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「劇場を開くには?」@PARA  2023.03.18

神保町に新しく出来た劇場「PARA」のオープニング企画として、そして、2023.03.17~19まで同劇場で上演されている「祖母の退化論」関連トークイベントとして、開催されました。

日時:2023.03.18 9:30~11:00(の予定でしたが11:20頃終了だった模様)
場所:PARA神保町2階
登壇者:岸井大輔さん、田中里奈さん、成河さん
    (プロフィールは下記参照下さい)

【岸井大輔さん】
劇作家。1970年生。1995年より他ジャンルで遂行された形式化が演劇でも可能かを問う作品群を発表している。代表作「東京の条件」「好きにやることの喜劇(コメディー)」「ポストコンテンポラリーアート」。戯曲集「戯曲は作品であると東京の条件とその他の戯曲」「始末をかくと前後の戯曲」発売中。多摩美術大学演劇舞踊デザイン学科非常勤講師。PARA主宰。

【田中里奈さん】
興行研究者、批評家。博士(国際日本学)。2017年度オーストリア国立音楽大学音楽社会学研究所招聘研究員。2019年International Federation for Theatre Research, Helsinki Prize受賞。2022年度より京都産業大学文化学部助教。直近の論考に「コロナ禍におけるオーストリアの文化政策:「私たちはオーストリアのために演じている」」(シアターアーツ、2021)、「ミュージカルの変異と生存戦略:『マリー・アントワネット』の興行史をめぐって」(演劇学論集、2020)。

【成河さん】
俳優 東京都出身。大学時代から演劇を始め、北区つかこうへい劇団などを経て舞台を中心に活動。平成20年度文化庁芸術祭演劇部門新人賞、11年に第18回読売演劇大賞優秀男優賞、22年末に第57回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。近年の主な出演作品に、舞台『髑髏城の七人』Season 花、『エリザベート』『子午線の祀り』『スリル・ミー』『冒険者たち』『導かれるように間違う』『建築家とアッシリア皇帝』、木ノ下歌舞伎『桜姫東文章』など、映像ではNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、映画『脳内ポイズンベリー』、『カツベン!』など。本年4月に舞台『ラビット・ホール』、6~7月『ある馬の物語』に出演予定。

引用元:PARA「祖母の退化論」関連トークイベント登壇者プロフィールより


こちらのトークイベントに関しましては、「祖母の退化論」とトークイベント3本のセットを申し込まれた方々にアーカイブとして公開される予定ですので、内容に興味をお持ちの方は、こちらから、どうぞ。
(※ トーク日時点での情報です)

PARA「祖母の退化論」チケット案内より引用



以下、「関連トークイベント③」のみを拝見した個人の感想です。
トークイベントの簡単なレポもありつつ、多くは、当日、拝聴した中で、自分が考えたことなどの備忘録です。



「劇場を開くには?」というタイトルだけで、その言葉が意図する概念のようなもの?の察しがつく方々、もしくは、その言葉が指し示すものを自分で説明出来る方々は演劇マニアですよね(笑)社会一般には勿論のこと、もしかしたら演劇業界の中でも現時点では共通認識されていない概念とか考え方とか「劇場の在り方」とか「そもそも劇場とは何ぞや」という話ですから。

この日、神保町に新しく岸井大輔さんが創られたPARAという場所(美校・劇場)の紹介から始まり、登壇者の御紹介などに続いていったのですが、終わってからふと思い返してみると「劇場を開く」という言葉の本意に対する説明や解説は無かったような気がするので(「劇場を開くこと」に関する御話は沢山ありました)、この日、脚を運んだオーディエンスの方々の中には「劇場を開く」ということ自体を自分の言葉で説明出来るほどには理解はしていない人(=このブログ主ですw)もいらっしゃったんじゃないかな?と思うので、今後はその辺りの振り返りから始めて頂いた方が、その場に集まった人達全員で考えられるんじゃないかな?と思います。次回はそこから是非にという要望を冒頭から書きました(笑)

