見出し画像

「BREAKING THE CODE(ブレイキング・ザ・コード)」@シアタートラム 観劇感想

何のストレスもなく、ただ、純粋に「作品」と出会える。その満足感。幸福感。当たり前のことのようで、案外、日本の現代演劇の中では満たされない経験をしたことがある方々も多いのではないでしょうか?
全ての過程が「作品」の為に行われ、「作品」そのものが立体的に立ち上げられた時、舞台上から客席へ純粋に「作品」が届く、そうした演劇としての美しさ&幸福感に長年溜まっていた心の疲れが癒されるようでした。

公演期間:2023年4月1日~4月23日 全26公演
公演会場:シアタートラム
上演時間:1幕(70分) 休憩15分 2幕(80分) 計2時間45分

原作:ヒュー・ホワイモア
演出:稲葉賀恵
翻訳:小田島創志
音楽:阿部海太郎
美術・衣装:山本貴愛
照明:吉本有輝子
プロデューサー:笹岡征矢
主催:ゴーチ・ブラザーズ

配役(公式HP掲載順)
亀田佳明(アラン・チューリング)
水田航生(ロン・ミラー)
岡本玲(パット・グリーン)
加藤敬二(ディルウィン・ノックス)
田中亨(クリストファー・モーコム、ニコスの二役)
中村まこと(ジョン・スミス)
保坂知寿(サラ・チューリング)
堀部圭亮(ミック・ロス)

概要・あらすじ

実在した男、アラン・チューリングの生涯を描いた「ブレイキング・ザ・コード」。コンピューターを発明し、この世界の在りようを大きく変えたはずの彼の功績は、何故隠され、何故41歳という若さで悲運な死を遂げなければならなかったのか。数奇なチューリングの人生が、日本で33年ぶりに蘇ります。

第二次世界大戦後のイギリス。
エニグマと呼ばれる複雑難解なドイツの暗号を打ち破り、
イギリスを勝利へと導いたアラン・チューリング。
しかし、誰も彼の功績を知らない。
この任務は戦争が終わっても決して口にしてはならなかったのだ。
そしてもう一つ、彼には人には言えない秘密があった。
同性愛者が犯罪者として扱われる時代、彼は同性愛者だった。
あらゆる秘密を抱え、どんな暗号も解き明かしてきた彼が、
人生の最後に出した答とは・・・。
悲運の死を遂げた彼の生涯を
少年時代、第二次世界大戦中の国立暗号所勤務時代、晩年と
時代を交錯させながら描いていく。

「ブレイキング・ザ・コード」公式HPより引用

人物相関図

「ブレイキング・ザ・コード」公式HPより引用

ちなみに、この「ブレイキング・ザ・コード」という作品のタイトルには2つの意味があって、一つは「暗号解読」そのもの、そしてもう一つは「法則や規則、ルールを破る」というニュアンスがあるそうです。まさに、な、タイトルですよね。そのことについて翻訳の小田島さんが解説して下さっています。

6分弱の動画ですが、作品の背景ですとか、とても解りやすい解説ですよ。


この作品のオンライン配信が決まりました。
配信チケットの販売先は ↓ こちら

視聴可能期間は、2023.05.14~2023.07.11まで。
配信チケットの販売は、~2023.06.12まで。
一度視聴し始めると、その配信チケットは1週間で有効期限が切れますので上記HPで視聴環境等を御確認下さい。

ここから先は作品の内容に触れています。
未見の方、これから配信を御覧になる予定の方は御注意下さい。
なお、個人の感想です。





さて、何から作品の感想を書こうかなぁ・・・と迷いつつ、ざっと下記内容で進めていこうかなと思います。
(1)作品の第一印象
(2)演出等のスタッフワークの感想
(3)演者さん達の感想
(4)最後に想ったこと
では。ちょっと長いかもしれませんが。がんばって書きます(笑)


