白湯(さゆ)

長らくのROM専という殻をぶち破り、文章を書くことにしました。 誰に言うでもないけれど…

白湯(さゆ)

長らくのROM専という殻をぶち破り、文章を書くことにしました。 誰に言うでもないけれど、心にとどめるだけにはしたくない事をつらつらと。足りないであろう自分の言葉で。ひいこら働く30代未婚女性が日常生活で感じたこと。

最近の記事

のこされた写真を見返すときの悲しみを少し克服できた話

私は写真を撮るのが趣味です。 思い起こせば小学生のころから、自分のフィルムカメラをもらって、いろんなものを撮ってきました。 それは大人になってからも続き、カバンの中には常に何かしらのカメラが入っている、そんな状態でこれまで生きてきました。 そういったことから私は自然と色んなシーンの撮影係となり、これまで喜んで様々な撮影をしてきました。写真の出来上がりは勿論、撮ること自体が好きなんです。撮影は狩りやスポーツに似ている感じがします。光の角度や人の動きなど、自分だけの視点で瞬間を

    • 動くお城とのお別れ

      車を売ることにした。 車と言えば、免許をとったあと、学校を卒業して地元に帰ってからは、かなり長いこと家族共有の中古車にお世話になった。 ただ、共有の車ってやはり相当不便だし、お互いに文句も出たりして非常にややこしかった。 そんな私の、初めての新車。初めての自己名義の車。私だけのお城。 内装を好みに整えた。行ったこともない車屋さんに度々顔を出すようになった。 うれしかった。誇らしかった。 その車を売ることにした。 理由は簡単で、在宅が増えてあまり使わなくなったこと。 そし

      • 「人生が良くなっている」と思いたい症候群。

        年末から年始にかけて、人はドラマチックな思考に陥ってしまうと思う。 一年の終わりとはじまり。 その年一年間の出来事や言動に思いを馳せたり、未来の自分や周りの環境に考えを巡らせたり。 ひいてはここ数年のことまでほじくり起こして、「あの時よりは良くなったよな」なんて今の自分をねぎらったりしている。 自分を納得させられる「あの時の答えのようなもの」を、記憶の砂のなかから掬い上げようとしたりもする。 下手をすると、自分で記憶の砂をほうぼうからかき集めて水で湿らせ「答えはきっとこ

        • シジューになった日。

          昨日は40歳の誕生日だった。ついこないだまで学生でテニスのボールを追っかけていたのに。 そりゃ酸いも甘いも人並みに色々あったが、好きなものも、嫌いなものも、中身の本質は昔となんら変わってない。 外見と付いてくる数字だけ変わっていって、自分ではまだ30くらいの感覚なのに、今私にはじめて会う人にとって私はまごう事なき「相応に老けた40のおばさん」なのだから不思議だ。 今日び「30代です」と聞けば、近年若々しく美しい女性もたくさん増えて、私たちが小さかった頃のいわゆる「30代

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          きのうペットがしんだ。その気持ちと少し救われた言葉。生き物を亡くした飼い主にかけてはいけない言葉。そして、救われてもいいんだと少し思えたことなど。

          14年飼ったインコが死んだ。昨日死んだ。目の前で死んだ。 半年以上つらい闘病をしていて、あれこれ必死になって取り組んで、奇跡的に元気になって、とても喜んで、少し安心していた矢先のことだった。 その時から丸一日経った今までの自分の状態を素直に書くと、正直頭の中にいろんな考えが巡り続けてどこにも着地できず、頭が沸騰したようにぐらぐらしている感じだった。脳内がひどい興奮状態だったと思う。目の前で、急に苦しんで亡くなったのだ。その数時間前までは具合が悪いながらも、私のそばに歩いて寄

          きのうペットがしんだ。その気持ちと少し救われた言葉。生き物を亡くした飼い主にかけてはいけない言葉。そして、救われてもいいんだと少し思えたことなど。

          「耳手紙」を受け取らせてくれ。

          「こ、こんなおもろバナシが…無料で…??」 これは私が常々ポッドキャストの番組に抱いてる感想(感動)だ。 心からの率直な感想が、どこか荒っぽいweb広告風の文言というのはいささか物悲しいところではあるが。 ポッドキャスト、というものを聴き始めて4年ほどになる。 10年以上前、学生の頃に使っていたipodの中に「podcast」というカテゴリがあったのは知っていたが、実際に利用するようになったのはわりかし最近のことだ。長らく使い方も、一体何がある場所なのかさえもわからなかっ

          「耳手紙」を受け取らせてくれ。

          感動したこと、すぐ忘れる。

          私はわりと感動しやすい。 冷たそう、怖そう、何を考えているのか分からないなどと昔から言われてきたが、一方そのころハートは人一倍揺れやすく、ウォーミングなのであった。(先日あぶらとり紙で有名な京都よーじやさんのキャラに顔が似ていると言われた。冒頭の印象の並びを考えると、よーじやさんに大変失礼である。) 今日はアザラシの赤ちゃんをテレビで観かけて泣いた。可愛かった。うるうるしたお目目と丸っとした体つきで懸命に生きる姿が愛おしく、感動し、ちょろりと涙が出た。だがひと呼吸おいて次

          感動したこと、すぐ忘れる。

          ばかみたいにご飯がおいしい!

          これは簡単なようでいて、大人になるとわりと「最上級のしあわせ」に分類される事柄だとおもう。 その仕事やその暮らしをしていて「ご飯がちゃんとおいしいか」。これは大事な指標になると実感している。転職して、しばらくして、少しずつご飯が美味しくなった。食べられる量も増えた。食べたいと思うものも増えた。自分にとっては、何よりの喜びだった。

          ばかみたいにご飯がおいしい!

          誰のためのものでもない言葉を。

          10年以上、ほぼ毎日、誰かのために何らかの言葉を発信してきた。それは仕事であったり、個人的なルーティーンとしてであったり、さまざまだった。 自分の頭や体の奥の、「言葉の元」のような場所からその日に合う言葉を取り出してきて、できるだけ慎重に、かつ客観的に、なるべく穏やかに、こねくり回して、なんとか体裁を整え発信してきた。 「思わぬ誰かを傷つけたり、変な誤解を与えたりするものであってはいけない」 「小さくても気づきや学びがないといけない」 「優しさや配慮が伝わらないとい

          誰のためのものでもない言葉を。