9:30から11:20くらいまでの約2時間弱、幾度となく田中里奈さんの忖度の無い言葉に笑わせて頂くと同時に色々と考えさせられたり(過去に同じような体験を劇場の中でしたことがあったもので)、話の内容が伝わっているのか?オーディエンスの様子に気を配りながら演劇の未来について心配なさる(と感じましたが)と同時に(劇場を創るという形で)行動に移された岸井さんの勇気に凄いなと思い、御二人の話を受けて時には意図が伝わりやすい言葉を丁寧に選びながら語る成河さんの御三方の話はとても短時間で終わるようなものではなく(テーマ的にもそうですよね)、これからも、こうした機会を続けていけたら、という御話が最後にありました。
昔、流行った「朝活」みたいな感じですが(笑)、その日に観劇予定があっても、現場の御稽古途中であっても、午前中なら比較的空いているっていうことで、朝活いいね、なんて話が最後にも。個人的には是非に、と思います。本来、こうした演劇そのものにまつわる話を(日本の)現代演劇に携わってらっしゃる方々は社会の中でしてこなさ過ぎたと私個人は思うので、一歩一歩、(色々な立場の)皆で考えることが出来る場が増えることは現代演劇の世界にとっても良い事じゃないかな?と思います。

ここまで、トークイベントの総括でした。
ここから先は、個人的に感じた事や考えた事の備忘録を。

なお、言葉そのものはニュアンスです。書かれた言葉通りではありません。しかも、ニュアンスさえ受取り違いをしている可能性があります。記憶のみで書いているので。そのような箇所がありましたら、御登壇者の御三方および関係者の皆様、ごめんなさい。




【PARAを神保町に創った理由(わけ)】

岸井さんは20年・30年後の演劇界が(本来の演劇として)ちゃんと存続するには人材が必要で、そうした人材を育てるには今が分かれ目だと思い、将来の人材が育つ場所(学べる場所)としてPARAを立ち上げられたそうです。
神保町を選ばれたのは、本郷に移転する前の東大があった昔の香りが残っている場所で、かつ、(小劇場第一世代?~の誕生を誘発できた)学生会館のような場所をイメージされたから。
PARA自体は、美校としての一面の他に、作品制作専門(=収益の為の貸し劇場公演はやらない)の劇場として運営なさりたいとの事。今の日本の公共&民間の劇場運営形態から推測すると(岸井さん御自身もおっしゃってましたが)運営的にはリスキーな面のある方針ですよね。それでも、本来、そうした未来への投資の受け皿となれるはずの公共劇場でさえ地元住民等の理解が得にくく財政的に予算が付きにくいという現状があるならば、人任せにするより自分でやってみようと思われた、そのことが凄い勇気だなと思います。
ちなみに、作品制作専門という意味ですが、PARAのプロデュース公演のみを上演する、というものかと。上演したい作品を選び、演出家や演じ手や上演に必要なスタッフ陣を集める。自分自身が演じるわけではないので、やりたい作品があるなら本来誰でも出来ますよ?と、岸井さん。確かにそうだなと、と思う反面、いやいやいや、とも思う自分(笑)


【作品主義の掛け違い】

今ではごくありふれた作品上演の手段となった複数キャスト(同役の演じ手が複数いるキャスティング)の日本最初は「レ・ミゼラブル」で、ジョン・ケアード氏の発案だったそうです。只、本来の主旨は「作品主義(同役の演じ手の誰が当日のキャストでも作品のクオリティーは維持できる前提のもの)」だったそうで、初耳でした。
今でこそ「レ・ミゼラブル」と言えば日本のミュージカルの中でも「昔からの名作」のような位置付で人気作品ですが、日本初演の時は現代とは違ってミュージカルそのものがあまり認知されていない時代でしたし、あれだけの大型作品のキャストをフルオーディションで選ぶという試みも初めてに近かったのでは?という時だったので、チケットが売れない・・・というリスクと背中合わせで、その対策としての意味も含めた複数キャストの発案だったそうです。
しかしながら、上演が重ねられる間に本来の作品主義の為ではないものに(色々なキャストや組み合わせを観る為にリピーターが増加したり、限られた稽古時間の中で一人当たりの稽古時間が減ってしまうなどの弊害が生じることに)なってしまい、発案者であったケアード氏御自身も後悔なさっているとか。
作品主義を成り立たせるには、同役の演じ手が同レベルの表現能力を持っていることが大前提のはずですが、同じような環境下で素養を身に付けていない者同士が一気に集められ短期間で上演までこぎつけても(素人がちょっと想像しても)無理がある話ですよね。
結果、なし崩し的に、チケット販売の為だけの戦略に姿を変えてしまいましたよね。本来、こう(作品主義)あるべきだったものだったものが、どこでボタンを掛け違えてしまったんだろうなぁ・・・と思うと同時に、その掛け違いを正そうとするプロデューサーは出てこないのだろうか?という疑問。
個人的には、そうした興行形態がおかしいと思ったら「チケットを買わない」という形でしか観客は意思表示出来ないと思うので、一人一人が自分の意志を確認して行動に移すことが、今、出来ることかと思っています。