(1)作品の第一印象

この作品の公式HPを御覧になられた方々は御存知かと思いますが、公演期間が3段階に分かれていまして(1st、2nd、3rd)、公演の内容自体は同じなのですが、1⇒2⇒3と公演が進むにしたがってチケット代が400円づつ上がっていきます。風姿花伝プロデュース等の作品も同じ方式をとってらっしゃいますが、演劇には劇場入りして初日を迎え客席に観客が入ってからしか積み重ねていけないものがどうしてもあるんですよね(実感として)。逆に言えば、このシステムは初日以降も作品を高めてみせるという決意表明のようなものかも?しれません。ちなみに、こちらに書く第一印象は初日の頃(1st)のものです。
※余談ですが、初日から素晴らしいスタートだったと私個人は思います。ここまでクオリティーの高い初日はめったにお目にかかれませんし、もう最初から3rdでいいんじゃ?とも思ったものでした(笑)

前置きが長かったですが。以下、1st近辺の感想です。
舞台を拝見する前に、以前、映画の「イミテーション・ゲーム エグニマと天才数学者の秘密」を観たことがあったものですから(カンバーバッチ主演だったので御覧になった方も多いかも?)、エグニマ解読までが作品の主になるのかな~?と漠然と思っていました。

始めて舞台を拝見した終演直後、一番この作品の中でいいな~っと想ったことは、チューリングという一人の天才の話、個人の話で終わっていないことでした。特別な人に起こった特別な話ではなく、現代にも繋がる普遍的な問題、多くの人が実感を伴って共有できる話になっていたことに何より惹かれたんですね。

確かに、劇中「エニグマ」に関する説明や数学用語なども出てきますし、数理論理学のくだりなども(チューリングの長台詞凄かったですね~)正確に理解出来てるとは自分でも思いませんが、例え、数理論理学の内容や歴史を正確に理解できなくても、それを語るチューリングの中の感情がどう変化していくのか(好奇心を掻き立てられているか?数学自体の美しさを感じているのか?、等)が感じ取れれば問題なくストーリーは理解出来るようになっていて、勝手な想像ですが、小田島さん(三代目)の翻訳含めて、その辺りの工夫も色々あったのかなぁ・・・?、と。
簡単に言っちゃうと、チューリングという人には数学オタク的な一面もあって。あの長台詞は正にオタク語りの骨頂みたいな面白さがあるんですよね。だから(言葉の内容そのものではなく)その様子がチャーミングで面白いんですよね。

ストーリー自体はチューリングの人生を主軸に据えてはいるのですが、あの時代に(1940~50年代のイギリスが時代背景になっています)生き辛かった人達の話でもあり、それは同時に、現代でも同じように生き辛い立場に置かれている人達(性差別だったり人種差別だったり)と繋がる話になっていると思いますし、昔の話でもなく、現代にも起こっているそうした人々と社会(宗教観や道徳観など)の問題や、そういう(自分にとって)理解不能だったり嫌悪感を持ってしまう人達との相互理解という可能性を考える術やヒントを観てるようにも感じられて。

天才。もしくは、その分野で優れた能力を持つ者。
それゆえに強い拘りを持ち、問題解決におけるロジック等についても、自分が解ってしまうが故に、解らない人達の気持ちが解らない。もしくは、社会通念とされるものとの相違に同調や協調できない。ある種、エゴイスティックな面もあって、解らない人間に対し説明するのも面倒だったり、間違いだと思う事には相手の逃げ場を封じるほど論破してしまう。本人は「正しい」ことを選んでいるだけだと思っていても、社会の中からは浮きますよね。

