突然の自分語り ~嫉妬と懊悩と愁嘆を添えて〜


さっきお風呂掃除で水あかを取りながらふと考えたことがある。
 
私はスターでないけれども、スター経験(?)は一度したことがある。
1年間の生徒会長の経験だ。他薦で。

別に好きでなったわけじゃなし、はっきり言ってあの1年間はサイアクだった。
思い返すのも忌々しい。虫唾が走る。
けれど確実にあの頃の私は、少なくとも「あの小さな世界」の中心で、
私の名を知らない者は(たぶん)一人もいなく、私が何を考え、何を発するか、
誰も彼もが、感情の大小はあれど気にしていたと思う。
 
でも、もう一度あの頃に戻りたいか?なんて、露ほども思ったことない。
本当にアリの糞ほども考えたこともない。
 
まあ単に私がリーダーに向いていなかったということもあるだろうが、全く奇怪なことに
「あの小さな世界」の私を未だに引き合いに出して語ってくる知り合いもいる。
(じゃあ断れば良かったじゃない、と思われるかもしれないが、こんな場所では語り切れないほどいろんな事情があったのだ)
 
そして少なくともあの1年間を過ぎて私は、「何を考え」「何を発するか」「人にどう見られるか」とひたすらに悩み続ける日々を送っている。

たぶん性格もペシミスティックに変わったのだと思うが、悩むのが趣味というくらい悩み続けている。
夢を見ない日も365日のうち何日あるか、、、というくらい。

そこで思ったのだが、世のスターと言われるヒトだって、果たして幸せかどうか怪しいものだ。
現に私は、あの1年間を自分の中でまだ消化できていない(もしくは未だに自惚れているのか)。
 
人に注目され、評価され、対外的にどんな人間かを演出する、傍から見れば奇妙である。
自分の評価は自分がすれば、本質的にはそれで良いのに。

もし今注目されている人々が上記のような感情に悩まされず、真に“幸せ”と豪語するならば…
それはもう単なる阿呆である、と私なんかは思ってしまう。(そしてそういう人はハッキリ言って嫌いだ)
 
そんな時に私は、精神科医ロロ・メイが語った(と思われる)、ある言葉を思い出す。
以下は私のノートに書き留めてあるもので、一言一句同じという訳ではないが、

「抑うつ状態は障がいなどではなく、“不幸”の深刻な一形態。人間の避けられない一部、本質である。さらにはいつも幸せでいたいという期待は非現実的である。この期待のせいで逆に私達は不幸である事に不安と罪悪感を抱き、ついには抑うつとなる。つまり“幸福こそが異常な状態”である」
 
大体こんなかんじである。
この考えを知ってから、ほんの少し心が軽くなったように思う。
私は絶望名人かもしれないけれど、そうか
それで良いんだなと。
(ちなみにメイさんはキルケゴール、サルトル、カフカ等も引用し、お医者さんでありながら哲学的で、とても好奇心をそそられる文章を書かれる方です。)
 

さて、水あかは全然取れないけれど、ある程度でやめておこう。
続きはまた今後。

結局ヒトはただ、きったねえ垢を四方八方に散らばし世界を汚しながら生きているだけ。

あの不世出のスターも、あなたの憧れのあの存在も。
 
 
ちなみに表題の懊悩と愁嘆は、最近覚えた言葉で使ってみたかっただけなので特に深い意味はありません。


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