【日本の演劇の多様性、その功罪】

日本ほど、多様な演劇形態が混在している国は無いらしく。
(海外の方々からすると、その多様性が羨ましくもあるとのこと)
解りやすく「ジャンル」という言葉を使うなら、小劇場ブームが起こってから以降その傾向はあったものの、特にこの20年間くらいでしょうか、「ジャンル」同士の断絶と観客の抱え込みが激しくなり、発展的な交わりなどが生まれない状況になってしまいました。ごく一部の観客はいくつものジャンルを渡り歩くものの、演じ手や創り手の方々は各ジャンルの特殊性という壁もあって、中々、複数のジャンルで活躍する人材が生まれてこない。そのことに疑問を持たれた成河さんは自ら各ジャンルに参加していっていて、田中さんはその事にも興味を持たれたそうです。
やってみて成河さん御自身が感じられたのは、一見、各ジャンルはバラバラのように見えるけれど、それぞれが目指してるものの先には何処か重なっている部分があって、それが何なのかを知りたい(興味がつきない)とのこと。
演じ手や創り手側とは、またちょっと違うのかもしれませんが、観客側からすると私自身、歌舞伎に始まり新劇ミュージカル狂言コンテンポラリー商業演劇や現代サーカス等、興味が向くまま観ておりますが、演劇(表現)の根本的な部分(感覚的なもの)は一緒ではないかな?と感じています。表現の手法(技術や、そのジャンル内で理解される演劇用語みたなもの ※言葉とは限りません)が違うだけで、本質は一緒のように感じますし、肝心なのは「ジャンル」ではなくて、それらを使って「何を創るか、何を産み出し客席と共有するか」の方なんじゃないかな~と、思います。

日本の経済の中で、演劇界って特殊ですよね。
建設業界、金融業界、自動車産業etc・・・、主要な産業は企業同士の横のつながりとなる「企業団体」が昔からあって国や役所に対する陳情等を行っていますけれど、こと演劇界に限って言えば、実質的な横のつながりが出来始めたのは現在のコロナ禍になってから、なのではないでしょうか?
今までは自分達の劇場や劇団の事情だけで精一杯だったけれど、良くも悪くもこのコロナ禍は「これは演劇界全体の問題だ」という認識(危機感)を演劇界全体に持たせてくれましたよね。ここから先、またバラバラになっていくのか、それとも、目先のことではなく、それこそ20年後30年後の演劇の未来の為、その時に劇場に脚を運ばれる観客の皆様の為に、今から考えていくことがあるんじゃないか?と互いに手を伸ばし合っていくのか、演劇界は今、結構大きな分かれ道に立っているのでないかな?と個人的に思っています。
世界大戦後、二度と大きな戦争は行わない為に作られた国連はその指導力を失い、世界の警察だったアメリカは世界のことより自国優先になり、資源の豊富なロシアや中国などの大国の力が今まで以上に強くなり、資源がない国である日本は世界の中で今までのような発言力を維持することは難しくなっていくのでしょう。中々、明るいとは思えない日本経済の行く末の中で生きていかなければならない今の子供達や若者にこそ「演劇」が必要になってくる。その為に、今、大人である私達が「演劇」を単なる娯楽(気晴らしや現実逃避の為のもの)にしてしまっていいのか?ということを考えないと拙い時期だと思いませんか?(特に演劇界に関わる皆様)


【演劇とマスメディア】

ちょっと、タイトルとしてはおかしいんですよね、本来、演劇自体がマスメディアなので。ここでは、便宜的に。
演劇作品が広告目的で演劇雑誌などの媒体に掲載される時、その殆どはチケットを売る為の宣伝記事ですよね。だから、ゲネプロや初日以降の劇評であっても、(言わゆる)提灯記事しか見掛けないことも珍しくなくて。招待された記者さん達が上演中に居眠りしてたけど・・・なんて場面を見掛けることも。
SNS上もまた、演劇ルポライターの方々や、フォロワーさんの多い言葉巧みなツイ主さんが(出演者のファンの方々の受けが良さそうな)記事を書かれると、瞬く間にタイムラインが似たような感想で埋まっていって。
御覧になられた御自分も本当にそう思われたのならいいのでしょうが、せっかく御自分で観劇なさっていて、御自分が感じたこと考えたことを自分の言葉で語らなかったら勿体ないんじゃないかな?と思うんです。
劇場の面白さの一つに、普段、考えなくても生きていけるようなことを、今、この場に居て、目の前にいる舞台上の人が苦しんでたり悩んでたり幸せを感じてたりしてる・・・それを劇場という場所で一緒に居るが故に思わず一緒に考えちゃう、そういう楽しさって、ありませんか?
笑うだけが楽しさでもなくて、考えることも、一つの楽しさだと気付かせてくれるのが演劇の良さの一つかな?と私は思います。