何故、彼が「正しいこと」と「間違っていること」に拘るようになったのか?その切っ掛けは、学生時代の親友クリストファー・モーコンの一言だったのではないでしょうか?
彼(クリストファー)はチューリングに言います。
『僕は正しいか間違っているか基準をはっきり持ってる』
(「悲劇喜劇」5月号より引用)
後に彼は十代の若さで結核により早逝してしまいますが、クリストファーのことを崇拝していたチューリングはクリストファーのこの信念を自分の信念にすべきものだと思ったのかも?しれません。
数学という、(社会の中では)ごく狭い分野において、特殊な才能を持っていた学生時代の二人。互いに、自分の能力、自分の感覚が解る理解者となり得たのでしょうし、チューリングにとって、生涯、それはクリストファーのみだったのでしょう。

クリストファーが(チューリングの家を訪ねた後に)残していったパナマ帽(ですかね?)は、劇中、チューリングの中のクリストファーそのもののように舞台上に佇んでいます。まるで見守るかのように(全部の場面ではないですけどね)。
クリストファーが生きていたら成し遂げたであろう偉業を彼に代わって成し遂げていこうとするチューリング。それでも、誰にもチューリングの本質は理解出来ないという(他者からは理解されない)孤独を抱えたまま生きていくことにチューリングは疲れてしまったか・・・、現世に「やりたい事=未練」が無くなってしまったか・・・、彼が自分の命を使った実験に踏み切った本当の理由はチューリングにしか判らないことではあるのでしょうが・・・。
エグニマの解読、そしてコンピューターの発明・・・そうしたものをある程度やり遂げてしまい現世に未練がなくなったのか?、彼の「生き辛さ」は何だったのか?、何故、最後に死を選んだのか(彼にとっては最後の実践的な実験だったのでしょうが・・・)そこに至るまでの彼の心の軌跡を公演期間中ずっと考えていました。

例えば、劇中、「母さんは全然わかってなかったよね、僕が何を考えていたか。」というチューリングの台詞がありました。
息子の死後母サラは、あれほど研究熱心でやりたい事があり自分の信念の為には努力を惜しまない子が、想い半ばで自殺などするはずがない=これは不慮の事故だと主張するのですが、「母さんは全然わかってなかったよね」というその言葉がラストの場面そして死の理由に繋がっていたのだと初見の時は驚きました。
実の息子の真実を理解出来なかったのか、あるいはそう思いたかったのか、母側の視点から見ると解りあえない辛さを感じつつも、でも、親子としての愛情は確かにあった、その救いもあって観てる側も救われました。

初日を拝見した後に強く感じたのですが、過去の歴史を紐解いても、天才と呼ばれる人達が皆幸せな人生を送ったとは限らなくて、むしろその逆な場合も多いんですよね。政治的に利用されたり、国に自由を奪われたり、自分の理解者たる人間に恵まれなかったり・・・。
チューリングは、ある種の才能がある故に不器用な生き方しか出来ない、自分の想いが強い孤独な人。誰にも出来ないことが成し遂げられたとしても、彼は幸せだったのか?そもそも人の幸せって何なんだろうか?そうした事も考えさせられました。

蛇足ですが、何故「ポリッジ」の比喩は伝わり難いのか。
チューリングが母校で講演を行う時に、例に出す「ポリッジ」と「人間の脳」の見た目の話、どうやら毎回?伝わらないようですが(笑)、それも無理からぬことで。
生物の教科書だったり、人体模型などもそうですが、大体、肌色というか、ピンク色っぽい感じに内臓とか脳ミソは着色されてますよね。でも、あの赤みがかった色合いの元は毛細血管の中の血液(赤血球)の色で、ホルマリン漬けされている臓器は既に血が抜かれているので実は色合いが違うんですよね。でも、シャーローンの学生の多くは、恐らく、ホルマリン漬けの脳ミソなんて見たことが無いでしょうし、それ故にピンとは伝わらないのかなー?と(笑)
と、いうことは、チューリング自身は何かしらの過程で(ホルマリン漬けの)実物を見てるのかなぁ・・・とも思います。私達がお風呂に入ると手指がふやけますよね?あの感じがホルマリン漬けのものにもあって、それを知ってる方なら、ポリッジのあのふやけ方が似てる、というチューリングの例えも伝わるのかな~?と。


