桜の死んだ日
浩二の祖母の住んでいた家は、主が亡くなった後もごくこじんまりと綺麗に整えられていた。近くに住む叔母が、時折掃除に来てくれているらしい。ただでさえ少なかった物はいっそう片付けられていて、それが少し寂しかった。
少しの間この家に滞在したいと言い出したのは、数ヶ月前の葬儀の席だ。なんのかのと理由をつけて、毎年この季節に彼が祖母を訪ねていたのは親戚にもよく知られていたし、すぐに許可は下りた。叔母には、浩二ちゃんはお祖母ちゃん子だったものねえ、毎年遊びに来てくれて嬉しいって母さんよく言ってたのよ、などとしみじみ言われ、少し申し訳ないような思いも味わった。
立て付けの悪い引き戸の玄関を開け、暗い廊下を進む。荷物を置くよりも先に、小さな庭が見たかった。雨戸を開けると、ぱっと光と風が差し込む。少し目を細める。庭の地面はさすがに手入れは怠られていて、雑草が背高く茂っていた。その向こうに、目当てのものがある。
東京の桜はもう終わりかけだが、北の風は花をまだ散らさずにいてくれたらしい。仄かに薄く紅色を宿した、八分咲きほどの大きな桜の木は、塀越しの外からもよく見えた。彼は少し頂を見上げ、また視線を下ろした。そう、花よりももっと大事なものがある。
「浩二ちゃん?」
柔らかな声がした。大きく洞の空いた木の裏から、ひょいと顔を出す16ばかりの少女の姿。
「浩二ちゃんだ! 嘘みたい。今年は来ないと思ってたのよ」
淡い桜色の地に、薄紅で舞う花びらを描いた柄の着物。その袖をはらりと翻し、草を踏みしだきながら少女は駆け寄ってきた。
「来るよ。約束したんだから」
「心細かったのよ」
肩のあたりで切り揃えた黒髪が揺れる。
「でも、もしかしたらって思ってたの。そしたら叶っちゃった」
大きな黒い目が三日月になった。浩二も一緒に笑う。
「紅子も元気そうでよかった」
「うん」
ふと、瞬きの合間に憂いがよぎったようにも見えた。だが、それを振り払うように少女は笑う。
「元気よ! ねえ、今年はいつまでいるの?」
「花が散るまではね」
「本当に? 嬉しい」
不意に、紅子が彼の胸に飛び込んできた。浩二はたたらを踏みながらもそれを受け止める。
「……なんだか浩二ちゃん、変な匂いがする」
「え?」
思わず己の袖口を嗅ぎ、それからはたと思い当たった。
「煙草かな。最近吸うようになったから」
「煙草! 浩二ちゃんが煙草!」
紅子の呆気に取られたような顔が、やがて笑顔に変わった。
「そうよねえ、もう大人だものねえ。ふふ、不思議な感じ」
くすくすと笑う少女に、浩二はつられて微笑んだ。
浩二が紅子と初めて出会ったのは、彼がごく幼い子供の頃、祖父の葬式で初めてこの家を訪れた時だ。彼女は今と変わらぬ年格好、同じ着物姿で庭に立っていた。親戚の誰かかと思い、無邪気に話しかけた浩二に心底驚いた顔をしていたのを、よく覚えている。
それから、桜の季節に法事で彼が訪うたびに、浩二は紅子と出会い、話をした。彼が知っているのは、他の人間には彼女が見えていないことと、花が散ると紅子は姿を消してしまうこと、それから、紅子はこの庭の外に出ることができないということ。
紅子姉ちゃんは桜の精なの? 幼い彼はそんな質問をした。そうかもしれない、でもよくわからないの。花が咲く間はこうやって出てくることができるし、他の季節は木の中でじっとしてるの。紅子の答えはそのようなものだった。化身、という言葉をやがて彼は学び、彼女はこの木の化身なのではないかと、今ではそう思っている。
そうして、何度も短い逢瀬を続けながら、彼はやがて二十の年を越えた。
(心細かったのよ、か)
彼はふと思い出す。寂しくないの?という質問には、紅子は決まって首を振った。いつも木の上から人の生活を見ているもの。全然平気よ。それでも、彼と遊ぶ時の少女はいつもとても楽しそうで、別れる時には涙を見せることすらあったのだ。寂しくないはずがない。ましてや、この家の唯一の住人が居なくなったいまとなっては。
浩二は、紅子の白い頬に手を当てた。桜の花のように、ほんのりと薄紅に染まった頬。それから、柔らかな唇に口を合わせた。紅子はそれを受け入れる。毎年のことだ。初めての時はいつだったろうか。彼が、この桜の化身にはっきりと恋をしたことを意識したのは。