【サミットやってみればよくね?】

いや、そんな言い方はなさってません、ニュアンスです(笑)
演劇界の横のつながりを持とう企画(と勝手に呼んでますが)公共劇場の芸術監督さん達の公開トークは数回重ねられていますけれど、民間のプロデューサーさん達は企業の中にいらっしゃるが故に発言内容に制約があって難しいそうで。それでも、上記に書いたような現状の演劇業界が抱える問題を共有して検討していく場が必要ではないか?ということで、成河さんは色々な場所で色々な立場の方々に御声掛けをなさっているそうです(詳細は不明)。
言ってみれば、直ぐに結果が出ることでもないし、劇的な改善策が直ぐ見つかるような話でもなく、手間暇かかる話なので、今まで誰もが避けてきた議題なんですよね(=演劇界の未来を考えること)。それでも高度成長期だったり日本経済にまだ余力がある時はよかったけれど、これからの日本経済にその力を期待するのは無理でしょうし、自分達で変わっていくしかない、その現実、自分達の足元を互いに見つめ直す機会を、さぁ、始めましょう、という段階にまで、やっと演劇業界の中の方々も気付き始めたのかな・・・と感じます。
今まで、ざっと40年、少なくともこの20年、自分達のジャンルの事だけ考えてきたツケを払わなきゃいけない時期到来、と言ってしまうと身も蓋もないのですが、今ならまだギリギリまだ「(本来)あるべき(だった)姿」に向かっていける知恵を皆で持ち寄れるタイミングではないでしょうか?。演劇界の未来の為に、遅いという事は無いと思いますし、願います。


【ドイツ・オーストリアにおけるミュージカル】

ドイツやオーストリアにミュージカルがもたらされたのは、大戦後のアメリカによるプロパガンダだったそうで(そもそもオペラがありますからね)。
ドイツは比較的抵抗感なくミュージカルを受け入れたものの、それに反発を抱いたのがオーストリア。こりゃどうしたものか?と考えて生まれたの皇后エリザベートのミュージカルで、ミュージカル低迷の救世主となったそうです。
観光資源としても人気が根強く、その収益が国や演劇業界を潤し、その分、新たな作品を生み出す為の土台となっているそうで、上手いこと循環が出来ている現状ということなのでしょうか。
ちなみに、オーストリアにおいて創り手側と観客の関係はどのようになっているのか?お伺いしたのですが、基本的には日本と同様のようですが(ワークショップなど)、その中で「答えを教えてくれないのか?」という参加者からの言葉があったと伺い、唖然。演劇で、劇場で、自分で考ることを放棄したら何が面白いんだ?という話ですよね。日本もその傾向が強いですが、個人の意見を尊重しそうな欧州でもそうだとは驚きました。


【劇場に脚を踏み入れるハードルを如何に下げるか問題】

これは色々な要因が重なっていて色々な人達が色々と考えていらっしゃるかとは思うのですが画期的な改善策は今のところ無いのが現状でしょうか。
各所で言われていることをざっと挙げると・・・
★そもそもチケット代が高すぎる(若年層の平均収入に対しても)
 (そのバックボーンとして今の若年層は奨学金返済を背負ってる)
★席種が少なく、高いS席でさえ遠かったり壁側だったりする不公平感
★人気公演ほど前売り完売で、観劇習慣の無い人はチケットが買えない
★子供の頃から観劇という習慣が無い
★劇場の中に入ったことが無い、敷居が高い、切っ掛けが無い
★一人じゃ行きたくないけど、周りに誘ってくれる人もいない
★観劇だけじゃなくて、何か(グルメやショッピング)と一緒なら
★演劇自体に興味がない(他に楽しいものが沢山ある)
★何を観たらいいかわからない
★劇場まで遠い(交通費の方が高い)
★(コロナ禍の時は)感染対策的に行けない(医療従事者の方々など)
などなど、でしょうか。
本当に、様々だったりします。

チケット代の話は興行元が一概に悪いわけでもなくて(高収益に走ってるわけでもなくて)、版権が高かったり、国からの助成金が降りなかったり、自前の劇場ではなかったり(劇場の賃料がかかる)、色々と安く出来ない事情があるんだとは思います。それでも、席種を増やすことや、チケット代金の幅を広げることは可能だと思うんですよね。細かい席種割と現在もあるU25等を充実させることは必須ではないでしょうか?