(2)演出等のスタッフワークの感想

各演者さんが主要な役割を演じている時、チューリング以外の方々の出入の場所さえ考えられて設定なされているような稲葉さんの演出。
例えば、ロスやスミス(MI6関係者なんでしょうか・・)は、上手下手の階段を使われて、その階段の下の世界は政治や国家との関係性を感じさせますし、その以外の仕事関係(ノックスやパット)は奥の上手側、逆にプライベート関係(サラ、友達としてのパット、ロン、クリストファー&ニコス)は奥の下手から出入りなさる。そうしたところまで考えてらっしゃるんだろうな?と想像する時、どうにも気になってくるのが、あの床と同仕様?の空間を包み込む、あの壁なんですよね。何か、意味があるんじゃないか?何故、上がるのか?何故、光が差し込むのか?(理由が無いわけがないだろうなという推測で・・・)
正解探しではなく、それを考えること自体が作品の中の核に触れる、その模索となるんじゃないかと思い、ずっと考え続けていたのですが・・・。

この作品の劇中、私が客席から観ているものは、チューリングが最後に行った(自分を使った)人体実験の後の世界・・・言わば、肉体を失っても、なおも存在し続けた(=実験は成功した)「チューリングのココロ(脳)」の中の記憶を見ているのではないでしょうか?(個人の感想です)

床と壁が同一素材なことで、一つの立体(空間)である感じがする。
あの織目調の柄が凹凸を感じせ、人間の脳の、表層の凹凸をイメージさせる。
楽しかった頃の記憶から、徐々に(時系列的には前後するけれど)自分が最後の実験(実践)をするに至ったまでの心境を追っている。そして最後に、彼自身の肉体を失ったココロ(脳)に、彼自身が入って行く? or 入って来る?(=肉体を失っても存在しえたココロとの接点が開く)。
初日早々の頃は、あの上がった状態の壁面、後方から差し込まれる光に、解放のようなものを感じていたのですけれど、単純な解放(自由とか、喜びみたいな系統の)なのかな・・・?という疑問が自分の中にずっとありました。

チューリングは、この世(現世)に未練がなくなったが故に、自分の命を終わらせたのではないか?、そういう想いが漠然と、ずっと在るんですね。
エグニマ解読という、自分の人生の中でもう二度とないであろう、やりがいのある仕事(自分の信念と社会的な意義など全てが合致した成功体験)の後に、それ以上の体験があるとは思えなくなった(=国の意向、同性愛である故の犯罪履歴などによる偏見や差別によって)。人としての自由も奪われた(=情報機関による監視の継続)。それらから受ける不条理感。
天才であると同時に、一種、エゴイスティックとも思える妥協の無さを抱える彼にとって、生きていく上で最後まで唯一無二の理解者だと思えたクリストファーの所に行く以外の望みは無くなったのではないか。そこまでチューリングを追い込んだのは、国であり、政府であり、社会であり、時代であったのではないか・・・。

それらを考えるヒントを創って下さっているのが、(演出の他に)舞台上の美術や照明、音楽だったりするんですよね。美術は上でも触れましたが音楽も観客の想像力を刺激するものでしたし、照明は逆に語るものだったように感じました。これは個人的な好みの世界になってくるのですが、照明に語られる分、想像の余地が狭まるというジレンマ。LEDも日進月歩で進化しているので、今は調色調光が随分とスムーズで、チューリングの心境の代弁だったり、戯曲のト書きのような役割を果たしてるのかな?と感じていました。でも、上部からの照明だけ?で、前傾になっている壁面を照度のムラを感じさせずに光を当てるのとか、実はとっても難しいことをなさってたんじゃないか?という興味もあって。そうした美術や照明などの解説動画もあったら観客側はより楽しいんじゃないかな~と思います。


