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文学座「オセロー」@紀伊國屋サザンシアター 観劇感想

「オセロー」には、いくつもの「なんで?」がある。
「なんで?デスデモーナはオセローを選んだのか?」
「なんで?オセローはイアーゴーの計略にひっかかったのか?」
そして一番大きい「なんで?」は
「なんで?イアーゴーはそこまでオセローを憎んだのか?」
今回の文学座さんのオセローの中では、その「なんで?」の問いに対し「このカンパニーではこう考える」という提示がされている「なんで?」もあれば提示されていない「なんで?」もあったように感じた(細かくは後で)。

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私にとって文学座さんは「新劇をちゃんと観てみよう!」と思い立った時の入口になって下さった劇団で、今回イアーゴーを演じてらっしゃった浅野さんは当時、殿様である鷹さんの車夫だった(2007年の「殿様と私」ですかね?鷹さんの殿様が大好きだったんですよね当時)。あの作品も多分、文学座さんの本公演で(したか???)劇場も紀伊國屋サザンシアターだったような?うろ覚えな記憶がありますが、当時も劇団の層の厚さに(わ~!すごっ!)と思ったし、今もまた、変わらぬように御見受けした層の厚さに(わ~!変わらずでよかったな~!)と感じ、個人的な懐かしさもあったりして。いつでも御参りできる実家近くの名刹みたいな存在?(ちょっと違うか笑)

横田さんは外部公演や映像でお見かけする機会の多い方でしたし、今回、皆様ご存知のように2年ほどのお休みを経て舞台に戻ってきて下さった。その事は(実際に舞台を拝見して)本当に良かったなと心から思うし、これからも無理のない範囲で舞台に立って下さったら嬉しいなと願ってます。
saraさんは今回が文学座さんの本公演初出演とのことで、こうしたお歴々(笑)の中で言葉に出せないプレッシャーがあったかも?しれない中で、存在感のある姿に将来が楽しみになったので益々の御活躍を願ってます。
他にも高橋さんや石橋さんetc、御自分の役割をきっちり果たす面々の素晴らしさを楽しませて頂いたとも想う、それも本心。

ただ今回、「オセロー」という作品に対し、文学座さんがカンパニーとして色々な「なんで?」に対して「提示されたもの」「提示されなかった(ように観客には思えた)もの」があったので、一人の観客として、作品に対する正直な観劇感想を書きました。
(兎角、こうした状況の作品だと、御祝いムードに水を差すな的なご意見が飛んできたりもするのですが、人情と作品に対する観客の感想は別の次元だと個人的には思うので、そうした方はここで御帰り頂くのが互いの吉かと思います。)



文学座本公演『オセロー』
公演期間:2024年6月29日~7月7日(東京)ほか
会場:紀伊國屋サザンシアター
作:ウィリアム・シェイクスピア(小田島雄志翻訳)
演出:鵜山仁
出演:石川武(ヴェニスの公爵)
  :高橋ひろし(ブラバンジョー、グレーシアーノー)
  :柳橋朋典(ロドヴィーゴー、役人)
  :横田栄司(オセロー)
  :上川路啓志(キャシオー)
  :浅野雅博(イアーゴー)
  :石橋徹郎(ロダリーゴー)
  :若松泰弘(モンターノー)
  :sara(デスデモーナ)
  :増岡裕子(エミリア)
  :千田美智子(ビアンカ)
  :萩原亮介(役人、紳士、従者)
  :河野顕斗(役人、紳士、従者)


あらすじ

ヴェニス公国に仕える将軍・オセローは、元老院議員・ブラバンショーの娘・デズデモーナと愛し合い、ブラバンショーの反対を押し切り、結婚をする。一方、オセローの忠臣であるイアーゴーは自分ではなく、キャシオーが副官に任命され、オセローへ恨みを持っていた。憎悪と嫉妬を抱くイアーゴ―の巧妙な策略により、物語が複雑に絡み合い、オセローとデズデモーナは破滅へと追い込まれていく…。

文学座「オセロー」公式HPより引用

以下、東京公演の観劇感想です。
(観劇日:2024.07.05ソワレ・2024.07.06ソワレ 2公演)
公演内容に触れていますので未見の方は御注意下さい。
なお、個人の感想です。




<1> あらすじ自体が落とし穴


今回のパンフレットにも掲載されていた作品の「あらすじ」をこの記事の少し上にも引用しておきましたが、まぁ、どのカンパニーの「あらすじ」にも大抵書いてありますよね?、この文言。
一方、オセローの忠臣であるイアーゴーは自分ではなく、キャシオーが副官に任命され、オセローへ恨みを持っていた。』
私自身、5日の初見の時に(あれ?)と引っ掛かるまで思い込んでました。イアーゴーがオセローを憎んだのは副官に選ばれなかったからだと。
人間、(そうなんだ・・・)と思い込むと、そういう風に芝居を観ちゃうところがありませんか?「あらすじ」によって無意識の内に誘導されているようなもので。

