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オリンピックに思うこと

まだオリンピック終わってもいないんですけど、タイミング的に今を逃すと書かなくなる気がして、フレッシュなうちに思ったことを書き残しておきます。

この状況での開催の是非ということ

はじめに、私は単純にオリンピックを開催するという事については賛成です。(でした。)
勿論、医療的なリソースが逼迫している中でそんな事が許されるのかとか、いろいろな議論はあると思いますし、個人の意見は個人の意見として尊重します。反対する人には、反対するだけのバックグラウンドのような事もあるのかなと思います。ただ、私の目に映る範囲でのいろいろなことを考えるならば、オリンピックが開催された方が、色々と勉強になりそう。
高度経済成長の最中、日本復興の象徴として語られる東京五輪、その6年後の大阪万博。私は20世紀少年という漫画を読んで、全く心を動かされなかったのですが、彼らの世代がしばしば語るオリンピックや万博というものが、何なのか。すごく興味がありました。
私はギリギリ「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれた時代を小さい頃に目にした世代ですが、それも本当に小さい頃の話で、実質的にはほとんどそのような時代を知りません。まして、高度経済成長を成し遂げた空気感など、全くわかりません。
そのような一時代のシンボルとなったイベントに、興味があったのです。
今、日本は長く閉塞的な時代を歩んでいるとされます。それが真実なのか、私はまだあまりわからないのですが、経済成長という意味では日本は他の国と比べて30年ほど時が止まったような状態で、時価総額のランキングでもアメリカの企業と互角以上に渡り合っていたのが、今では見る影もありません。
老人国家である日本は、60代70代80代が国の舵を取っている。その老人がかつて若者であったころ、成長の象徴であった50年以上前の出来事を日本に再現して、なんとか日本を盛り上げられないかと考えている。
なんとなく、日本国という単位では、それが成功しないであろうという空気感はありました。オリンピック開催まで、常にネガティブなニュースが流れ続けていました。それでも、いま国の舵を取る老人たちが思う夢は一体なんなのか。そういう事に興味があって、そしてまた一方で、それ以外の"カンフル剤"を自分が見出だせない事もあって、とりあえずはやる方が、やらないよりはずっとましだ。そのように思っていました。
これはただの思いであって、理屈でもなんでもなくて、そのような気持ちだけで私は開催を支持しています。(いました。)
ただ、この思いは本編とは全然関係ありません。以下の"本編"ではもっと卑近な、見ていて思ったことを書き連ねていきます。

開催されるからには、それを自分の血肉にするということ

開催を支持するも支持しないも、オリンピックは始まる事が決まり、始まりました。
実績ベースでいえば、私が生きている間には日本では行われない可能性の方が高い、夏季オリンピック。それが開催されるからには、個人として血肉にしないともったいなすぎる。
この後50年以上、何かと折に触れて思い出されるイベントになるとしたら、それはもう、心に刻み込まないともったいなさすぎる。5年後、10年後、20年後、思い出話ができないのは、確実に損だ。見ないという判断はありえない。
そう思って、普段はほとんどつけない民放も含めて、テレビをずっとつけて競技を見ることにしました。斜に構えてもあまり得られるものはなくて、経緯に色々思うことがあるにしても、オリンピックのポテンシャルを自分の為に利用できないとすれば、もったいないなという思いで。

娯楽としての面白さと、単なる娯楽を超えて感じること

少し失礼な意味ではありますが、オリンピックの放送は、本当に娯楽・コンテンツとしてよく出来ています。面白い。
放送の技術も進化していて、単に生で見る以上にわかりやすい表現・補助が為される場合もある。競技を全く知らなくても、わかりやすくルールを説明してくれる。なんとなく気分を盛り上げるための実況と解説もある。競技の合間時間を過ごすための、オリンピアンによる解説みたいなものまである。国民的アイドルと言って差し支えないであろう嵐が歌う、当代随一であろうヒットメーカーの米津玄師が作った曲を背景に(一年ずれてしまって嵐は活動休止したけれど...そしてNHK限定の話だけど...)。
単純によく出来ていて、面白いです。
季節は違うけれども、長野五輪とか、あるいは夏で言えばアトランタとかシドニーとか、大学生になってから観たアテネや北京も、オリンピックの時期ってこんな感じだったな、みたいなことを思いました。日本開催、ほとんど関係ないんですけど。

