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公正と信義に信頼しての「に」

日本国憲法の前文に、
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という一説がありますが、信義に信頼しての部分が気になりましたので、これと同じような用例がないか、見てみました。信頼するの目的語の前につける助詞に「に」を使用している例です。この用法は、明治期から戦前期、かなり普通だったことがわかります。なんの違和感もなく使用されている。戦後生まれの人が見ると、変に見えますが、もともとそうしていたので、憲法を策定した人たちもなんの疑問もなく、問題も感じないで、そうしたのだと知って、私は非常に日本語というやつは深いなと思いました。これは要するに口語文法ではなく文語文法に従っているだけのことのようです。

何にするのか李は笑って答えなかった。拒むべきことでもないし、李の笑顔に信頼して、正枝は捺印してやった。
豊島与志雄『浅間噴火口』

彼は、医者としてよりも人としての博士の言に、信頼するの外はなかった。
豊島与志雄『子を奪う』

その満足の結果が、おれのおかげだなどと毛頭考へてはゐない。彼女はたゞ、彼女自身の力に信頼し、彼女自身の力に満足してゐるんだ。
岸田国士『道遠からん 四幕』

そのとき私たちは偉大なるものに対する尊敬と憧憬とをもたずにはいられないであろう。そのとき私たちは他人に信頼する心を懐かずにはいられないだろう。
三木清『語られざる哲学』

春風はゆたかに彼女の眉を吹いた。代助は三千代が己を挙げて自分に信頼してゐる事を知つた。
夏目漱石『それから』

殊に、彼の学校の成績の比較的良い点に信頼していたようであった。
中島敦『斗南先生』

但し、心の持ち方に信頼するとて医者の手当を怠っては何にもなりません。
岡本かの子『仏教人生読本』

ところが僕は役人共の目に信頼することが出来ないから、自分の目で見直した。
森林太郎『病院横町の殺人犯』

彼は幼い子どものようにその神に信頼していた。
ロラン・ロマン『ジャン・クリストフ』

現實模倣主義の背景には現實に信頼する樂天主義がなければならぬ。之に反して藝術至上主義の背景は現實に信頼するを得ざる厭世主義である。
阿部次郎『三太郎の日記 第三』

母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方がかえって平気であった。
夏目漱石『道草』

少しも神に信頼していないじゃないか。
夏目漱石『行人』

即ち、法治主義的の司法や行政に信頼してのみ近代資本主義的の経営は可能である。
末弘厳太郎『法学とは何か』

君はあまり自分の力に信頼しすぎてる。
ロラン・ロマン『ジャン・クリストフ』

何か大きなものに信頼しきった眠りだ。
豊島与志雄『父と子供たち』

いくらか狽て気味ながら、この重役の策略のない頑固さに信頼していた。深く考えなかったのだ。
本庄陸男『石狩川』

あなたはあなたの想像力に信頼しない。
岸田国士『訳者より著者へ』

人々は敵襲に直面するほかはない、三位一体に信頼するほかはないのだった。
ストレイチー・リットン『エリザベスとエセックス』

勇士の子孫としての誇りを。あなたはあまりに衰えました、わしたちがいかにあなたに信頼しているかを思ってください。
倉田百三『俊寛』

現實模倣主義の背景には現實に信頼する樂天主義がなければならぬ。
阿部次郎『三太郎の日記 第三』

後進の能力を認めこれに信頼することの出来ない大御所的大家ではなかったのである。
寺田寅彦『レーリー卿(Lord Rayleigh)』

私はあなたの熱情と勇気とに信頼してこのことをお願ひします。忘れないで下さい。
伊藤野枝『遺書の一部より』

人が己れの智識に信頼する、是れは人の誇りであらねばならぬ。
有島武郎『潮霧』

彼女は彼に信頼していた。
ロラン・ロマン『ジャン・クリストフ』

彼は医師の腕に信頼した。
小酒井不木『死の接吻』

それよりも、なんと、楽器だけに信頼する演奏家の多きことよ。
岸田国士『俳優の素質』

これに限らず一体に吾々は平生あまりに現在の脆弱な文明的設備に信頼し過ぎているような気がする。
寺田寅彦『石油ランプ』

どうしたことであろう、徹頭徹尾突きくずされ、絶対に失調させられるとは!およそ何に信頼したらいいか。
ユゴー・ヴィクトル『レ・ミゼラブル』

朝子は、自分に信頼出来ない心持の頂上で、その日その日を送った。
宮本百合子『一本の花』

まだまだ、限りなく出てくるので、これまでとします。

「信義に信頼して」を誤っていると即断する人は、単に自分の不勉強をさらけ出しているだけかもしれない。日本語を広く深く知らないのだ。古典に通じていない無教養者かもしれないですね。私もそうでした。日本文学なんてまったく読みませんので、夏目先生がそのような「に」の使い方をしていたとは、今回調査してみるまで全く知りませんでした。

信頼:信じて頼りにすること。「~に頼る」とはいうので、そのあたりから、「~に信頼して、」は、発想されている可能性があるなと思いました。

~に信じて頼って、
信じて、~に頼って、
これなら、現代日本人にも、すんなり受け入れられるだろう。

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