「やっぱりおかしな味がするわ」
顔を離すと、紅子は不思議そうな表情を浮かべる。
「隆文も煙草吸いだったけど、そういえばいつも近くに来るとこんな匂いがしてたわ。覚えてる」
紅子は、彼はほとんど顔も覚えていない祖父の名を挙げる。
「こうしてね、縁側に腰掛けて」
ひょい、と紅子が腰を下ろす。彼も隣に座った。
「マッチで火を点けるでしょう。それで、ふうーっ、と気持ち良さそうに煙草の煙を吐くのね。サトは煙たいからお止めなさいってよく言ってたわ」
そういえば、祖母は煙草嫌いだった記憶がある。祖父が身近で吸っていたからこそ、苦手になっていたのかもしれない。
「なんだかとても美味しそうで、憧れたものだけど」
「煙草、吸ってみる?」
「まさか!」
それはそうだろう、植物には火は御法度だ。
「今はライターっていうんだったかしら。駄目よ。火事になんかしたら、サトが悲しむわ」
「仕方ないなあ。我慢するか」
暖かな日差しが、午後の庭を照らす。ずっと、このままならいいのに。毎年考えることが頭をよぎった。今年は、特に、強く、強く。
しんしんと暗い、静かな夜。浩二は布団を敷き、それからもう一度縁側に出て紅子を呼ぶ。彼女はすぐに木の裏から現れた。
「ねえ」
満天の星と、月の光に照らされた彼女は、夜桜の妖しい美しさを持っていた。
「浩二ちゃん、何考えてるの?」
「別に、何も」
「そうかしら。何かずっと考えてる」
黒い目がじっと彼を見る。
「私はね、来年もまた会えたらいいなあって思ってた」
「…………」
彼は口を閉ざし、鼻を少し擦り、手を合わせ、そうしてゆっくりと話し始めた。
「来年は、無理なんだ」
「……そう」
紅子は案外と冷静な声で応える。
「この土地は、売りに出されるって叔母さんが言ってた。今年が最後なんだ。こうやって会えるの」
紅子が空を見上げる。ぼやけた春の星が美しい。
「そうかなって思ってはいたの。仕方ないわ。次に住む人が庭を大事にしてくれる人ならいいんだけどな」
ぽつりと言う。浩二は、胸の中が苦いものでいっぱいになるのを感じた。
「……違うんだ」
「え?」
「この家は取り壊される。それで、庭も全部潰して、アパートができるんだ」
紅子の目が瞬いた。
「紅子の木も……伐られて、なくなるって」
少女は、しばらくきょとんとした顔のままでいた。それから、じわりと絶望の色が顔いっぱいに広がっていくのを、浩二は心臓の痛みを感じながらじっと見ていた。
「私、居なくなるの?」
元々あの木は老木で、大きな洞もできているし、咲くのもあと数年くらいだ、と叔父が言っていた。あの木が好きなのはわかるが、諦めなさい。仕方ないことなんだ。
「嫌。嫌よ。伐られて居なくなるのなんて」
頭を振る。黒髪が揺れた。
「何代もこの家を見てきたのよ。どうして今さらそんなことをするの」
「俺だって、こんなこと言いたくないよ」
祖母が亡くなった時から抱いていた不安。彼はまだ無力な大学生で、家を守ることなどできなかった。紅子のことは誰にも話してはいない。信じてもらえるわけもない。それで、彼は今ここに来た。せめて、自分の口から終わりを告げるために。
「…………」
紅子が俯き、口を閉ざした。受け入れられるはずもない。自分の無力さが重りのようにのしかかる。苦い味が、口の中に広がるような気持ちがした。
「花が散るまでは、ここにいるから」
せめて、やがて居なくなる彼女の力になるために。彼は紅子の小さな手を握った。彼女は、握り返さなかった。
夜中、ふと彼は目を覚ました。頭がなんだかぼんやりする。煙草を我慢していたせいだろうか。
(一本くらい、いいよな)
手探りで荷物を探る。紅子が呆れる顔が目に浮かぶようだった。
紅子。彼女はあの後、一度も彼の方を見なかった。仕方なくそのまま置いて布団に入ったのだが。
木を守ることは何でもやるつもりだった。だが、一人の大学生の力がどれほどのものか。浩二を取り巻く社会は、何も知らないのだ。彼が今、初恋の、年に一度しか会えない恋人を失おうとしていることなど。
