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逃亡。

 そうだな、議論なんてする必要は、全くないんだ。
 特に、対話者と何らかの妥協点や双方の視点を勘案した新しい視点を見出そうとする意図もなく、ただ「お前は間違っている」と言いたいだけ、それを納得させたいだけの相手との議論なんざ、する必要は全くない。
 そういう議論ばかりを見ていると、議論とは様々な事象に白黒つけて勝者と敗者に分ける行為だと思ってしまう。それは、「自分が間違っている」という想定をできなくさせる、それを恐怖に変換する回路ができてしまう。

 LGBTとトイレの問題について、男性/女性以外に新しく、LGBTのマークをつければいいじゃないか、という発案が話題になった際、ふーん、イインジャネと思っていた僕に対しツイッターランド上での当事者であった彼女は分かりやすく「私たちは区別をしてほしくないんです」と教えてくれた。"ダビデの星"を例に出された瞬間、僕はパアンと膝を打った。
 彼女は僕の意見を真っ向から否定するのではなく、別方向からこう考えてみたらどう見える?という誘導をすることで、僕という理解者をひとり、増やしたのだ。

 ……そういう、膝を打つ瞬間こそが議論の最高の醍醐味だと僕は思っていたし、みんなそういう快感を求めて議論をするのだ、と思っていた。

 しかしどうも、最近のツイッターランドはみんな、そういう余裕がないように見える。「誰が悪だ!」「お前か!」「いやお前だ!」「お前こそ悪だ!」という言い合いを延々と続けており、しかもそれが反響しながらますます環境を悪化させているようにも見える。
 ひとたび"悪"にされると、聖書の罪人もここまでではなかっただろうというほどの石礫が飛んでくる。キリストは、だって?ビットコインで売り逃げてハワイでバカンスを楽しんでいることだろう。

 そう、僕も石を投げていた。されどもその姿が全世界に公開されていることは知っていたので慎ましやかに、足元の小さな石を拾っては放り投げる程度に。
 しかし最近、どんどんと勢いをつけて石を投げつけたくなる衝動が抑えがたくなってきたことに気が付いた。出来る限り硬い石で、相手のこめかみを狙って、力の限り振りかぶって投げつけ、一撃で泡を吹かせたい……そういう欲求が、強くなっている。
 相手が血反吐を吐く姿を見る快感。これは本当に、ヤバい。なぜなら本当に血反吐を吐いたのを確信できるまで、石を投げ続ける行為に繋がるはずだからだ。そうなればもはや、悪魔との見分けがつかないだろう。

 だから、議論はやめよう。趣味の合う人、楽しいことをいう人を見つけ、毎日微笑みながらツイートを眺める、そんな生活ができるように、議論への渇望を殺そう。
 フォローなんぞ不要、リストで十分だ。他人がいつ、憎悪をまき散らす存在になるかわかったものじゃない。潜水艦の浸水区域を隔壁で遮断するように、他人をいつでも切り離せるようにしよう。
 そうして、誰からも「いいね!」がつかないつぶやきを、「いいね!」がつかないことに安堵しながら呟こう。むしろ今は、「いいね!」が付くことは"悪"にされる可能性が高まる状況だからだ。

 ……しかし、Niftyフォーラムの頃はこんなことはなかったのに。
 どうしてこうなった。(´・ω・`)

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