米兵との歪愛 最年少死刑判決 S子(20)
S子
仙台市原ノ町若竹。ここは敗戦後に進駐軍が駐屯し、宮城県内だけでも最大で1万5千人の米軍兵がいたが、昭和27年の講和条約発行後も駐留軍と名を変えて昭和32年11月に返還されるまで、米軍基地として残っていた。
S子の家庭は当時としては裕福な方で不自由なく生活していた。高校卒業後は洋裁学校にまで通わせてもらっていたが、昭和29年11月頃には通わなくなり家出し、同年末頃から仙台市内で米兵相手の売春婦として生計を立てていた。
【刑資203】
米兵ブーンとの出会い
昭和30年7月に一連の事件の共犯者となる米兵のオービス・L・C・ブーン(以下ブーン)と出会い、情交を重ねて同棲し結婚の約束までしていたが、昭和31年4月にブーンに帰国命令が下り、離れたくないブーンは米軍キャンプから脱走し、バラックなどでS子と同棲しながら逃避行を続けたが、金員に窮し一連の事件を企て実行に至った【刑資203】
事件
最初の事件は昭和31年5月31日(月末が米軍の給料日)にS子(事件時20歳5ヶ月)が売春婦を装い米兵に声をかけ、暗がりに誘いだし身を潜めていたブーン(24)が木の棒でなぐり金品を奪うという手口で夜9時半頃と11時頃に二件の事件を起こしている。被害者の米兵は共に加療1ヶ月弱の怪我を負った。(強盗傷人二件)
同年の7月31日に同様の手口で18歳の米兵にこん棒で襲いかかり金品を奪い、この少年は同8月2日に死亡した。(強盗致死)
それだけでは生活苦は変わらず、S子は米兵と婚約し同棲していた友人のR子(25)が金を持っている事を知っていたので、これを奪おうとブーンと共謀し、8月31日頃から機会をうかがっていたが、実行のタイミングがなく月が変わった。
9月3日にR子の同棲相手がキャンプ地に戻った事を確認し、夜12時頃にS子が就寝中のR子に声をかけて、起こし二人で雑談し、そこへブーンが「S子いるか?」と訪れて、R子が油断した所をブーンが鼻と口を押さえつけ、S子に助けを求めるもS子はこれに加勢し体を押さえつけ意識不明にさせ金品を奪った。
一旦は帰宅したが再びR子の家に訪れて米等を奪い、R子が息を吹き返すかもしれないと、蚊帳に火をつけてR子を焼死させ、建物を全焼させた。(強盗殺人、放火)
【刑資203】
逮捕日は同年の9月9日に二人同日
【朝日56.9.10】
求刑無期で死刑判決
昭和32年3月12日 仙台地裁で二人に無期懲役を求刑
昭和32年3月20日 同地裁で二人に死刑判決
昭和33年3月12日 仙台高裁 破棄自判 無期懲役
【昭和32年3月12日河北新報夕】【刑資203】
【昭和32年3月20日河北新報夕】
【昭和32年3月20日読売宮城版夕】
【昭和33年3月12日河北新報夕】
【昭和33年3月12日読売宮城版夕】
物議を醸した判決
戦後十代の女性へ死刑判決、死刑求刑が出された事は確認されていない。S子は犯行時20歳5ヶ月で確認されている中では最年少と思われる。他に松山でKYという女性が逮捕時と一審判決で21歳という記録がある。
(確定死刑囚としては永田洋子26歳犯行時、山本宏子36歳確定時が最年少)
ブーンは米兵に対する戦後最初の死刑判決。
この事件は同年代の他の事件とくらべても死刑確定で問題ないと思われるが、ブーンが米国の軍事法廷で先に終身刑が言い渡されていたために検察が弱腰になり求刑が無期だったのではないかと言われている。
また死刑判決後の3月26日にブーンが「裁判は不当」と訴えたために米軍が仙台地検に身柄の移送の連絡をし熊谷キャンプに移送されるという事態も異例だった。
高裁では心神耗弱も認定されず、殺意や計画性は認定されながら、破棄理由は「ブーンは心神薄弱でS子は性格異常」「死刑は正常人に科して効果がある。二人は無期にして一生償いをさせる」というなんとも苦しいものであった。
S子は上告をしなかったが、ブーンが「確定的殺意はなかった。鼻は押さえていない。R子の家に戻ったのは風呂敷を忘れたから。低知能だった」と量刑不当で上告し昭和33年10月2日に棄却されている。
【昭和33年10月2日河北新報夕】【集刑128】
最後に一連の強盗の末に二名の命を奪い、放火までした事件で求刑以上の死刑判決を下した地裁の裁判長の判決理由の一部を記して終わりたい。
R子殺害に関して「被告人等が被害者との信頼と友情を利用し、これに乗じて行った犯行は冷酷、無慈悲、残虐非道。被告人等の反社会的性格は許しがたい。犯情は極めて悪質」
(資料提供:折原臨也リサーチエージェンシー様)