柔道がとにかく面白くなった

ジャーン

なんだこのドラ、アニメの演出かな?
GOLDEN SCOREって書いてあるけど、なにこれ?
というか、有効とか効果は?

私は6年ほど柔道をやっていたのですが、2012年以降はほとんどテレビも観ていなくて、私の知らない柔道がそこにありました。
私が最初に観た試合はGOLDEN SCOREの末の反則負けで、なんやこれと思ったのですけど、観続けていると、どうも反則以外では技あり以上がつかないと試合が終わらない。
これは面白い。
とにかく技をしっかりかけるという、JUDOではない柔道みたいな、私が柔道をやっていた20年ぐらい前に盛んに言われていたような事が、ルールとして結実したものがそこにありました。めちゃくちゃ面白い。

これのおかげで、それまで全然気付かなかったことに気付きました。
特に今のルールの柔道は、他の競技と比べて、ポイントが蓄積していくという要素がかなり少ないです。
卓球、テニス、バレー、バドミントンみたいな競技では、小刻みに点を重ねて、それによってゲームを取り、複数のゲームの結果で勝者を決します。フェンシング、アーチェリーでも同じです。要所では「このセットを取られたら終わり」という事があったり、流れを変える一撃みたいなものはあっても、ルール上厳密に勝敗を一撃で決するものはありません。
レスリングは、テクニカルフォールやフォールもあるので、まだ柔道に近いですが、それでも今の柔道の一撃必殺とは一歩距離を感じます。ボクシングも、ことオリンピックに関して言えば、ほとんどが判定です。

このように、柔道は試合時間の間のルール上のポイントの蓄積が他競技と比べて少ない上に、常に一瞬で試合の勝負そのものが決まりうるという緊張感があるのでした。
そんなことを、私はこの歳になるまで全く自覚していなくて、とてもびっくりしました。6年間柔道をやって、段も取ったのに...
この歳になって、ようやく他の競技と「競技性」を比較するという能力が身についたという事かもしれません。はずかしい。
とにかく、その驚きと同時に、柔道のユニークさ・競技としての魅力ということを理解して、だからオリンピックでも国際的な地位を保てるのだな、という事を思ったりもしました。
今回のルールは、確かに日本に有利な/日本が理想としてきた柔道を強く反映したルールであるとはいえ、それこそ団体の決勝戦で日本が敗れたように日本にだけ有利なルールという事でもないです。そのような意味では、やはり国際的な競技・ある種の普遍性を持つ競技なんだなという事を改めて思ったのでした。(競技人口も、日本よりフランスやブラジルの方が多いです)

こういう、ルールが変遷していくものであるという事も、20年ぐらい前に一応理解はしていたものの、全然意識していませんでした。この辺も自分の弱い部分だな、ということを思ったりしながら、色々勉強になるなあと思って観ていました。

新井タイマゾワ戦は、おそらく私が過去に観た試合の中で最も異質な試合でしたが、あの試合を結果を知らずにリアルタイムにすべて観られたのは、すごく運のよいことだったと思いました。

スケボー、発展途上の競技と、独自の文化性と

今年から競技種目になったスケートボード。スケボーで感じたことは、大きくは2つあります。1つは、発展途上の競技はこうやって育っていくんだな、というような感覚。もう1つは、一人でチャレンジをするタイプの種目における有利な戦略のあり方について。

