インディゴのはなし

高校生のとき、2つ上にナナ先輩という人がいた。漢字は知らない。かわいらしい人だった。背は低く、華奢で、少し茶色がかった髪は肩にかからないショートボブ。泣きぼくろ、いや口元だったかもしれない、色白の肌にそれが際立っていた。小動物のような顔立ちだったような気がするが、ぼんやりとも思い出せない。ほくろも本当はなかったのかもしれない。

中学校からの友人にRというやつがいた。涼やかな狐目で、鼻が高く、感じの良い爽やかなやつで、音楽の趣味が合ったのでよく遊んだし、のちに何度かバンドを組むことになる。家にも何度か遊びに行った。Rには2つ上の姉がいた。当時の自分より背が高く、肩幅も広く、性格は磊落で、Rと全く同じ涼やかな目をした美人だった。気に入られていたのか誰にもそうだったのか、廊下で出くわすとよくからかわれた。

そのRの姉がバンドを組み、文化祭でライブをやるから観に来いと誘われた。そのバンドにナナ先輩がいた。ギターを弾いていた。体育館のステージの真ん中、スタンドマイクの前に立つRの姉へこわごわと手を振り返しながら、ライブの半分くらいはナナ先輩を見ていた。学年でも人気者だったRの姉が歌うRADWIMPSの『いいんですか?』は、他のどのバンドよりも盛り上がっていた。

大学受験が近いから、解散前にもう一度だけライブをするから観に来いと、再びRの姉に誘われた。学校の近くのイオンモールにライブハウスの併設された楽器屋があり、バンドにかぶれた高校生たちの溜まり場になっていた。そういえば、その楽器屋で働いていた、ひとまわりほど年上の女性店員にひそかに憧れていた時期があったのだが、高校卒業からしばらくしてその店を辞めてしまったようだった。その楽器屋も本社との契約がこじれたか何かで、今では別のテナントが入っている。

その楽器屋でのライブにはRと2人で行った。周りは先輩だらけだったしRも主役の身内だから、自分だけが少し居心地が悪かった。バイトの許されない高校だったので、ドリンク代という貧乏学生泣かせのシステムに文句を言いながら、それでも久しぶりにナナ先輩の姿が見られるのを楽しみにしていた。

ライブが始まる。曲は何ひとつ覚えていないが、Rの姉のパワフルな歌声に似合う曲ばかりだったと思う。その頃にはすでに自分はRとバンドを組んでいたが、きっと自分はこうはなれないだろうなと思いながら観ていた。そのセットリストの3曲目あたり、音に違和感があった。よく聴くと、ナナ先輩の弾いているギターの、4弦だか5弦だかの音が半音ほど低くなっていた。この日のために弦を張り替えて来たのかもしれない。それが弛んだのだろう。ひどく間抜けな音だった。ステージの照明は暗かったが、それでもナナ先輩が今にも泣きだしそうな顔をしているのが分かった。もしかしたら本当に泣いていたのかもしれない。胸が痛むのと同時に、ナナ先輩のことをたまらなく愛おしく思ってしまった。半音ずれたまま曲が終わると、俯いたままアンプを落としてチューニングを合わせ直していた。それからは弦が弛むこともなく、ライブが終わる頃には何事もなく笑っていたように思う。終演後、Rの姉とだけ少し会話してライブハウスを出た。帰り道、隣を歩くRに「今組んでるバンドで曲作るなら、ナナ先輩のこと詞に書こうかな」と言うと、『それはキモいよ。』と言われた。

翌年の学園祭のライブには、結局Rとは違うバンドで出た。1年前の盛り上がりには程遠かったが、同級生たちはそれなりに観に来てくれて、それなりに楽しんでくれたらしい。大学生になったRの姉も来ていて、それなりに褒められて、それなりにからかわれた。当然ナナ先輩の姿はなかったし、自分もナナ先輩のことは忘れていた。

スピッツの『ナナへの気持ち』を聴くたびに、自分の人生に「ナナ」という名前の女の子は登場しなかったな、とぼんやり思っていた。それが先日、なんとなく入ったロイヤルホストで、貧乏な高校生には手の届かない値段のハンバーグを食べていたら、ふとナナ先輩のことを思い出したのだった。当時スライド式だった携帯電話はスマートホンへ、メールはLINEへと変わり、あの奥ゆかしいアドレス帳は化石になった。Rとは大学進学を境に疎遠になり、久しぶりに会った成人式では二言三言交わしたきり。Rの姉とも縁は切れてしまった。だから、苗字はおろか下の名前の漢字すら分からない、その顔さえも思い出せないナナ先輩の話は、これ以上進展することはない。