でも、よ~~~く思い出してみて下さい。
イアーゴーがさりげなく語ってる場面があって(=自分が居ない時に自分の鞍に乗ったやつがいる ※大意)、勿論、実際に自分の馬に乗られちゃった話ではなく比喩で、要はエミリア(=鞍)が浮気した、という噂を知っているけれど確認のしようもないし妻を捨てることも出来なくて、ずっと悶々としてきた。しかもその浮気相手こそ上官であるオセローだとイアーゴーは思い込んでいる。
噂を知ってからの月日がどれくらいの年月だったのか?はわかりませんが、オセローから副官に任命されなかったどうこうの話以前に、とってもプライベートな私怨がイアーゴーとオセロー2人の間の土台にあった、というのが今回の文学座カンパニーの提示の一つかと。



<2> なんで?デスデモーナはオセローを選んだのか?


もう、この「なんで?」が観客の腑に落ちたら、作品としての「オセロー」は半分以上、立ち上がったも同然なんじゃ?(それは言い過ぎw)と、個人的にはそう思うほど、作品の核に関わる部分だと思われませんか?

① 大前提

先ず、この話をする時に、大前提の確認が必要で、それは「中世と現代、どっちの価値観で芝居が創られているのか?観客は観るのか?」問題。
古典を現代の感覚のみで観てしまうと何か捉え間違いをしてしまうことがあるし、かといって当時の常識や置かれた状況のみで考えてしまうと今の自分とつながらない。じゃあ、今回、文学座さんはどっちで届けようとなさってるのかな?と考えた時、今回、登場人物の基本的な行動の基準は「当時」に見えました。

では、当時の価値基準や社会状況の確認。
当時としては、デスデモーナはとても大胆な人物です。
時代は中世ですから、基本、女性は自活出来ない(そもそも女性が働けるような職種が殆ど無い)。
あの時代の女性は家長の財産であり嫁しては夫のもの。自分自身で働くことが許されず(当然、人生の選択において自由も無い)家長や夫の後見を失えば死ぬか娼婦に身を落とすしかない時代であり社会だった(オセローの中の基本的な思考はカトリックですしね)。

良家に生まれ、それに相応しい教育も受けてきたであろうデスデモーナ。自分の意志で結婚相手を選ぶ(しかも事実婚をしてしまう)ことが、どんなに危険なことなのか?(最悪、父親から見放され、夫の心変わりがあれば自分は死ぬしかない運命を自分で選ぶことだから)
そんな事例は子供の時からみてるだろうし、そうした社会であることも骨身に染みてるはず。それがデスデモーナの前提かと。


② なんで?デスデモーナはオセローを選んだのか?

その事をデスティモーナ自ら語るのが元老院の場面。
デスデモーナがオセローの「武勲」などという外側に惹かれるのか?国に対する誠意や愛情と、自分自身に対する誠意や愛情は全く別物だということくらい解らぬような愚かな娘ではないだろうに。
だからこそ「武勲」ではない「何か」に納得できないと「デスデモーナが何故オセローを選んだのか」が腑に落ちない。

劇中でデスデモーナは、オセローが語る話に「軍人としての人柄に惹かれた」というくだりがあったように記憶しているけれど(違っていたらごめんなさい)、最後の場面から逆算して思い返していった時、自分がオセロー本人に誠意を疑われ殺されてもなおオセローを想い愛情を失わなかったと感じられる様子に違和感を抱かずに済むだけの「なんで?そこまでオセローを愛せたのか?」が(少なくとも私にとって)この元老院の場面から受け取れなかったんですね、一人の同性として彼女の生き様を考えた時に。
ここが「オセロー」という作品の難しさ(観る方にとっても)でもあって、そういう時代であり価値観(社会)だった、だけでは説得力が無さ過ぎて。

その先で。
ムーアという呼称は侮蔑ではないのでしょうか?
あの状況で、父親に夫となった人の経緯を話す元老院の場面で、何故「ムーア」と夫になった人を呼ぶのでしょうか?
「武勲」ではなく「武人としての人柄」に惹かれたのなら、ムーアという呼称を使いませんよね、侮辱の意味合いがあるのなら絶対に。そうした細かい矛盾を感じるのは自分だけでしょうか。

