2月29日自分にとって音楽は宗教みたいなものだ

朝駅に向かう途中、吐瀉物がアスファルトの道に吐き出されていて、それを小鳥が突いて食していた。そうか、見方が変われば、これはゴミから食べ物に変わるのか、と驚く。

最近、僕の住む街では吐瀉物を多く見かけるし、ごみのルールを守られずにいる悲しげなゴミ捨て場をよく見かける。これはきっと不穏な予兆なのだろう。自治が損なわれている気がする。

今日は外苑前方面に直行だった。
現地に10時集合だったが、ちょうどよい電車がなかったため、早目の電車に乗り、渋谷からてくてくと歩くことにした。

僕が卒業した大学は青山にあり、久々にその通りを歩いてみたかった。宮益坂を登った。ずっと気になって、一度も入らなかった、もうやんカレーの傍にあった「虫」と大きく看板を掲げていた店はなくなっていた。
イメージフォーラムの前を通り、気になっていて一度も入らなかったジビエ屋の前を通り、かつてそこにあった青山カレー倶楽部という店がなくなっているのを残念に思ったり、色々な逡巡があった。

卒業した大学の前を通る。ここに来るのは、大学院受験の際に必要な卒業証明書を取りに来たときぶりなので、恐らく6年近くぶりだ。今は学生は春休みだろうか、朝早かったせいもあるだろうが、閑散としている。大学の向かいの青山ブックセンターの近くの喫茶店で、大原美術館の大原麗子さんと打ち合わせ、というか顔合わせというか、見定められたことがあったような、なかったような。

表参道駅の前を通る。この辺には前職の取引先がたくさんあったことを思い出す。特にスパイラルには仕事でもお世話になったし、個人的にも妻が妻になる前、良く二人できたし、プレゼントを良く買ったことを思い出した。通りの向こう側には外国のお客さんもてなした飲食店がまだあった。

ここの道を行けば確かブルーノート、ギャルソンも近くにあった、この裏通りを行けばソファを買ったお店、ブライダルでお世話になった店もすぐ傍にあるはずだ、そういえば結婚式の二次会はここらへんの路地にある店でやった、ああそうだ、転職して音楽関係の仕事をしようと思ってここらへんでmotel blueの社長みたいな人と面接をしたなあ、それは強い雨が降る日だったな、ここのカレーうどんは美味しかったぞ

などと歩くたびに自分が渋谷〜表参道〜外苑前に実にたくさんの思い出を持っていることを初めて知った。特に思い入れがある街ではない。ただ、良く来ていたし、好きなお店が多かった。父の実家は祐天寺で、親族が表参道付近で果物屋をしたり、ここいらでよく遊んでいた、という話を聞いたことがある。

歩きながら、昔自分が作ったプレイリストを聞く。ニック・ドレイクやグラム・パーソンズ、ベル・アンド・セバスチャンといった内省的な音楽。懐かしく、そして曇天な都市に、図太い幹線道路で車が行き交う背景にとても良く似合う。少しずつそれで、歩きながら、景色と過去の記憶と邂逅し続けることによって、自分が回復していく気がする。音楽は自分にとって宗教みたいなものなんだ、と改めて思う。というよりも、確信をする。そこには意思がある。そうやって生きるし、生きていくし、生きるしかないのだ。

外苑前での仕事を終えた後、取引先の人と朝食を食べる。それぞれの職場の状況や後進の育て方、など色々話す。取引先の人は定期的に大学時代の先生と会うそうで、その会合では必ず、青春を終わらせるかどうか、という話に最終的になるらしい。

僕は、見えてしまって、自分の感情に関わらず、対峙したほうがいいことが現れたときに、今までは必ず向かっていったけど、そうじゃない方が良いのではないか、という場面も増えてきていて(自分が大変になるから)、だから見えても見ないふりをしたり、何もしない方にシフトしていくかもしれません、という話をその取引先の人に話すと、

「恐らく、それは無理なのではないでしょうか、きっと体が動いてしまうのではないでしょうか」

みたいなことを言われ、恐らく自分でも実際にはそう思っていると正直に伝える。だから、その物事に対峙するか/無視したり見なかったりするか、でずっと悩み続けるだろうことで、僕はずっと青春のさなかにいることになると思っています、と昼の蕎麦屋で酒も飲まずに、その取引先の人に話す。

取引先の人と別れた後、一人になって、僕は三木清の言葉を反芻していた。

「人間が利己的であるか否かは、その
受取勘定をどれほど遠い未来に延ばし得るかという問題である。この時間的な問題はしかし単なる打算の問題ではなくて、期待の、想像力の問題である」

たまに、自分が意図せずも勝手にも、いやしかし、それをやったほうがいいのだとほぼ自動的に動いていくことが、果たしてエゴと言わずにはいられないのではないか、と考えることがある。独善的とも言える。

そういえば、先程の昼食で、自分は影響力は持ちたくはないんです、と話していた。自分の発言が蒙昧で、曖昧のままでも、ただ自分が言ったからという理由で通っていくようなことは良くないことだと思っています、と話した。

取引先の人は、ここは「会社で持ちますよ」とお昼代を持ってくれた。いや、そういうつもりでお昼を誘ったのではないんです、と勘定札をレジに持っていく取引先の人を追いかけるも、「いやいやいや、本当にいいんです」と言われる。僕は閉口して、モゴモゴと聞こえるか聞こえないかの声でお礼を言う。本当に、こういうのは苦手だ。返報性、というのをどうしても感じてしまう。なにかされると、それをどう返せばいいのだろうと思うし、返せないから、施さないでほしい、と思う。人の優しさを素直に受け取れる人や、人に施された時にラッキー!って思える人が羨ましい。それは天性の陽気さと言うのだろう、とか思いながら階段を下っていた。

とにかく、単純に、いつもより少し長く、好きな音楽と一緒に歩けば、幾ばくかの回復が訪れるのだ、と改めて知った。もうそれが訪れたから、今日はいい日だったと思う。

もし仮に、motel blueに転職し(面接には受かっていた)、音楽業界に入っていたら、自分は今どんな感じで生きていたのだろう、そんな空想もよぎっていた。

いつだって、無くなったり置き去りにした/された選択肢や世界線は美しく、楽しい。それも滋養と言えるのかもしれないから、感情を慰撫する以上は実在しているとも言えるのかもしれない。

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