(3)演者さん達の感想

アラン・チューリングの人生を主軸に据えているので、ほぼ出ずっぱりのチューリングは勿論なのですが、その場面毎に「チューリングと会話する誰か」がいらっしゃって、その関係性の間にズレがあったり、間合いに違和感があったり、といった「会話を成り立たせないもの」が散在すると客席に居る人間は時として現実に引き戻されてしまう事があります。ですが有難いことに今回、そうしたことがほぼほぼ無いんですよね(初日早々の頃にはちょっと感じた時がありましたが直ぐに解消されました)。そういう意味では、この作品を創られた皆様、舞台上にいらっしゃる演者の皆様、それらを支えていらっしゃる全ての皆様の総力戦に、私は楽しませて頂いていたのだと思います。

キャスト表順に、亀田佳明(アラン・チューリング)さん、水田航生(ロン・ミラー)さん、岡本玲(パット・グリーン)さん、加藤敬二(ディルウィン・ノックス)さん、田中亨(クリストファー・モーコム、ニコスの二役)さん、中村まこと(ジョン・スミス)さん、保坂知寿(サラ・チューリング)さん、堀部圭亮(ミック・ロス)さん。

初めて拝見したのは田中さんのみですが、ニコスがある瞬間から(パンイチなのに)クリストファー(の魂)だと感じられて(おー!)と思いましたし、ニコスのピュアな感じに無理がなくて、その面も(おー!)と思いました。
四季を拝見していた頃の敬二さんは踊り担当の御役が多かったので、こんなに人としての器が大きい役柄が似合う方だったのだと新たな魅力に魅せられました(ノックスさんの表情の変化が本当に素敵でした)。
森フォレでも拝見した岡本さんのパット、(理知的だけど)とってもチャーミングでしたよね。今まで拝見した御役の中で一番好きかもしれません。
チャーミングつながりでいったら知寿さん。敬二さん同様四季時代から拝見しておりますが、数多く拝見する機会が出来たのは退団されて日比谷界隈の劇場に出演なさるようになってからですね。アランのお母さんであるサラさんの、タクシーの場面、あれに何度泣かされたことか・・・。あの場面が強く印象に残るからこそ、最後のサラさんの想いが切なくて・・・。
水田さんは、知寿さんと御一緒だった作品のエビフライ(名古屋公演でしたかね)が忘れられませんが(笑)、演劇的な反射神経が必要な作品だったので@エビフライ、それとはまた違う一面が拝見出来て興味深かったです。
中村さんは、いらっしゃるだけで、そこだけ空気の密度が違うというか、どーんと、存在してらっしゃいますよね。ちょっとブラックホール的な存在。出番としては長くないけど、登場なさると、どーんとブラックホールに引き込まれます。
堀部さんも映像や舞台で何度となく拝見させて頂いていまして「TERRO テロ」のパロット役が私は印象に残っていますが、今回ですとチューリングに忘れてほしいと懇願されてもパタンと手帳を閉じるところが同じく印象に残っています。情が無いわけじゃないけど、仕事は仕事というか、法は法なんですよね、ロスさんにとって。

最後になりましたが、亀田さん。このチューリングの役が出来る役者さんは限られているように思うし、初見直後、亀田さんがオファーされた意図がなんとなく腑に落ちた感じがしました。以前出演された「森フォレ」でも感じたのですが、亀田さんが発する言葉(台詞)は、観客に(見えるはずのないものを)見させる力がありますよね。伝え方が難しいんですが、例えば「森フォレ」の中で末っ子の男の子役だった亀田さんが劇場の後方を指さして「見て!」って言った瞬間、客席に座っている私の背後に(見えるはずのない)草原とキリンの姿が見えたりだとか。今回だと(ニコスとの二人の場面での)「クリストファー!」が正にそうだったのかと。あの場にクリストファーを存在させてしまう台詞の力。亀田さんだなーと、感じました。


