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㉚ 強盗より誘拐は簡単 久保章《太田小一》(19)

「子供を誘拐する方が簡単」

戦後の少年死刑囚で身代金目的の誘拐は二件あるが、そのうちの一件の加害者少年が検挙後に言った言葉。
「家に押し入るより誘拐の方が簡単だ」と…
太田小一こと久保章(19)は中学を一学期でいかなくなり豆炭工場で人夫をしていたが、長続きせずに左官見習いをしていた。
本件犯行前約1年間で窃盗や詐欺など12件の累行が裁判で認定されている。詐欺は主要食料購入手帳(米の配給や購入に必要)を騙し取る手口だった。
【下級裁判所刑事裁判例集1巻6号】略称は【下刑】
【昭和33年1月3日西日本新聞】
【昭和33年1月3日朝日西部】


もう一件の少年死刑囚による誘拐殺人事件
https://note.com/sasurau8/n/n27db0039167b

犯行の手口

福岡県田川市、昭和32年12月17日朝の登校時間に久保は三人の少女に出会い名前を聞いた所、誘拐の被害者になる少女(11)が名前を名乗ったので、その足で炭鉱社宅へ行き表札で名前を確認。そのまま学校へ引き返し
「お母さんが急病だ」
と担任の教員を騙し被害者少女を学校から連れ出し、騒いだために山林に連れ込みビニール紐や少女の破いた衣類で絞殺し穴に埋めた。金銭を要求する脅迫状を近隣で遊んでいた子供に被害者宅に届けさせ、被害者の家の様子を見ていたら脅迫状を受け取った母親が慌てて隣家に飛び込んだので、警察に通報されたと思い逃走した。
【下刑1巻6号】【昭和33年1月3日西日本新聞】
【昭和32年12月17日夕朝日西部】


逮捕時の新聞では脅迫状を送ったあとに母親が警察に通報したことが殺害した理由と久保は言っているが、地裁判決は殺害後に身代金を要求したと認定している。
免田氏の手記では「話すのが苦手な久保くんの事件は警察が仕組んだ」と噂になっていたようだ

16日後に逮捕され事件は解決

久保を知る元同僚などの話では気が小さく内向的で酒もあまり飲まないが、パチンコに狂い借金があったようだ。また映画『死刑囚』を見て興奮したり、被害者の父親に盗みをしている所を見つかり警察につき出された過去も出てきている。
本件の捜査では脅迫状を受け取った母親が学校に確認し連れ出された事実を知り通報、近隣の聞き込みの人相着衣と久保と話した教諭の面割りから事件後約3時間で犯人と特定され逮捕状の請求がされた。しかし久保の足取りが掴めずにいた。久保が潜伏していたワラ小屋も発見され、手配書も10万枚配られた。
その手配書が功を奏したのか、翌年の1月2日に八幡の労働下宿所に潜伏しているところを「よく似た男がいる」と情報提供され現場に向かった捜査員の問いかけにあっさりと「私が○○ちゃんを殺した久保です」と認めて逮捕され、事件は解決した。
【昭和32年12月21日朝日西部夕】
【刑事警察資料第231号 昭和53年6月】

西日本新聞58.1.3

久保の死刑が確定

昭和34年6月30日 福岡地裁飯塚支部 死刑
昭和34年10月6日 福岡高裁 控訴棄却
昭和35年6月9日 最高裁 上告棄却
昭和35年6月29日 判決訂正申立棄却
(先出の通り久保ははじめから殺すつもりはなかったと主張しているが控訴、上告共に棄却されている)
【刑集37巻6号】【昭和34年6月30日朝日西部夕】
【昭和34年10月6日朝日新聞西部夕】
【昭和35年6月9日読売新聞夕】【集刑134】


地裁判決文より
「温和で親思いの少女を誘拐し、両親に憔悴不安な念を抱かせた上に純真な少女を両親から永遠に奪い去った。両親の苛酷な処罰感情は当然であり刑の量定にあたり看過し得ない」

久保の死刑執行日

久保章は昭和37年2月21日に死刑執行された。
免田氏の【獄中ノート】より
※『私が見送った死刑囚』として当時、福岡拘置所に収監されていた死刑囚の執行日が沢山書かれています。

追記:村野薫氏の【日本の死刑】では昭和37年5月9日になっています。



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