祖母の遺体と同居 少女T.S(18)
最近Kさんを見かけない
昭和50年12月29日、北海道の芽室町で近所の住人から「最近Kさんの姿が見えない。孫娘が何度も農協に来てお金を引き出す。家の様子もおかしい」と帯広署に届け出があった。
同署の刑事4人でKさん(77)宅に行くと孫娘のS子(18)と愛人のF谷(21)がいて、S子をお金の引き出しの件で問い詰めると、はじめは「東京のおばあちゃんに送金してる」としらをきっていたが、刑事の「送金伝票を見せろ」の言葉にワっと泣きじゃくって「おばあちゃんを殺した」と自供し、押し入れの中から凍った遺体と床下からは血のついた鉈とまな板が見つかり、二人は緊急逮捕された。
【昭和50年12月30日北海道新聞】
遺体と二ヶ月も過ごした異様な同棲生活
S子の自供から犯行は同年10月31日午後10時頃
一階の四畳半で就寝中のKさんを紐で縛ろうとしたところ、Kさんが暴れたためにS子が台所にあったまな板で頭を殴り、S子が玄関から持ってきた鉈をF谷に渡しF谷が鉈でめった打ちにし殺害し、バックから現金3万円を奪い二人は同棲していたアパートに戻った。
その後11月2日に二人は再び事件場所に戻り、遺体を押し入れに隠し布団を押し込み、鉈とまな板も床下に隠した。
異様なのはこのあとに二人はKさん宅に居座り、事件が発覚するまで約二ヶ月もそこで同棲生活を送り、S子は農協から数回にわたり、現金合計29万円を引き出し生活費や遊興費に使っていた。
たまに訪れる人には「祖母は東京にいる親戚が事故で看病に行ってる」と顔色も変えずにこたえていた。
【昭和50年12月30日北海道新聞】
S子とF谷
S子は7歳で母親と死別し、その後に父親は行方不明になり8歳で祖母のKさんに引き取られて大事に育てられた。Kさんは何かあるたびに近所の人に孫娘の話を嬉しそうにしていた。小学校ではおとなしい性格だったようだが、中学卒業後に工場で働くも不況で人員整理され職を転々とし、事件があった同年の7月に防衛庁共済組合の帯広クラブでウエイトレスとして働き、自衛隊員だったF谷と出会った。
F谷は昭和49年1月に帯広駐屯地に配属された陸自の隊員だったが、上官の命令に背いたりする素行不良者でS子と出会ったことで事件発生の1ヶ月前に依願退職をして定職につかずにS子の洗濯機やミシンなどを売り生活費にあてていた。
(新聞の写真ではF谷の顔立ちは悪くないが、S子がスナックで働くのは嫌だといいながら自分はまともに働かないというダメっぷり)
二人はKさんに結婚話をしたが、反対され借金の申し入れも断られ、逆に「真面目に働きなさい」と諭されて、小金を持っているKさんを襲って金を奪うしかないと犯行を企てた。事件発生日にも借金の事で口論になっていた。
【昭和50年12月30日北海道新聞】
二人の無期懲役が確定
昭和51年10月7日 釧路地裁帯広支部 二人に無期懲役
二人は控訴したが、F谷は昭和52年1月18日に取下げ
昭和52年4月19日 札幌高裁でS子の控訴棄却(確定)
判決理由
地裁では「育ての親というべき人を残忍に殺害したのは人として許せない」
高裁では「計画的で社会に与えた影響は大きい」
二人に有利な情状
①深く反省し被害者の冥福を祈っている
②若年で思慮分別が未熟
③前科前歴なく反社会的な行動もなかった
④S子の育った境遇には同情すべき点がある
【昭和51年10月7日北海道新聞夕】
【昭和52年4月19日北海道新聞夕】
【検察資料】
※S子の生年月日は不明だが新聞報道では犯行時が18歳になったばかりで、無期懲役確定が事件から1年半後で控訴審判決時で(19)となっている。確定時が未成年という他に例がない少女の無期懲役囚ということになる