オセローを演じらえた横田さん御自身が持つ人柄がにじみ出てらっしゃるというか、オセローが将軍として皆に尊敬と好意をもって「高潔な人」と呼ばれることに違和感を抱かせない存在自体の納得感と愛嬌と、同じく存在自体の納得感を感じるsaraさんのデスデモーナ。
人が恋に落ちるのは5秒かもしれないし、実際、この二人なら「ひとめぼれ」という恋の落ち方だったかもしれないとも想像するけれど、かといってデスデモーナほどの女性が恋心だけで自分の人生を博打にかけたのか?と納得出来るほどの愛の深さにはどうしても思えない。

ここなんですよね。
私が感じている、今回の文学座さん版の「オセロー」の中で、一番「なんで?」に対する腑に落ちなさがあるのは。
オセローに貞節を疑われ(それは自分自身を否定されたことに外ならず)首を絞められて殺されたデスデモーナが、死してもなお、自分の中の愛情を消し去れぬままオセローの顛末を見つめているあの表情を拝見しながら、そこまで愛したことに対する腑に落ちるものが元老院の場面に確固として存在していないと作品が立ち上がらないように思えて。
最後に「ここか・・・」と立ち戻れるような強く響いた場面が元老院にあれば、彼女の選択も、最後までオセローを愛し続けるデスデモーナの心情も腑に落ちるのかな・・・と思う。

(誤解が生まれないように補足すると、それは元老院の場面に出てらっしゃる演者さん達の問題ではなく、場面自体における上演台本の問題じゃないか?と、私個人は感じてます)



<3> デスデモーナは男性性が求める妄想?(天使?)


<2>の中でデスデモーナという女性を考えてみた時に、どうにも女性としてのリアリティーが無さ過ぎる反面、エミリアの選択はリアルに思える。この両極端な二人を同時に見比べることが出来る最後の場面を思い返すと、これって対比だったのかな?という思い付きが芽生えて。

例えば、デスデモーナが殺される前後でエミリアは何度となくデスデモーナのことを「天使」だと言うけれど、「天使」って架空の存在だし、そもそもリアルな人間ではなくて。
仮に「天使」のイメージが「清純・慈悲深い・美しい」などを含むなら、「天使」と呼ばれるデスデモーナならば、愚かな男(夫)が誤解によって妻(自分)を殺してしまおうとも、その非を無条件で許し、夫が天国に行けるように、その慈悲をもって夫の魂を救う図が「自決したオセローを抱きしめるデスデモーナ」だとしたら、これはもうシェイクスピアを始めとする男性側が自分達にとって理想的な(都合が良いとも言う)「天使像」を女性に求めてる象徴なのかも?とも後から思い返せば想像出来なくもない。ここまでくると、もはや妄想の域かと。

女性側からの視点でこの時のデスデモーナを観ていると、まぁ、ありえないよね・・・という感想しか生まれないけれど、対となるエミリアは?と思い返してみれば。
彼女も夫であるイアーゴーを愛していたし妻として尽くしてもきた(夫の為にデスデモーナに仕え、頼まれたハンカチも手に入れ夫に渡した)けれど、夫がしでかしたことでデスデモーナが命を奪われた(そして自分も加担してしまっていた)ことを心から悔い、懺悔として今までの総てを話す。その妻を口封じの為に殺害する夫イアーゴー。
捉えらえ、処刑が決まった夫のイアーゴーの直ぐ側で、絶命したエミリアは冷ややかな目で元夫だったイアーゴーを見つめる。この判断と様子は現代の女性から見ても違和感がない選択に思えて、そういう意味では、男性性の妄想(デスデモーナ)の対極にあるリアルな女性像なのかもしれない。



<4> なんで?イアーゴーはそこまでオセローを憎んだのか?


<1>のあらすじの所にも書きましたが、キャシオーが副官に任命されたことが本当の原因ではない。それより前に、オセローという人間は高潔という評判とは裏腹に部下の妻に手を出すような悪党だとイアーゴーはオセローを恨んでた。男の沽券に関わる、言わば、プライドを傷つけられたことをイアーゴーは根深く恨んでいた。いつか、復讐する・・・その為にオセローの部下であり続けたのかもしれない。
そういう意味で、「オセロー」という作品の中で描かれている事の顛末は、イアーゴーからオセローへの「意趣返し」だと思う。

目には目を、浮気には浮気を
イアーゴーという男は頭がいい。
只の意趣返しではなく、自分が受けた苦しみ(妻を寝取られた)をオセローにも味合わせなければ、気がおさまらない。オセローとデスデモーナが結ばれたことで、復讐のチャンスが整ったとみたイアーゴーは用意周到に策を練っていく。
イアーゴーにとっては「やられたから、やりかえす」だけのことで、最初に手を出したのはオセロー(だと思い込んでる)なのだから罪の意識も然程なかったのかもしれない。この復讐が成就してこそ、武人としての自分のプライドが守られる。言わば「名誉」を取り戻す為だったのでは?

