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「あきらめるな!」という呪詛

精神科医YouTuber益田裕介Dr.のお話で、よく「諦観」「あきらめ」というのが出て来るんですよ。

んで、たいがい「あきらめ」というと、良くないイメージがあるんですよねぇ。
大体の人って、子どもの頃から勝利を目標として、「あきらめるな!がんばれ!」と、周囲の人達との競争を強いられてきていますからねぇ。

けれど、仏教のことばとしての「諦観」≒「あきらめる」って、悪い意味じゃないんですよね。

諦観=ものごとを明らかにする・みきわめる

という意味なんですよね。


競争原理って、一定の条件下で、ルールに従って行われてはじめて成立する「ゲーム」なんですよねぇ。
(ルールが無ければ、ゲームでなければ、ただの戦争=殺し合い、ヨ ^ ^;)

男性ホモソーシャルを基礎として出来ている「場」(つまり人間の表社会)って、この競争原理が基準になっているんですよね。

だけれども、現実の「条件」って、全然一定じゃ無い。

産まれも育ちも体質も、その他もろもろ、てんでバラバラなのが当たり前、なんですよねぇ。
生き物なんだから、当然なんですよ。

だけれども、人間の集団って、ある程度は質を揃えることが出来る。
集団への参加資格に合わない個体を間引きしたり、文化の共用ができない個体を追放したりして、集団の同質性を人為的に担保することができるんですよね。

現代までの人間社会を作って来た、男性ホモソーシャルな競争原理って、
どこまでも「人為的」に参加者を選別して来たんですよねぇ。

選別して選別して、同質性を極めて競争を続けた結果、社会全体がバラけだしたのが、「今」の問題なんじゃないか、と思うんですよね。


競争原理って、「みんなで競い合おう!」という前向きな競争ごっこで出来ているのだけれど、
前向きな競争ごっこに参加できるのは、一定の基準を満たした個体だけなんですよ。

競争だから、時間の経過と共に、競争自体のレベルはどんどん上がり続けるのだけれど、人間の能力ってそう簡単には上がらないから、競争に参加できる人の数が減っていっちゃう。

結果として、はるか遠くで行われているよく解らない競争と、大量生産された敗者ばかりになっちゃうのよねぇ…。

以前はごく単純だった店番の仕事にも、高度な接客能力とマルチタスクが要求されるようになれば、店番の仕事にすら就けない人が大量に出てしまう…。

では、その大量の敗者の生活は、誰が支えるのか???

競争原理を動力として社会を動かす方法が、もう崩壊してきているのに、「あきらめるな!がんばれ!」は、相変わらず「是」とされているんですよね。
というより、生活や教育の中に「あきらめないこと・勝利することが正しい」と、「呪いのように刷り込まれちゃってる」から、なんかおかしなコトになっちゃうんだと思うのよね…( ̄_ ̄|||)


「あきらめる」と言うと、普通、「自分の希望をイヤイヤ捨てる」ことだと捉えると思うんですよ。
「負けを認める」とか、ネ。

けれど、「諦観」ということばの意味は「ものごとをつまびらかに・あきらかに観る」ということなんですよ。

「イヤイヤ捨てなきゃいけない自分の希望」をあきらかに見極めて行くと、大体、世間に刷り込まれた「こうあらねばならない!」という強迫観念だったりするのよネ。 (^ ^;)

本当に自分が望んでいることとは違うことだったりする。
社会的に成功しなければならない!という思い込みは、「機嫌よく安定して生きて行きたい」という気持ちのすり替えだったりするのよね。

本来の望みは、勝ち負けとは関係の無いモノだったりする…。

世間が煽ってくる強迫観念って、大袈裟な理想だったりするから、大概は達成不可能なタスクなんですよ。
それが時々大天才が現れて、達成してしまう。
すると世間は「ほら!できるじゃないか!お前もがんばれ!」と無責任に煽ってくるんですナ。

「あきらめるな!がんばれ!」
って、がんばりではどうにもできない「個体差(産まれ・育ち・能力・等々)」を考慮せずに使われる、社交辞令みたいなモノなんですよね。


色即是空 空即是色
なんて言いますが、
この「色(実体とか、生き物とか)」であったモノを「空(崩壊・死)に還す」チカラ、
空から色を創り出すチカラは、
人間には備わっていないんですよ。

人間も、社会も、単なる「色」の一部分、なんですから。

それこそがヒトとしての限界なのですが、
競争原理に洗脳されてしまうと、
「人間はがんばればなんでもできる!超人に進化するのだ!ホモ・デウスだ!」
みたいに、どんどん大仰になっていっちゃうのよね。
ここまで行っちゃうと、もう、アホくさくもある。

「あきらめ」につきまとう「ルサンチマン」も、競争原理の産物なんだと思うんですよ。
人間の自意識過剰が産み出す「妄想」なんだと思いますヨ。


AA(アルコホーリクス・アノニマス)などで使う「12のステップ」の中に、
「平安の祈り」というのがあります。
元はアメリカのキリスト教神学者・ニーバーの祈りから来ています。

神様 私にお与えください
自分に変えられないものを 受け入れる落ち着きを
変えられるものは 変えていく勇気を
そして 二つのものを見分ける賢さを

平安の祈り

これの「二つのものを見分ける賢さ」というのを、仏教的に言うと「諦観」になるのだと思うんですよ。

人間の力(自分の力)では、どうにもできないモノがある、
自分自身には限界がある、
という事実を、ニヒリスティックにならずに受け入れることって、
「より良く生きる」ことにとても重要なことなんだと思います。

だから、宗教の違いはあっても同様の概念があるんですよねぇ。

色を空に、空を色に、変えていくチカラって、要するに「神」でいいんだと思うんですよ。
(神に人格?とか、人間みたいな善悪とか意思とかを期待するから、話がオカシクなるんだと思うヨ)

色即是空であっても、虚無では無い
存在は、どうしようもなく「在りて、在る」
んですよネ。

在るんだから、仕方がない。あきらめよう。

それでいいのダ!

バカボンのパパ

人間は物理的な制約からは逃れられない。

これ、障害の受容でもあるけれど、健常者であっても同じなんですよね。

ヒトって、「色」の一部分であって、色即是空・空即是色を変転させる力では無い、んですよ。

この原則と、生物としての競争原理の、ダブルスタンダードの中で、虚無に陥らずバランスを取って空に帰すまで存在していくのが、「生きる」ってことなんだろうなぁ…。

難しいぜぃ!^ ^;





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