(4)最後に想ったこと

チューリング自身も、決して、一人の人間として、聖人君子のような人ではないんですよね、この戯曲の中では。
自分の能力に対する絶対感と、理論的なことが理解出来ない周りへの侮蔑。
自分が正しいと思うことに拘りが強く、臨機応変に対応出来なかったり。
人間として「いびつ」な部分を抱える、そうした人としての生き辛さが、最後に心の中の澱となって私の中に沈んでいきました。

自分自身の悪いところを客観的に見させられてるような、そんな気まずさを感じつつも、自分と同様にそういう生き辛さを抱える人(人達)は今の時代も居るんじゃないかと。同性愛とかそうした性趣向的な差別だけではなく、人種や性別、身分、立場、そうした理不尽な弊害や、あまりに優秀過ぎるが故に周りの理解が追い付いていかない不遇であったり、色々と作品の中でもありましたよね。

個人的には。先ず、この戯曲自体が面白い。芝居としては勿論、天才だけど「いびつ」な人間の生き辛さ、その才能が産み出したものが基盤となっている現在の社会、時代や社会の移り変わり、愛情、家族、組織の中の一個人、人間関係・・・、観る時の自分の状況にもよったり、その日気付いたことによっても印象が強く残るところが違ったりはしますが、約3時間の間、引き込まれた状態が途切れることが無いんです。だから、本当に面白く感じてるんだろうなと自分を外側から見ていて思います。
その面白さを創り出して下さっているのは、企画段階から御稽古場を経て公演を重ねられている、その過程全てで皆様が注ぎ込まれてきたものの結晶ですよね。(お疲れ様でした)

演劇業界では長年の習慣すぎて問題にもされませんが、公演の「タイトル」と「出演者・スタッフ陣」と「時期」と「場所」しか判らない状況でチケットを買う。観客側にとって、それは半分博打みたいなもので。
で、初日の幕が上がってから、色々な状況が透けてみえて、(あー、今回は博打に負けたな)と思う事があります。いくら完売御礼の「興行としては成功」している作品でも。
劇団のような、基礎的な訓練を受けてらっしゃることが大前提でもなく、動員力だったり、事務所の力だったり色々な事情で、上手い下手以前の役者さんでも無い方が紛れ込むなんてことも、実際にはありますよね。そのことで、仮に作品が作品として崩壊したり立ち上がらなかったりしても「人を応援する」という多勢の御客様の意見であったり、興行元がそうした状況を問題視しない(と言うより、元々、御自分達がそうした原因を作ってしまっている)故に、何度となく同じようなことが繰り返されて、一人の観客として疲弊していくことが過去にも多々ありました。
そうじゃない作品も沢山あります。
劇団だったり、劇作家兼演出家のような方の作品だけを観ていれば(好みはあれど)そんなに外れないし、博打で負けがこむこともないけれど、根本的な問題解決でもなくて。

そんな時に、久しぶりに出会った、本来、そうあるべきじゃないかと私が思う芝居の姿でした。
派手なキャスティングではないかもしれないけれど、その戯曲や演出やスタッフワークや演者さん達の確かな力の結集によって、何のストレスもなく作品と純粋に出会える。作品の中に没入出来る。立ち上がった作品の姿を色々な方向から客観視出来る。その面白さ。信頼感と安心感。そうしたものが、当たり前のように在る時間と空間。
そうしたものが現在の演劇界でも創ろうと思えば創れる、という実証。
それを意図してプロデュースされたのか?は判りませんが、ちゃんとした作品を創れば、動員力だけの人を起用しなくても、口コミでそうした作品を求めている観客達が集まってくる。そうしたことが現実として起こったのでは?ないでしょうか・・・。

部外者が「演劇界の良心」というのもおこがましいのでしょうが、そうしたものを大切になさって下さる興行元が少しでも多くなり、やがてそれが「当たり前」だとされる世界になっていったらいいなと心から願っています。