棄論

帰路、コインランドリーの前を通るたびに人恋しくなる。自分のものではない柔軟剤の匂いを嗅いで、壁一枚を隔てた隣の生活を意識するからだろうか。夜の住宅街を散歩しながら、知らない家庭の勝手口から漏れるカレーや石鹸の匂いを感じたときの感情に似ているのかもしれない。あの生暖かい香りに満ちた空間で、乾燥機にかけた毛布が仕上がるのを愛する誰かと待っているような土曜日の深夜なんかに憧れたりはするけれど、実際のところコインランドリーにまつわる幸せな記憶なんて持ち合わせていない。田舎町の真っ暗な国道沿いにぽつんとあるそれから、光に群がる蛾や羽虫をかいくぐって寝具を運び出す憂鬱なくたびれた夜の記憶だけだ。

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自分など誰の目にも留まらない、社会の仕組みにわずかの波紋も与えない虫螻のような人間である、と思いながらその一方で、自分の吐く息が、影が、重力が、誰かの世界を汚し歪めているのではないかと感じて手足を動かせなくなってしまう。なんたる自己撞着、恥ずべき自意識過剰だ。……否、これは詭弁だ。社会の中で人が人でいられるのは他者へ実利をもたらすときだけであって、そうでなければ人ではない、道端の石ころであり、歩道の縁石であり、ともすれば靴の裏に貼り付くガムなのだ。そんな清掃車の餌から脱するためにはしかし、今の自分にできることなんてあるのだろうか。

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週末のたびに爪を塗る。日曜日から月曜日に切り替わる頃には色を落とす。着脱式のヒューマニティ。しばらくは人の目を恐れたりしていたけれど、佇まいにひとつも気を使わない人間が歩いていたって誰も気に留めないのだから、身の丈にそぐわない洒落っ気をぶら下げた人間が歩いていたって構わないだろう、と思えるぐらいにはなってきた。美意識が高いなんてご立派なものではないけれど、無地の服ばかり着る自分の、風采の上がらない格好が幾分ましになるし、自分の生活に少しだけ新しい色を増やせる、ただそれだけのことでご機嫌を保っていられたりするものだ。

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とうとうカート・コバーンよりも、ジミ・ヘンドリクスよりも年上になってしまった。線香花火にさえなれない命に意味も価値もないし、前途の分岐路がだんだんと減り、墓地への一方通行になってしまう前に見切りをつけて死んでしまいたいとずっと思いながら生きてきたけれど、思っていたよりは色彩も残っていて、まだまだ見ていたいものもあるから、もう少しだけ執行猶予をつけてもいいのかもしれない。後半アディショナルタイムに得点は入らないし、逆転サヨナラホームランは打てないし、ブザービートは決まらないけれど、絵空事を夢見ながら時間を浪費しても、きっとまだ許される。

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綺麗な言葉や優しい言葉は、その全てが自分のすぐ横を通り過ぎていくような感覚がある。窘めるような言葉や怒りをはらんだ言葉は、確固たる意思をもって自分の元に届けられている感覚がある。褒めたり、感謝したり、好きだという言葉は、"分別ある大人"として調和をなすための気遣いの結晶であって、そうでないとすれば自分にそんな世辞を言うことに何の意味があるのだと思う。あるいはたとえば、不特定多数に向けられたその言葉に最初から自分のアドレスなんて載っていないのだ。主人公が愛の告白をするシーンを見ているかのような、または賑やかなパーティを隣のテーブルから見ているような心持ちで、そんなときの自分は限りなく透明になる。翻って、ある種の攻撃的な言葉は領域の侵犯を通告するための防衛手段であるからその体を成しているし、たとえ思い当たる節がなくとも、無自覚な自分のためにわざわざ言葉にしてくれたのだろうと思う。だから自分は、喜ばせようとする言葉を聞くたびに虚しくて死んでしまいたくなるし、喜ばしくない言葉を聞くたびに羞恥と自己嫌悪で死んでしまいたくなる。

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人生を映画やドラマに見立てるのであれば、それは観測者の存在に帰するのではないかという仮説。ヒーローに変身したり、気づいたら異世界にいたりはしないけれど、目の覚めるようなサクセスストーリーや胸がときめく恋愛劇は、きっと視聴者ウケの良い人生だ。もしくは平々凡々な日々であっても、それを美しいと思う観測者さえいれば立派に成立する。その観測者は、たった1人いればいい。
そして自分の抱えているこの脚本は今のところ、実に見るに堪えない。