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【奇手】を引き込むのは、情報+閃き+応用力!?

配下の大軍が、敵のどんな出方にも巧く対応して、負けることが無いのは、「正」(定石)と「奇」(奇手)を的確に使い分けているからである。(「超訳 孫子の兵法 許成準)
戦いは、「正」(定石)を用いて敵と合戦し、状況に応じた「奇」(奇手)で打ち破るのである。(「超訳 孫子の兵法 許成準)

1、想像することができなかった「奇」

「正」はイメージがつくのだけど、「奇」の概念が今一掴めませんでした。

読書会仲間の沼澤拓也さんとの会話の中で、この「正」と「奇」はまさに状況に応じて変わるものではないかと話が落ち着きました。

当初、沼澤さんも「正」は常識、「奇」は非常識と捉えていましたが、確かにそのように捉えることもできますが、どうピンと来ないのも正直ありました。話をしている内に一つが考えに至りました。

2、「正」「奇」とは相対的な関係

Aさんにとっては「正」でも、Bさんにしたら「奇」である場合もあるということです。あくまでも「正」「奇」は【相対的な関係】であるということです。

常識と非常識、表と裏、単純と複雑、目の前と陰、有知と無知、一定の調べと不調和音など。

ここまで来てしまうと、極端な言い方をしてしまう。【相対的な関係】であるということは、二元論的なものの見方をするってことなのかもしれません。

例えば、今、目の前のことだけで解決するかもしれないけど、実は自分が見えないところでは自分が思ってもいないことが進行している可能性もある。結果は同じでも、そこまで思い立って行動するのか(正)、そこまで思い至らないで行動する(奇)のか。

例えばフランス革命の三大支柱である「自由・平等・博愛」。「博愛」を辞書で調べると「すべての人を平等に愛すること。」と書いてある。「博愛」と訳された「フラテルニテ」事体の意味は、「兄弟間の情、同胞愛、友愛」であって、あくまでも「同志間の友愛」であって、「差別のない愛」ではない。だからこそ、「博愛」を叫んでフランス革命をしていないのだから、その後の恐怖政治をあって当然の帰結なのだ。テストにも出るであろう、フランス革命の「自由・平等・博愛」は、「無知」なのだ。

相手が正攻法の場合は「正」を用いて、隙があれば「奇」を用いるとは、唐の名将李靖の言だとか。

3、奇を行えるには

偉そうなことなどとても言える立場でもなし、能力もないので、ここでは自分がもしかしたらそうなのかもと思ったことを書いて終わりたい。

「奇」を実行できるようになるには、色々な情報があって、尚且つ応用できる閃きが必要なのでは、と思う。

実際の戦の実例を調べてみると、そんな感じがします。

『状況に応じた「奇」(奇手)で打ち破るのである』とあるので、「奇」については勉強する必要があるかもしれませんね。



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