煙草を取り出し、咥える。ライターがない。がさがさと探すが、どこにも見当たらない。おかしいな、と着ていた服のポケットも探るが、ない。
少し、嫌な予感がした。その時、外から何か物音が聞こえた。
浩二は跳ね起き、窓と雨戸をがたがたと開けた。月の光の中、紅子の後ろ姿があった。彼に気づいたかどうか。彼女は手にした何か小さいものを見つめ、自分の黒い髪に押し当てた。ライターだ、とその時気づいた。
ぼうっ、と音がした。紅子の髪が燃えた。桜の木の、高い場所にある花が同時に火に焼けた。
やめろ、と叫んだ声は、勢いよく花から花、枝から枝、そして紅子の全身に燃え広がっていく炎の勢いに呑まれた。ぱちぱちと音を立てて燃え盛る火は、闇夜を明るく照らす。
浩二は、半狂乱で上着を紅子に叩きつけ、とにかく火を消そうとした。消えない。紅子は苦しそうな様子も見せずに炎に巻かれ、黒くなっていく。やがて誰かが通報したのだろう。消防のサイレンが聞こえる。早く来てくれ、早く。浩二は祈った。誰とも知れぬ相手に向かい。
浩二が面倒なあれこれから解放されたのは、翌日の夕方のことだった。小火で済んだとはいえ、不審火を起こしたのだ。叔父と叔母の口添えで、なんとか放火か何かのようだという話に持ってはいけたが、彼はかなり憔悴していた。どさりと縁側に転がるように座る。
「まあ、休みなさい、浩二ちゃん」
付き添いの叔母が優しく言った。彼は胡乱な返事をし、桜の木を見つめる。木はすっかり焼け焦げ、上の方の枝は焼け落ち、昨日までの半分ほどの大きさにまでなっていた。真っ黒なシルエットは、助けを求めてもがく手のようで、苦しい。
紅子は、どういうつもりだったのだろう。せめて自分で終わらせるつもりだったのか。それとも、彼への当てつけか。彼女は苦しむ様子を見せなかった。そして、彼の手の中で不意に風のように消えてしまったのだ。
「浩二ちゃん、ほら、お茶が入ったから」
叔母が盆を持って現れた。彼は頷き、湯のみを受け取った。
「本当にねえ、浩二ちゃん、あの木が大好きだったものねえ」
叔母が残念がる。木を残すよう頼んだ彼を、唯一相手してくれたのがこの叔母だった。
「こんなになっちゃって、まあ……あら」
叔母が、雑草の残骸の転がる庭に出ていく。桜の木の下まで歩いていき、そしてしゃがんだ。
「浩二ちゃん、ちょっと来てみなさいな」
彼はゆっくりと立ち上がり、ふらふらと歩いていった。変わり果てた庭を。
「ほら、ここのところ」
叔母は幹の根に近いあたりを指差す。そこには、ほんのりと薄紅の桜の花が一輪、しがみ付くように咲いていた。
「一輪だけ残ってたのねえ。木はまだ生きてるんだ」
叔母の言葉に、彼の中で何かがこみ上げた。彼女はまだ生きている。人の姿を失い、花と枝のほぼ全てを失い、未来すらなくとも、今ここに生きているのだ。彼はそっと黒く変色した幹に触れた。これまでの恋の全てを込めて。
守れなくて、ごめん。ごめんな。紅子。
涼しい風が吹き抜けた。ふと、彼は後ろに何かの気配を感じた。どこか懐かしい気配を。
「紅子?」
振り返る。そこには、彼の愛しい人が立っていた。髪から皮膚から着物から、全て焼け焦げた、禍々しい黒い姿で。
「浩二ちゃん」
掠れた声が、彼女の喉からほとばしる。彼は、思わず一歩後ろに下がった。
「約束したよね、花が散るまで一緒にいるって」
どさ、と尻餅をつく。叔母がそんな彼を怪訝そうに見る。
「私、消え損なっちゃったみたい」
瞼のない濁った目が、彼を真っ直ぐに見た。指が伸びてくる。袖はかろうじて焼け残ったのか、花びら模様が痛々しい。
「でも、浩二ちゃんは一緒にいてくれるでしょ? ねえ?」
彼はぞっとするような気持ちで後ずさり、そして、一輪だけ残った桜の花を自分の手で毟り取った。
紅子は、声も出さず、跡形もなく消え失せた。
どこからか、風に乗って桜の花びらがふわりと舞い落ちた。そろそろ満開の頃合いだろう。
浩二は、地面に額を叩きつけ、狂ったように慟哭した。手の中で、くしゃくしゃになった花一輪は少しずつ生命を失っていこうとしていた。
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