無をやる

手持ち無沙汰な時間、あるいは眠れずにベッドの上で天井を穿つほどに眺めている時間。それは私にとって、あらゆる知識を巻き込みながらあまたの思索が空転しては、何の帰結も吐き出さぬままに前頭前野を走査し続けることを繰り返す時間である。それは支離滅裂な空想であったり、現実における解決不可能な、あるいは解決の必要のない諸問題に対する種々のアプローチであったりする。以降はこの状態を「無をやる」と表現することにする。無をやらないようにするためには何らかの電子的なデバイスを用いて、何らかの視覚的・聴覚的な刺激を脳に与え続ける必要がある。

私は少し油断するとこういった無をやることに時間を費やすきらいがある。しかしながら、なんとも恐ろしいことに、そういった時間の浪費をやらずに過ごせる人間というのは少なくないらしい。むしろ、何も考えずに過ごせるというのだから驚きである。脳の状態空間に何も考えていない状態や、そこに遷移可能なパスが存在すること自体、かなり直感に反する。脳が無をやめて真の無を獲得することなど、どのようにして達成可能なのだろうか。これができる人にその方法を問えば、決まって「何も考えなければ良い」という回答が得られる。このやりとりこそ、無である。



問題!
私は何回「無」と言ったでしょーか?

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