護る者
自分が覚えている一番小さな頃の不思議な記憶は3歳くらいだ。
実家は路地の一番奥の右側にあって
私道の両側にも家が建っていて、家の前の道路に出るには見通しが
あまり良くなかった。
私は路地でボールで遊んでいた。
蛍光色のピンクの子供の胸くらいある大きさのやわらかいボール。
家の前には母もいたと思う。
その時、私は転がっていってしまったボールを追いかけて
いきなり道路に飛び出した。
そこにちょうど軽トラックが走ってきた。
その瞬間の私の記憶は無い。
覚えているのはボールを持ちながらワンワン泣いている自分と
すごい剣幕で怒っているトラックのおじさんと
頭をさげて謝っている母の姿だ。
大きくなってから聴いた母の話だと
私はその瞬間にすっぽりと軽トラックの下に
きれいに潜り込んだのだという。
3歳の子がそんなことが瞬時に出来るのかは信じ難いが
私の姿がいきなり見えなくなった瞬間
「心臓が止まるかと思った」と母は言っていた。
私はかすり傷ひとつも無く無事だった。
18歳の頃
友人達とドライブに出かけた。
免許取り立てのそのくらいの年頃の若者が羽目を外すと
大抵ろくな結果にはならない。
少し荒い運転手は、道路にこぼれていた砂利に
ハンドル操作を誤って道路わきに設置してある
コンクリートの壁に正面から激突した。
衝撃で何が起きたのか一瞬わからなかったが
車の助手席から中にめり込んだタイヤが見える。
それくらいには車は壊れていた。
シートベルトも慣習化されていなかった時代
奇跡的に乗っていた誰も怪我をしていなかった
走行不能に壊れた車からとりあえず外になんとか出た瞬間、
私は急に祖父の気配を感じた。
「おじいちゃん?」
私は思わず周囲をキョロキョロしたが
6年前に亡くなった祖父がそこにいるはずがない。
でも確かにとても強い祖父の気配に包まれたことは覚えている。
結局、皆無事だったので、一番近い鉄道の駅まで
とぼとぼと歩いて帰宅することになった。
祖父は私が小学校6年生の時に亡くなった。
父は弟と2人兄弟で
私の本当の祖母は、3人目の出産の時に生まれてきた子と一緒に
39歳で亡くなったと聞いたのはもうかなり大人になってからだった。
死産で生まれた赤ちゃんは女の子だった。
その後、私の知っている祖母が後妻として迎えられたらしい。
男の子が跡取りとして喜ばれていた昭和の時代。
初孫である私が生まれた時に誰よりも喜んだのは祖父だった。
祖父は私を溺愛した。
1歳の初節句の写真はモノクロで残っている。
7段飾りのお雛様の前に晴れ着姿の私が立っている。
横に積み上げられたケースに入ったいくつもの祝い人形
大きな花瓶に飾られた桃の花
たくさんの雛菓子 ホールケーキ
端で私を見ながら目を細めている祖父も映っていた。
母に言わせると頑固で超ワンマンだった祖父らしいが
私の記憶では怒った顔など一度も見た事がなかった。
最後に入院していた病室にお見舞いに行ったとき
祖父はにこにこしながらガリガリに痩せてしまった手で
私にお小遣いを渡そうとした。
私はなんだかそんな祖父を見るのが辛くていたたまれなくなって
早々に病室から出てしまった。
それから間もなく祖父は亡くなり
私は生まれて初めて大切な人の死というものを経験した。
8年前に父が亡くなり、実家の祖霊舎を妹と綺麗に掃除することにした。
祖霊舎とは仏教の仏壇にあたるものだ。
神道の祭壇や神具はほとんどが白木造りで出来ているが
実家の祖霊舎は年代を感じさせる色になっていた。
仏教の位牌にあたる霊璽(れいじ)も白木で作られている。
その中に御霊(みたま)が依代(よりしろ)となり
「神様」そのものとなるので、
直接目に触れてはいけないとされていて
覆いと呼ばれる白木の蓋が被せてある。
記憶にある祖父、祖母、父の霊璽の他に
一番奥にふたつの霊璽があることに気がついた。
ひとつは顔も知らない本当の祖母だろう。
顔が見てみたいと写真を探したが全部処分されていて
祖母の顔を知ることはとうとうできなかった
もうひとつの小さな霊璽を手に取り、綺麗に汚れを取り
本当は見てはいけない覆いを外してみた時
何かが自分の中に波のようにとぷんと入りこんできて
涙が溢れて止まらなくなった。
ああ、これはあの子だ…
この世界を見ることもなく旅立ってしまったあの子だ…
妻と待ち望んだ娘を同時に亡くした祖父の悲哀は
どれだけのものだったのだろう
そして自分はあの子の生まれ変わりだったのだと
なんの根拠もないが その時そう確信した。
泣いている私を、
「何で泣いてるの?」と妹は怪訝そうな顔をしてみていた。
神道では亡くなった人はその家に留まり子孫を護る
「守り神」になると教わってきた。
3歳の時も、18歳の時も、
私はあの時、護られていたのだと思う。
顔も知らない祖母に
愛しんでくれた祖父に
二度と大切な「あの子」を失わないように