その上で。
個人的に感じるのは、如何に劇場に脚を踏み入れるハードルを下げるか。
これに尽きるようにも思えて。

例えば、御両親のどちらかに観劇趣味がある。そういう方は既にどこかの劇場に行ってるような気がするのでここでは置いとくとして。
御家族がそうじゃなくても、友達とか、職場の同僚とか、身近な人が観劇趣味を御持ちの場合。その人が楽しそうだったら、ちょっと興味が沸くかもしれない。(田中さん曰く、今までの御経験上、興味を持たれた観劇未経験者も5000円以下なら誘えば来て下さるそうです)
この場合、初見の方の年齢にもよりますよね。以前、成河さんが個人でカルチベートチケットをなさった時、カルチケ用の2000円が用意出来ない高校生がいらっしゃった御話をディベートで伺い、とても心が痛くなったんですよね。確かに、今の日本経済だと、お小遣いの中から2000円をポンと出せる高校生は少ないのかもしれない。親御さんが経済的に余裕がなければ、子供のそうした機会に2000円をさっとは出せないかもしれない。それだけ今の日本の経済格差は激しいんですよね。

じゃあ、自分の時はどうだったかな・・・と思い返すことウン十年前(笑)、制服で学校帰り歌舞伎座の幕見にひょこひょこ行ってたんですが、短い30分ぐらいの作品で当時500円、長めのもので1000~1200円くらいだったかと。丁度、名画座の2本立てと同じような価格(普通の映画よりちょっと安いか同じくらい)だったんですよね。立見もあったから事前に予約する必要もないし、ふらっと入って、ぼーーーっと観てるもよし、飽きちゃったら帰ってもよし、出入り自由で気楽なものでした。1等席じゃ流石に勿体なくてそんなこと出来ませんでしたけど、4階の幕見で重ねた経験が今の自分の土台になっている部分もあるように思えて、そうした場が昔からあった歌舞伎座の有難さをシミジミと思い返す時があります。

本当は、そういう気軽な場所が、全ての劇場にあるといいんですけどね。
この日のトークでも、見切れ(見えない場所がある方の見切れの意味 ※元々は見えてはいけない袖舞台の中などが見えてしまうことを<見切れる>>と言っていましたが、いつしか<客席から舞台上の見えない部分がある>ことにも使われるようになり、今では両方の意味で使われているようです)空席を当日販売でもいいから安く売れないものか?との成河さんの御意見もありましたが、興行側の方々と一緒に「将来の観客を育てていく場を設ける」という観点を共通認識にしていかないと、増々、劇場は必要なのか?と納税者となられた方々に言われてしまう社会になっていってしまうので、一人でも多くの方々が劇場の中で豊かな時間や楽しい時間を過ごす体験を重ねることが出来る仕組み作りを考えていかなきゃなと、思うんです。
例えば、通路で立見をさせる事が消防法的にNGならば、劇場の客席内そのものに最初から立見のエリアを設けさせることを義務付けるように興行法を改正すればいいんじゃないか?等々。既存の劇場でも一部改修で対応が可能なんですよね(一部客席の撤去、立見エリア分けの為の小扉の追加(開閉は劇場係員の操作と火報連動の両方で)。
因みに、私にとっては歌舞伎座の幕見だった場所が、岸井さんは寄席だったそうです。いつ行っても楽しめて、そんなに懐が痛まない、学生でも気が向いたら行ける場所って、大人になっても(特に精神的に)疲れた時に行きたくなる場所かもしれませんし、そういう場所の必要性を体験している方々が多くなること自体が、社会の中で劇場という場所が必要とされることの理解を生む土台になるんじゃないかと感じます。

そして、もし各劇場にそうした場所があったら?
大人にとっても、あったら便利だと思いませんか?
いきなり、見たこともない「ジャンル」に、1万円はキツイですよね。
もし、御試食コーナーみたいに、ちょっとだけ雰囲気だけでも、1幕だけや、2幕だけ、立見でも、500円(学生)~2000円(大人)くらいで試食(お試し観劇)が出来て、意外と面白そうだと自分が思えたら、本席で観てみよう、一部じゃなくて全部観て見たいと思うかも?しれませんよね。
試食(お試し観劇)出来なかったらスルーしちゃう作品とも新たな出会いが生まれるかもしれません。全公演満席の作品では難しいでしょうが、もし空席が目立つ作品なら、そうした企画があってもいいんじゃないかな?と思うんですよね。


