほんのりと灯るコンビニの灯りがとても温かそうだったけれど、あそこに入ったらさすがに手をつなぐのはやめなければいけないかもしれない、と寂しくなった。

 初雪の日なんて、今まで気にしたこともなかった。雪が積もれば冬だなと思うし、桜が咲いていたら春なんだなと、絶対に目に入るものでかろうじて季節を意識していた。

 でもこれから鴇沢は、毎年秋になれば冬が恋しくなるだろう。好きな人と歩く、まっさらな雪道が待ち遠しくなるだろう。

 そうして意識が変わっていくのは、すべて昴のおかげだった。

 コンビニの前にたどりつき、昴がドアを押し開ける。

「いらっしゃいませぇ」

 店員にそう声を掛けられても、右手は繋いだままだった。離そうとする気が全然ない。

 ――つきあってんだからいいじゃん、って、誰の前でもそうなんだ。誰かいても、いなくても。じわっと瞼の奥が熱くなる。

 昴が前を歩いていてくれて、本当によかった。

 薄く涙の張った眼をこっそり拭うと、まるで見えているみたいに、昴は前を向いたまま「泣き虫すぎる」と笑った。

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