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「スカーレット・プリンセス」@東京芸術劇場プレイハウス 観劇感想(追記)

公演期間:2022年10月8日~10月11日
演出:シルヴィウ・プルカレーテ
原作:鶴屋南北「桜姫東文章」
音楽:ヴァシル・シリー
美術:ドラゴッシュ・ブハジャール
出演:オフェリア・ポピ、ユスティニアン・トゥルク、ほか
   ルーマニア国立ラドゥ・スタンカ劇場カンパニー
言語:ルーマニア語(日本語字幕、英語字幕)

作品リーフレット(表)
作品リーフレット(裏)




以下、個人の感想です。


ようこそ、おいでませ日本に♬ シルヴィウ・プルカレーテさん。
愛称プルちゃん(私の中でだけですが 笑)
数年前の「リチャード三世」本公演を見損なってしまい、後日、配信で拝見は出来たものの、やっぱりプルちゃんの演出を生で拝見したいなぁ~と待つことしばし。幸い、願い叶って拝見出来たのが「夏の夜の夢」でしたが、どこか?キレが悪い・・・。変だなぁ・・・と思っていたら、なんでも(この社会情勢で)来日出来ずオンラインで演出なさったとか???風の便りに・・・(真偽のほどは未確認です)
そんなこんなで三度目の正直?(笑)となったのが、今回の「スカーレット・プリンセス」です。ちなみに次の守銭奴も拝見予定なので楽しみです。

さて、前置きが長くなっちゃいましたね。
私は元々、観劇し始めたのが歌舞伎なので、鶴屋南北は馴染みの劇作家ですし、今回も元となった「桜姫東文章」も歌舞伎座で上演された2021年版を拝見しております。その時の桜姫は玉三郎さん(ちなみに権助は仁左衛門さん)でしたが、とかく昔から荒唐無稽な話だと思われがちだった「桜姫東文章」ですけれど、玉三郎さんの2021年版桜姫の解釈によって「世界中の少女、誰にでも起こりうる話」なんだと腑に落ちたんですね。ざっくりいうと、何故、桜姫がそういう人生を選んだか?という動機が腑に落ちたという感じでしょうか。

歌舞伎の場合は基本的に「ネタバレ」という概念が無いですし(むしろ土台を知ってるものとして上演される話が多いので)、プルちゃんの上演も終わったのですが、まだ木ノ下歌舞伎さんの「桜姫東文章」が来年上演される予定なので、(まぁ、こんな過疎地に訪れる方も少ないでしょうが)今(作品の核となる)その動機部分を書いてしまうのもどうかなぁ・・・と思う部分もあり、全てが終わったら改めてその部分については加筆するとして、今回は歌舞伎版とプルちゃんの「スカーレット・プリンセス」の共通部分と違いについて書いてみたいと思います。


先ず、共通部分。
これが正に「何故、桜姫がそういう人生を選んだか?という動機部分」なんですよね。世界中の少女だったり、かつて少女だった人達、誰にでも起こりうること。
これは私の勝手な想像ですけれど、玉三郎さんも、プルちゃんも、南北の戯曲を読み込んだり演じて行く中で、桜姫という一人の人間がこうした人生を歩むだけの説得力となり得る理由として、腑に落ちたのがそうだった、という事なんだろうな?と感じます。


次に、全く違う部分を。


先ず、歌舞伎版の場合は、書かれている時代背景が武家社会なので、その時代独特の倫理観(家の継続が絶対的な価値であったり、奉公先の主の為には身を賭すことも厭わなかったり、妻は夫に尽くすのが幸せだったりする価値観が)が大前提になっています。なので、桜姫にとって権助の妻で居られる為ならば、我が身を売ることも止むを得ずといった風情があって。

だけれど桜姫が全てに気付いた時、自分(姫)がなすべき事は「仇討ち」なんですよね。父や弟(兄でしたっけ?兄か?弟か?うろ覚えですみません)が殺され家宝も盗まれた、それが原因で取り潰しとなった家の再興を成す為には家宝の奪還と仇討ちが必要になるわけで、今まで騙され続けた我が身の愚かさを償う為にも、自ら仇を討ち、その業を背負う覚悟を大人になった姫は持つんですよね。そして、武家社会もまた、姫の仇討ちを称賛する。
そういう意味では、少女から一人の大人への成長物語の側面もあるように思います。


次に、プルちゃん版の「スカーレット・プリンセス」
こちらの起点の部分は上記に書いたように歌舞伎版と同じだと私は思うのですが、権助と再会したあとの桜姫は「妻で居られる幸せ」よりも、その為に身売りされる辛さの方が強いんですよね。だから、どんどんプリンセスは不幸になっていく。

この考え方は、現代の、特にヨーロッパ圏での倫理観で南北を紐解くというプルちゃんの意図によるものだと思います。だから、全く逆のことが起こるんですね。
全てに気付いた桜姫が権助(と自分の子供)を殺した時、それは「仇討ち」ではなく、単なる殺人(復讐)となる。社会は彼女の罪を問う。
確かに。情状酌量はあれど、殺人は殺人。


