4月16日

朝から会議やら何やらバタバタする。

途中で誰も引き受けない案件があり、誰も引き受けないから仕方なくやることにした。こうやって、本当は引き受けなくても済むようなことに顔を出したり、口を出したりするから大変になっていくんだろうなあ、とは思うけども、いやしかし、そうやって自分が「誰もやらないなら仕方ないなあ」と思いながら引き受けることもエゴなのかもしれない。ただ、それは三木清の言う通り、それが利己的な判断だったかは想像力の長さによるのだと信じる。何とか回るのではなくて、どこかに裏側で何かができるなんとかしている事象がある。おそらく自分はそういう事象に組み込まれているのだろう。特性として。詭弁やパフォーマンスで前に出て目立つ生き方もあるし、手を抜いて生きるやり方もあるし、色々ある。どれも自分には自分以外にはマッチしておらず、中途半端な、しかしあくまで身近な範囲に限った義憤をセーブすることもなくすこともできずに、しかしそのときは自分の感情は一定程度置いておいて、果たしてそれが必要なことかどうかで判断できる、というのが自分の血なのではないか、と年々強く思う。それはもはや確信しつつある。

魔女の宅急便のウルスラの「わたし、そういうの好きよ、魔女の血、絵描きの血」という言葉が何十年も心に居続けている。10代の頃には自分のアイデンティティを探す求める指針として、40代の今は自分が求める指針として。未だに自分には何の血が流れているのかは分からない。何を求めているかも明らかになっていないが、誠実な人ではありたいと思う。常に血については更新されていく。宇多田ヒカルのOne Last Kissもそういう曲だ。ニューエスト・モデルもそういう意味だ、常に最新型で、常にラストになっていく。

自分がどういう血でありたいかを冷静に考えるときに平均温度が高い血でありたいということだろうと思う。沸点は高くなくても良い。平均温度が高いこと。瞬間的にではなく継続的に、我を忘れることはないまま、人に優しく、人を思うことができ、行動ができること。

家に21時に家に着き、次女とお風呂に入る。お湯を目に入らないようにかけてやり、頭を洗ってから泡が目に入らないようにお湯をかけてやる。小2とは、まだこういうことも一人では覚束ないものか、と改めて認識する。少しだけだかど、次女も一人でできることが増えていく。例えば、一人でトイレに行けるようになった。これで僕も妻も彼女のうんちを拭かなくて良くなった。体も一人で洗えるようになった。

子どもたちが一人で何もできなかったときを述懐して、泣いたりしてしまうのだろうか。それはまだ分からない。曽我部が「大人になんかならないで」って歌った時、僕はとても切なくなってしまった。そのときは結婚をしていなければ子供もいなかったけど。だから、自分の感情や情景と言うよりも、そういう気持ちに共振して切なくなるのだろう。恐らくそれは、これからも。それが正しい感情ではないのかもしれない。つまりは、自分のことにではなく、他人の子を思う感情に感じるということが。

次女は相変わらず犬を飼うのだと叫ぶ。チワワが欲しいようだ。申し訳ないんだけどね、気持ちはわかるんだけども、金銭的にも、お世話をするにしても、お家のどこで飼うのかということで考えても、うちでは飼うことはできないんだ、とお風呂の中で正直に、努めて冷静に伝える。

次女は泣く。

風呂上がり、次女はぐずくずしばらくしてから、妻に「誕生日にほしいおもちゃがあって、調べたいから携帯電話を貸して」という。

今までは、誕生日に犬を買ってくれ、との一点張りだったので、どうやらそれは諦めたのかもしれない。どうやら欲しいおもちゃは人形のようだった。うちにはとにかくぬいぐるみがたくさんあるし、人形もたくさんある。それでも次女はなおもそういったものを欲しがる。

でも思い直せば、僕も同じような本やCDをたくさん持っている。

妻は、21時に帰ってきた僕に対して「今日は早かったね。いつもこれくらい早く帰れるといいね」と言った。

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