逃亡後、捕まったイアーゴーは言う「何も言わない ※大意」と。
動機を言えば、自分の妻が寝取られたことに触れなければいけない。先に罪を犯したのはオセローだと言えば多少の情状酌量がされるかも?しれないけれど、イアーゴーにとって何よりも守りたかったのは、自分のプライドだったのかもしれない。



<5> なんで?オセローはイアーゴーの計略にひっかかったのか?


自分に後ろめたいことがある人は、無意識の内に周りもそうだと思うもの。
自分に浮気癖があるから、妻もそうだと思い込む。あ、愚か。
ま、その辺りは劇中でもエミリアが詳しく理路整然と解説して下さってますよね(笑)

イアーゴーがオセローを落とし込む過程の中で、自分の妻エミリアとの噂があることも知っているとオセローに匂わせるくだりがあるけれど、あの時にオセローが目を泳がせるんですよね、多分、そういうことに関しては小心者なので。イアーゴーから見たら自白したも同然の態度。
実際のところは?と考えた時、エミリア側から想像すると。
オセローは邪なことを考え手を出そうとした(なので、オセローは心当たりがあるので目を泳がせた)けれど、エミリアに追い返されたっていうところが事実なのかもしれない。だからこそエミリアは自分の貞節を疑い今回の暴挙を犯した夫を見限ったのかと。(それまでは愛してたのにね)



<6> 似た者どうし


結局のところ、イアーゴーとオセローは似た者同士なんですよね。
妻の浮気が事実かどうか直接本人に確かめる勇気もなく、嫉妬に冒され、相手への憎しみだけを募らせていく。
元々は愛していたはずの妻を失い、数々の罪を犯し、名誉も失う。



<7> 信じあう難しさ


そうなる前に、話し合っていれば。
そうなる前に、信じあっていれば。

大抵の悲劇は、この2つで防げるのかも?しれない。
それほど、人と人が信じあい続けることは難しいですよね。
シェイクスピア自身、そういう体験があったのかも?しれないし、私自身、そうなれる自信なんて微塵も無い。

仮に。
その社会において、自分の立場がマイノリティーだったら?
「オセロー」の中では侮蔑ともとれる「ムーア」と呼ばれるオセロー将軍がマイノリティーなわけだけれども、マイノリティーに属する人間は得てして弱みを見せることに恐れがあるものだし、オセローにとってデスデモーナとの結婚を承認されるということはヴェニスの社会の中におけるマイノリティーから少し抜け出せるパスポートになるかもしれない。それ故に「失う恐怖」も「何故、自分を選んだのか?という疑心暗鬼」も強かったのかもね。

そういうところも全て人間が抱える弱さのようなものにあって、それは現代に生きる私達も同じなんだと思うんですよ。殺さないだけで。





だんだん、話がとっちらかってきたので(笑)


兎角、「オセロー」はオセロー(とデスデモーナ)の話だと思われるけれど、実際のところは、イアーゴーの話のようにも思える。
何故、イアーゴーが復讐(寝取った男には寝取られ夫の苦しみを)したか、何を守りたかったのか、そこが見えてくると「オセロー」という作品の中に作品の核のようなものが見えてくるように思う。

私が観劇し、感想を書く中で記憶を反芻しながら考えた中で、イアーゴーの想いに気付いたように感じた瞬間は、2つあった。
1つは、1幕ラストで、オセローのおでこに契約のようなチュをした時のイアーゴーの表情(一瞬、とても冷ややかになる)。
もう1つは、捕まった後、自白を促されても「決して言わない ※大意」と言い切ったこと。
その後のイアーゴーからは後悔のコの字も感じられない。彼の中には彼の正義のようなものがあるのかもしれない・・・と思った瞬間だった。

ま、それも観客の個人的な感想なので。
芝居は正解探しじゃないし、実際、色々な切り口が考えられる。
今、私が一番気になったり、今回の「オセロー」の中で腑に落ちた部分を言葉に落として共有出来るようにしたものです。

あと美術の話やちょろちょろ書きたい話もあったけれど、後日、追記するとして、とりあえず一旦終了。


作品と観客は一期一会だし、カーテンコールと同時に消えてしまう。
ここまで作品が育つのに、多くの努力を皆様がなさったんだろうなぁ・・・と思う時、その儚さと同時に、心の中に受け取ったものを「感想」という形にして返礼差し上げあるくらいしか観客が出来ることがないように思えて。
そんなわけで、関わられた方々の元にいつか届いたらいいなと思い、ネットという海の中へ小瓶に詰めた「感想」を流します。(ちゃぽん)