発展途上の競技という事でいうと、たとえば10代前半が表彰台を埋めるという状況について。競技の性質として、小さくてもその分アクロバティックな動きをしやすい事もあるとか、フィギュアスケートに通じるような要素もあると思いますが、個人的にはそれ以上に競技としての成熟度もあるのかなと思ったりしました。
スポーツとして成立して、小さい頃から真剣にやる人が増えて、その人達が10代前半から華々しい成績を収める。この世代がさらに育つと、20代前後でもすごく強い人達が今以上に揃ってくると思うのですが、まだ競技として育ち盛りの今は、20代前後でかつ小さい頃からずっとやっているという人が相対的に多くない。技術的にもまだまだ研究が進んでいないので、小さい子の才能がより通用しやすい。
そんな事を、勝手に考えています。これは勝手な推測なので、全く事実と異なる可能性もありますが。
そのような競技のライフサイクルみたいなことを考えたとき、これから伸びていく競技というのは、それ自体の魅力があるなあと思って観ていました。

もう一つ、一人でチャレンジをするタイプの競技の戦略について。
これは、体操などでも共通すると思いますが、形式的には対戦相手がいて得点を競うものであっても、得点の獲得方法が直接的な対戦ではないというタイプの競技があります。そのような競技においては、自分自身がいかに良い演技を行うか、という事が焦点となります。
もちろん、相手との得点バランスの兼ね合いで、チャレンジングな技を出す必要があるとか、逆に無難に勝ちに行くとか、そういう駆け引きの要素はあります。ただ、この種類の競技においては、演技中に相手の心理をその場で読むとか駆け引きをするという事ではなくて、純粋に演技そのものに集中するという事の方が重要です。
そのような場合は、他の人、例えばまさに自分と競っている競争相手が良い演技をしたときに、その演技を"自分のもの"として受け止めて気分を高揚させた方が、自分の演技において良い影響を与える可能性があります。つまり、競う相手が成功してきたからもうだめという感覚ではなくて、競う相手が成功してきたことを自分の成功体験のようにも捉えて、自分も同じ場に立ってきれいに演技できる、みたいな捉え方をするという事でした。
スケボーの場合は、他の人の演技の成功を、"敵"も含めてその場で称賛するという習慣が他競技よりも特に強かったように感じます。それは、例えば練習場をなかなか確保しにくいとか、競技者が(少なくとも日本では)あまり多くない中で同じ趣味を共有できる仲間であるとか、そういった文化的な側面もあるでしょう。でも、それだけではなくて、純粋に競技におけるメリットみたいなものが、もっとわかりやすい形で存在しているんじゃないかな、という事を感じたのでした。

この視点は、私は今の自分の仕事においても重要な視点なのではないかと思っています。世間では心理的安全性ということがいろんな場面で謳われるようになってきていますが、そのような考え方とスケボー文化の親和性みたいな事は自然に感じられます。それを一歩進めて、上で述べたような競技におけるメリットみたいなことを考えると、スポーツだけではなく仕事においても、分かりやすいメカニズムがあるのではないか、というような事を思ったりしたのでした。さらにメカニズムを理解すれば、逆に心理的安全性という事だけではない、もっと他の要素も含めたあり方を考えられるかもしれません。
スポーツと仕事は、ルールの決め方や責任の取り方、対象とする範囲、などで差があります。その辺、同じ部分と差がある部分を整理して理解できるといいなあ、みたいなことを思っていました。

セーリング、もう少し見ればよかったな

ヨットも6年ちょっとぐらいやっていた事があって、セーリングの放送にも興味はあったのですが、実際に観たのは最後の最後、メダルレースだけでした。
昔よりも放送技術が進化していて、すべての艇にカメラが搭載されていたり、コースが追跡線で表示されたり。さすがに、風の振れに合わせてその場での順位をつけるみたいなのはやりすぎだと思いましたが(角度が変わると順位がめちゃくちゃ変わるので、一般には"前を通るまで順位は確定しない")、色々面白いなあと思いました。
タック/ジャイブの様子や、スピンを上げる様子を観ていても、色々懐かしさがあって、もうちょっとちゃんと観てもよかったかな、というような事を思いました。先輩がボランティアに参加すると言っていたけど、結局参加できたのかな...

