量子論

自己嫌悪が空気より軽ければいいのに、と思う。溜め込めば溜め込んだだけ膨らんで宙に浮いて、そのうち大気圏にぶつかって燃えて死ぬ。地上から見たら流れ星みたいに映るかもしれない。

自分がいなくても世界が成立してしまうことに気づくたびに苦しい。そうでないはずがないことぐらい分かっているのに。今この瞬間、その場にいない自分のことを思い出す人間などひとりもいなくて、このまま貝殻の中にでも閉じ籠ってしまえば、誰からも忘れ去られて最初からどこにもいなかったのと同じになるのではないかと思う。自分が人間としての輪郭を保っているのは、いつも自分が、汚い声でがやがやと、醜い手足でじたばたと、他人の世界に映り込もうとしているからなのかもしれない。

イギリスの哲学者ジョージ・バークリーは「存在するとは知覚されることである」と言った。誰もいない森で木が倒れるとき、果たして音は存在するのだろうか。観測者がいなければ、はじめからいないのと同じなのではないのか。1/2の確率で死んでいる猫は、少なくとも今きみの頭の中で生きている。それなら、いるのかいないのか分からない自分はどうだ、箱を開けるのを誰かが忘れてしまったら、最初から存在しなかったのと変わらないのではないか。

こころの調子がいいときは、そうやって宙に浮かんでしまったカメラをひっ掴んで引き寄せることができる。自分のいない世界なんてどうにでもなってしまえと思えるのだ。安い映画のハリボテのセットみたいに、この視界から外れたものは何もかも偽物でオンボロになればいい。いま立っているところ以外の地面が崖みたいに崩れてしまったっていい。観測されるから私がいるのではない、私が観測するから世界ができあがるのだ。

……そんな絵空事で風切って歩けるほど楽天家ではないから、今日も"かけがえのなさ"のなさにうちひしがれている。明日自分が消えたら、空いたところに同じ「枠」の誰かが滑り込む。綺麗さっぱり上書きされてしまって、初めからどこにもいなかったことになる。かくして世界はうまく回るのだ。

ああ、東尋坊が呼んでいる。私は飛沫も海風も感じているけれど、耳ひとつ目ひとつないその場所では、きっと何も起こらない。