參天台五台山記001

參天台五臺山記第一

成尋 撰

延久四年三月十五日(乙未) 寅時。於肥前國松浦郡(【考】郡,雲本作那,非也)壁島。乘唐人船。一船頭曾聚(字曾三郎)南雄州人。二船頭吳鑄(字吳十郎)福州人。三船頭鄭慶(字鄭三郎)泉州人。三人同心令乘船也。船頭等皆悅給物。密密相搆(【考】搆,松本作稱)也。志與物。(【考】志,諸本作悉。原本蠢(→蠧)蝕殘晝(→畫)似志。今據之。志與後文多用之。扶桑略記廿六云。與船頭等物員。米五十斛云云。參照。)米五十斛。絹百疋。褂二重。沙金四小兩。上紙百帖。鐵百廷。水銀百八十兩等也。同乘唐船人。賴緣供奉。快宗供奉聖秀惟觀。心賢。善久沙彌長明。不乘船還人。永智。尋源。快尋。良德。一能。翁丸。拭淚離去。辰時依西風吹不出船。在璧(【考】璧上雲本朱加那字恐非)島西南浦。法華法後夜經第六卷。如意輪供。海邊人來時。諸僧皆隱入一室內。閉戶絕音。此間辛苦不可宣盡。午時日中經第七卷。如意輪供。唐人酒盛。最以有興。申時文殊供。戌時初夜經第八卷。如意供。(【考】供,上雲本朱加輪字)

ノート:
作者成尋は1101年〜1181年に存命していた平安時代の入宋僧。7歳に出家。31歳で大雲寺の別当になった。62歳で天台、五台山の巡礼を発願。三井の新羅明神に祈願し、朝廷から出国の許可も得て、遂に壁島から宋へ向かう旅に出る。(天台山、五台山の巡礼を満足的に行い、宋の皇帝にも謁して、最終的に宋の土地で終焉を迎えた。)
天台山は浙江省の東部にあり、八葉覆蓮の形をしていて、天台教学の根本道場である。五台山は山西省の北東部にあり、文殊菩薩の道場とされる。二山共中国の仏教三大霊場の一つ。
鐵百廷の廷は「挺」か「鋌」の意味に使われていると思う。鐵鋌はお米とともに季禄として官人に支給される。

成尋らが唐人船に乗り、中国人(広東、福建の出身者)のオーナーから大歓迎された。米、お金や服など色々贈り物を貰っている。同乗者も何人かいた。みんな僧侶なのか。供奉は宮中の内道場に奉仕する僧を意味する。
西風に吹かれるために船出が叶えない場合、浦で法華法や如意輪供、文殊供などを厳修する。よその人が海辺に来られる場合、一部屋にひきこもり、声を出すことができないのはちょっと分からない。成尋は許可を貰ってから、堂々と顔を出してもいいじゃんと思うが、他のメンバーは密出国を図るものがあったかしら。この辺の事情がよく分からない。船に乗れず帰ってしまう人も数人いたから、密出国の可能性は排除できないね。


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