企業単位で維新を起こす

また柔道の話になってしまいますが、柔道は結局メダルをたくさん取って、井上康生の指導方針が本当に良かったんだなということを勝手に思いました。なんでも、井上康生はリオの前に監督就任した際に、以下のようなことを考えていたそうです(ネットで流布しているもの)

井上康生
・日本の指導方法は世界最低。30年前と同じ指導方法では世界と戦えない
・日本はJUDOを追い求めてはならない。なぜなら技術もパワーも劣っているから
・日本は一本にこだわらなければ世界一に辿りつけない。体力が無いんだから
・日本の選手は5試合フルで戦えるスタミナは無い。
・得意技一つで世界を征する時代は終わった
・日本が言う技術とは心理的要素で身体的要素に伴わないモノ
・日本の柔道は世界に取り残されるのではなく既に取り残されて10年くらい経っている
・根本的に強化してリオでは全階級でメダルを狙える位置に絶対に持っていく

たしかに、日本の選手はみんな背負も内股もできて、当然小内や大内もあるし、肩車みたいな技もあったりする。豊富だなあ、と思っていたんですよね。ルールはより「柔道のルール」になったし。
この話、どこまで正しいのか確認をしてはいないですが、そのような趣旨の発言であったり、実際に留学して指導方法を身に着けたという話もあって、表現の細かい部分はあっても概ね正しい内容であろうと理解しています。
これを実現した井上康生。井上康生に倣えば、日本の閉塞感をもっと打ち払うことができるのでは、と私は思いました。
井上康生がやったことは、つまるところ柔道界に"明治維新"のようなものを起こしたということだと思っていて、つまり「外国の進んだ知見を取り入れた上で、日本にあったやり方を追求する」という事だと考えます。
私がいま居るフィールドは、スポーツではなくビジネスなので、ビジネスでも同じことをしないといけない。企業でも、そういうことに取り組んで行けば、きっと夢と活力のある仕事を創ることができるのかな。そんなことを、改めて思いました。
柔道とスケボー以外でも、卓球の混合団体の金、サッカーの4位、色々と感じる事はありましたが、総じて日本はスポーツでは決して悪い位置にはいないし、未来もある。これと同じことができれば、閉塞感はなくなるはずで、そのためにどうするかを考える。そういうことかな、と。

普段、これまでずっと考えていることと大きく変わるわけではないですが、しかしオリンピックを通じて、確実にいろいろな力を受け取ったような気がしました。(この記事を書いている今の時点では、まだ終わってないですが!)

さいごに

新型コロナが拡散している状況にあって、オリンピックそのものがそれなりに統制されていたとしても、他の人に誤ったメッセージを与えてしまう可能性は十分ある。もちろん、オリンピック自体のリスクもある。
少なくとも、手放しで開催を称賛できる状況でないという事はわかります。ただ、それはそれとして、そのような状況であっても開催された物は、味わいつくさないともったいないし、そのための労力も無駄になる。
批判を受けざるを得ない人事であったり、商業主義的な側面であったり。(少なくとも部分を切り取れば)理念に反している事があったとしても、それでも大義を持って開催されたオリンピックなのであって、そこから学ばないのはもったいないし、そのエネルギーを良い物事に変えたい。
色々と失望してしまった人も多いのかなと思いますが、私にとっては、考え事を整理したり刺激を受けたりするいい機会であり、また(失礼ですが)よい娯楽でもありました。
感染症みたいな事も含めれば、真の結果が出るのはこれからですが、オリンピックを通じて私自身は良い影響を受けることができました。ありがとうございます。

※特定の政党等を応援する意図があっての記述ではない、と記しておきます。私は維新の党を必ずしも支持しているわけではないです...


ところで、冒頭の画像の傘、どこに行ったんでしょうね。まだあるのかな。

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