【劇場を開くということ】

「劇場を開くには?」という前に、私自身、自分の言葉で、そういった事に全く興味がない人にも伝わるように「劇場を開くということ」を説明出来るほどには自分で理解出来ていないんだろうな、とは思いつつ、それでも言葉にしてみます。

「劇場を開く」必要性を考えなきゃまずい現状は、そもそも「劇場自体が社会の中に根付いていない現状」だからであって、戦後からの時代背景や、演劇(特に小劇場)の歴史的な経緯も共通認識として知る必要があるでしょうし、劇場が本来あるべき多様性のある状況にするには何が弊害となっているのか?という問題意識も一つ一つ考えていく必要があって、今回のトークイベントに関しては、そういう「状況」や「歴史的背景」の確認から始まっている、という第一歩の段階だったのだと思います。(そもそも2時間で話し終わるような内容ではないので・・・)

じゃあ、今の日本の中で「劇場が閉じちゃってる」状況を生んできてしまった要因は何かなぁ・・・と考えた時に。

一つは、現代演劇の業界自体が、御自分達の創りたい作品が創れればいい(観客はその為の資金源という身も蓋もない言い方をしますが、観たい人が観ればいい、という考え方)がずっと続いてきてましたよね。それが循環として可能だったのは、トップリーダーとして小劇場演劇を突っ走ってきた極一部の才能を持つ方々が誕生したから。そして、日本社会の経済が今ほど厳しくなかったから、かと。

もう一つは、国が多岐に渡る日本の文化を子供の頃から教育の一環として演劇を日本中の子供達に触れさせなかったから(東京都などごく一部の自治体は抽選で学生の観劇鑑賞会を行っていますが、全ての学校が観られるわけではないんですよね)。過去の劇団四季の良い所・そうじゃない所いろいろあったかと思いますが、全国を回り、多くの子供達に「芝居を観る」こと自体の楽しさという体験を与えてきたことは、本来、国がやるべき事の代替えとして意義あることと言えるのではないでしょうか。(地域限定ですが静岡のSPACや豊橋のPLATなども地域に根付いた活動をなさってますよね)

「劇場を開く」という概念が実現した、その社会では
何か新しい体験がしたいな、と思えば、映画館や図書館に行くように劇場に行けばいいし
何か疲れちゃったなぁ、と思えば、体調が悪い時に病院に行くように劇場に行けばいいし
予定が飛んで2時間くらい空いちゃった、さて、どうしよう?という時も、とりあえず劇場に行ってみれば何か楽しいかもしれないし
他にも色々あるかと思いますが、所謂、どこの町にも必ずあって、人が生活していく上での必需品なんだってことが、全世代の中で体験として理解されている、そういう状況になって、初めて劇場は社会の中に根付いていると言えると思いますし、それが可能になるのは「劇場が開かれた」から、かなぁ・・・と思います。はるか、遠い道のりですけどね。



他にも色々と興味深い御話はあったんですが、大雑把にまとめると、自分が御話を伺いながら色々と考えていたのは、こんな感じです。

最初の方にも書きましたが、とても2時間弱で終わるような話でも無いですし、ちょっと話して終わることでもなくて、色々な立場の方々が、自分の場所から見えたことや経験していることを持ち寄って、「より良い演劇や劇場という場所を未来の世代に残していく」為に、今、何が出来るのか?を考え、皆で知恵を出し合い、実行に移していく、そういう活動は自分達の世代の為では無いけれど、演劇というものに引き寄せられた人達にとって、癒されたり助けられたり人生と並走してきてくれた演劇に対する恩返しだったり恩送りのようなものかなと思いますし、そういう活動が広く長く続いていくといいなと、心から願っています。

今の世界情勢のように、皆が自分の事だけを考えていたら、破綻しますよね。日本の社会も他人事ではなくて。それは皆様も実感されていらっしゃると思うんです。
だからこそ、想像力を養い、他者の痛みを感じられる、疑似体験する、新たな視点に気付く、他者の視点から物事を考える、そうした演劇の効用が体験出来る場所である劇場に、何より楽しい場所である劇場に、一人でも多くの人々が気軽に脚を運べる状況になりますように。
書き終えて、改めてそう強く思いました。