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日記 1月14日(金)

1月14日(金)
昨晩寝た時間 :24時半
今日起きた時間:7時15分

今日は久々の在宅勤務なので、朝ゆっくり起きる。朝起きて、着替えてごみ捨てに行き、子供たちが小学校に行くまでの間、子供と話したり準備を促したり。二女におにぎりをにぎり、自分と妻の分のお餅をトースターにかけたりする。今日の朝ご飯はお餅とサプリだった。布団をあげて、お風呂を洗って、皿洗いをし、妻と二女を送り出す。在宅勤務だとこれくらいの戦力にはなれる。恐らく当面は週の半分くらいは在宅勤務となるから、これで少しは妻の負担も軽くなると良いのだが。

今日は在宅勤務なので、本を読んでいない。それもまあ、仕方ない。お昼ご飯はカップラーメンだった。出勤しているときは弁当持参なので、その方が栄養バランスが良い気がする。在宅勤務時のお昼は、大体カレーか麺類になる。

今日はあまり仕事がはかどらず、幾つかのアウトプットを作成し、来週の出張の準備をし、調査案件の下読みとその打ち合わせをしていた。年明けの金曜なので、まだ本調子ではないのかもしれない。それでも最低限のアウトプットはできたとは思う。18時位に仕事は終了。あとは家族とだらだらと、テレビを見たり、会話をして過ごした。平和な一日。朝のごみ出し以外、一歩も家を出ていない。

今の自分の状態は、元々のアイデンティティの不詳さに加えて、ミッドライフ・クライシスがやってきている状態なのだろうと思う。そもそもが高校生の時から、「なんで自分は生きているのだろう」「なぜ自分は生かされているのだろう」という問いにつかまっており、虚無感や拙い自尊感情に囚われ、それが反転してやや選民思想的に、有り体に言えば「拗らせた」状態となった。その後、大学を卒業し、就職し、結婚し、子供も生まれ、とても中道というか、今では恵まれているとも思われる(正規雇用で、結婚し、ローンながらも持ち家があり、子供が3人いる)状態となっても、空疎な感じや、自分の所在なさは絶えず消えず、仕事は精一杯やってきたけど、ふと立ち止まって、果てしてそれでよいのか、そんな働き方をこれから30年も続けられるのか、そもそもあと30年も働き続けなければいけないなかで、どうやって生きていけばよいのだろうか、と戸惑いを隠せない状態になっている感じだ。仕事は没入できるので、今までそれで暇つぶしというか、自分の承認欲求はそこで解決できてきたけど、もうそれもちょっと違うんじゃないかと思い始めている状態。じゃあ、どうしたいの?と言われても、さっぱり分からないし、仕事は適当にやって、家族や趣味に没入すればいいんじゃないの、とも思うけど、仕事は適当にはしたくないというか。そんな矛盾した状況にあると思われる。
「使命」という言葉について、よく考える。自分は何のために命を使うのか、ということで、できればそれは「自分たち」の為に使いたいと思っている。「自分たち」とは誰かといえば、自ずと思える範囲のことで、正直に言えば今は家族と友人という狭い範囲でしかない。できればこれを拡張したい、と考えている(「自分たち」が拡張できれば、環境とか、日本とか、未来の地球とか、未来の子供たち、とかもおのずと「自分たち」に含まれていくと考えている)。しかし、それが難しい。そして、現実的な時間が有限のなかで、今何ができるのかと考えると、今自分の時間とは殆ど自分の時間ではなく家族の時間なので、子育てが落ち着かない限りはまだまだできることは少ないのだろう、と考えている。

一番現実的な路線は、今の仕事をしながら、働き方を抑えて、越境していろんな人に会ったりすることなのだろうと思う。副業をするか、教育機関で勉強するか、地域のボランティアに参加するか。転職をする、というのも一つの手だろうとは思っているものの、そうすると家族の生活基盤が崩れる気もするし、仕事以外に没入することの方が費用対効果が高いのだろうとも思っている。僕はまだ40歳だから、リンダグラットン的にはあと60年も生き続けることになる。とにかく楽しむことを目標に、楽しむことに命を使いたい。こうやってそんなことを言語化しないと、直ぐに忘れてしまうくらいに、楽しむこととは僕にとっては難しいことだ。楽しむこととか、誰かに甘えるとか、誰かに頼るとか、そんなことをもっと自然にやれるようになりたいし、子供たちには自然にそういうことができるようになって欲しい。

長女は今、絵を書くのが生きがいと言っているし、長男はゲームと空手が楽しいようだし、二女はいつも何かしらで遊んでいる。妻はゲームしたり、イラストでLINEのスタンプづくりをしている。僕も、置いて行かれないようにしないと。

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