面白いなぁ・・・と思いましたね。
社会的な背景や、その時代の倫理観によって、見えてくるものが違う。
一つの物語であっても、切り口が変わることで見えてくるものも変わる。
その面白さ、でした。
作品自体も、劇中劇の構造になっていて「桜姫東文章」を上演している、どこかの国の劇場という風情。舞台下手側には楽屋っぽい控えのスペースもあったりして。桜姫が罪に問われた後も、「じゃ、これで、お芝居はおしまい」ということで「みんなでかーてんこーるしま~す」と明るく歌い踊りながら締めくくる。全体的にコミカルなテイストに仕上げた今回のプルちゃん演出でした。


あと雑記ちして。プルちゃん版でツボにはまったところなど。
・花道を訳すと「フラワーブリッジ」らしい
・歌舞伎のツケが鉄琴で再現

ちなみに、プレイハウスの客席はこんな感じになってました。

「スカーレット・プリンセス」1階客席

上手前方は劇団の方々が演奏するエリアになっていて、この作品の為に練習なさったそうです(トークショーにて拝聴)。伺うまでプロの方々の演奏なのかと思ってました。
鉄琴などのメジャーな楽器もあれば、初めて見るような民族楽器もあり、ドラム缶に水を満たしたらしきものや大きな鉄板も「楽器」として存在していて主に「効果音」の部分を担ってました。

公演期間中2回拝見したのですが、偶々、取っていた席が赤丸の2か所で、そうした楽器の演奏もじっくり拝見出来ましたし(犬の遠吠えとか本物にしか思えない上手さですけど鳴き真似なんです笑)、花道正面の席も丁度、役者さん達の出入りが全て拝見出来る場所だったので楽しかったです。
日本の鳥屋と同じく、カーテンが(シャッ)っと引かれる音で「(花道への)出」が判るんですよね。プルちゃんの細かいこだわりでしょうかね?(^^)

この「スカーレット・プリンセス」は日本で上演される前にルーマニア本国で上演されたようです(確か、トークショーでそう説明されていたような)。
なので、日本の武家社会とか当時の倫理観とかを基本的に御存知ない方々が御覧になる前提で、お十の行動の理由とかが字幕で説明されています。それを拝読していると、プルちゃん御自身は南北がこの戯曲を書いた当時の日本の社会構造などについて十分理解された上で、今の現代ヨーロッパの視点からこの作品を切ったことがよく解るように感じました。

後は視覚化と擬音の効果ですね。
清玄が貴い高僧であることを金色の衣装(日本だと高貴な色は紫ですが西洋の場合は金色なんでしょうね)と二人羽織(というか肩車)の高さで現わしたり、桜姫が静々と動く様をセグウェイを使って表現したり(笑)、清玄が前世の因縁に気付き桜姫に恋する時点で最早高僧ではなくなったことを、元の背の高さに戻すことと金色の衣を剥ぐことで現わしたり、詳しいことは解らなくても(あ~、没落したんだな)と察せられる視覚化は、なるほどな~と思いました。

他にも(お~)と思うところがありましたが書ききれないので。
そういうところ全部、実際に?かどうかはわかりませんがプルちゃんが歌舞伎を御覧になった時に「おっもしろ~~~い!」と思ったところを全部、再構築なさっていたようなきがします。あ~、プルちゃん、ここがツボにハマったんだ~~そんな感じに伝わってきましたので。


最後に、トークショーの中で伺った話を。
2020の企画として、日本の歌舞伎の戯曲を、世界の著名な演出家5名が舞台化するという話があったそうです。2020の中止と共にその企画も残念ながら無くなってしまったわけですが、その5名の中で唯一、歌舞伎を題材に作品を創られたのがプルちゃんであり「スカーレット・プリンセス」だったそうです。

中村勘三郎さん・・・私の中では未だに御若い頃の勘九郎さんなのですが、歌舞伎は勿論、演劇自体が大好きで、色々な夢を持っていて、しかもその夢を実現していくだけのエネルギーを持った方でした。
その中村勘三郎が行った歌舞伎の海外公演が縁となり、2020の企画に繋がっていったようなのですが(私の聞き間違いでしたらすみません)、そのトークショーにも登壇されていた串田さんが冒頭「なんでここに勘三郎さんがいないのか不思議で・・・」とおっしゃられていましたけれど、もし御存命でしたら、心から喜び、そして楽しまれたと同時に、悔しがったかも?(笑)しれません。そういう子供のような負けず嫌いな面のある方だったように御見受けしていたので、当時の記憶を想い出し、トークショーを拝聴しながらポロポロポロポロ涙が止まりませんでした。なんで、ここに居らっしゃらないんでしょうね・・・勘三郎さん。急ぎすぎましたよ。

合掌。