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ホタル舞うアメの日

丘の上…彼女に…もう、自由だ…伝えてくれ。
土砂降りの雨の音にかき消され、声が聞こえにくい。 目の前にいる人間の顔が見えないほどの雨。
「ナタキ、警邏の時間。」
「…んん」

 部屋の中央に設置された冷石から放たれる冷気により、心地よい温度を保った室内でナタキは転寝をしていたようだった。 うすく目を開けると、外は暗くなっていて、いつの間にか光石の外灯がついていた。 ナタキは同僚に起こされて、いささか不機嫌になる。
「あと五分…」
「ふざけるな」
ベシ。とファイルで叩かれて、ナタキは飛び起きた。
「痛いなぁ!何すんだよ!!」
「起きたなら行くぞ。」 

同僚は出入り口にかけてある自分の警棒をベルトに刺し、さっさと出て行こうとしていた。 ナタキも同じように警棒を手に取り、同僚のあとを追う。 追いついたところでナタキは同僚の顔を横から覗き込んだ。 

「なあイヤマ、本当に行くのか?外、暑いぜ?」
「俺たちが行かないで誰が行くんだ。」 

最もな意見だ。今日はナタキとイヤマの当番の日である。 が、正直こんな暑い中、町中をうろちょろして、たまに酔っ払いを介抱して何が楽しいのか。ナタキにはそれが理解できなかった。
大体、この小さな町に犯罪なんて起こりやしない。 ナタキは、イヤマをひきとめようと必死になっていた。 

「結構、皆サボってるってし」
「知っている。」 

「俺達がサボっても、誰も文句言わないしさ。どっかでうまいもんでも喰おうよ。」

 「だから、行くんだろ。」
「へ?」
ナタキはイヤマと会話が微妙に成立していないことに気づき、聞き返した。 

「だから。他の奴らがサボるから、俺達ぐらい真面目に警邏しないとまずいだろ。」 

「・・・・・そうですか。」

ナタキは諦めた。
イヤマは真面目で正義感も強い。警吏向きな人間である。 それに対して、ナタキはやる気もない正義感もない。たまたま、口八丁で就職活動をしていて雇 ってもらえた人間である。
(そんなに警邏したけりゃ一人で行けばいいんだ。) ナタキはそんなことを考えながら、イヤマの後ろについていった。 建物のドアを開け、外に出ると、蒸し返した生ぬるい空気が肌にまとわり着く。 昼間と比べれはマシとはいえ、暑いことに変わりは無い。
「なあ。」
ふと、ナタキはあることを思いついてイヤマに話しかける。
「なんだ?」
イヤマは振り返らないまま聞いてきた。
「ジャンケンしようぜ。」
「は?」
ナタキの唐突な発言に、イヤマは足を止めて振り返った。 

「ジャンケン。負けたほうが一人で警邏すんの。勝ったほうは今日の警邏なし。」

 「警邏は原則として、複数人で行うことになっている。」 

「いーじゃん別に。複数人でいなきゃマズイような事件起こんないよ。」 

「しかし・・・・・」
イヤマはしばらく考え込んで、それから頷いた。 「わかった。そうしよう。だが、お前が負けたら、ちゃんと警邏するんだぞ。」 

「わかってるって。」
正直、勝っても負けても、ナタキには関係なかった。
一人になれれば、それで十分だ。 勝てば普通に警邏をする必要はなく、負けても真面目に警邏する気などサラサラなかった。そ して、ナタキは自分はジャンケンは強いという自信があった。 負けることはほとんどない。これで、今夜は晴れて自由の身だ。
そう思っていた。
「じゃあ、よろしくな」
数秒後。イヤマはそう言ってナタキの前から立ち去った。
負けた。
多少のショックがあったが、ナタキは気を取り直して町を歩き出した。 蒸し暑い中で、警吏の制服は最低だった。 第一ボタンは開けているとはいえ、詰襟が暑苦しいのに変わりは無い。 サンダルでも履ければまだ楽だが、当然そんなものは履けない。 ナタキは、通気性の悪い革靴で道路を踏みしめて、ダラダラと時間まで町をさまようことにした。 居酒屋の窓からは光が漏れ、その光に誘われるように人がポツポツと扉をくぐる。扉の向こ うでは、わいわいと騒いでいるらしく、扉が開くと店員の声と歓声がひときわ大きく耳に入る。 ナタキは、その中に入りたいという思いをこらえて、横を通り過ぎた。 町外れの住宅街に来ると、人の声は遠く、灯りも少ない。 その分、虫の声が大きく聴こえてくる。 たまに鳴く犬の鳴き声がひどく寂しくて、ナタキはうんざりした。 何も起こらない町の警邏なんて意味がない。
確かに、事件はいつ起こるかわからない。 だが、起こってからでも意外と遅くもないのではないだろうか。 そこまで考えて、ナタキは頭を振った。 そんなのは詭弁だ。警邏をしたくない人間の言い訳だ。 (だからさ。警邏なんて、真面目な・・・そう、イヤマみたいなヤツだけがやればいいんだ。) ため息をついたナタキの視界の端で、何かがチラリと光った。 ナタキが顔を上げると、道の向こうで淡い緑色の発光体がふわふわと漂っている。 ホタルだろうか?時期としては、だいぶ過ぎてしまっているが、ホタル以外であんな光を見たこ とはない。
ナタキが見ていると、その光は段々と町のはずれの方へ飛んでいく。 その向こうは丘だ。
ナタキは首をかしげた。
ホタルは水辺にいるはずである。そして、水辺へ向かうはずだ。 それなのに、あの光は丘の方へと突き進んでいる。
ナタキは時計を見た。
警邏の時間は、まだしばらくある。
あの光を追ってみよう。
ふらふらと風に漂うように、しかし、しっかりと目的地を目指して不思議な光は飛んでいた。 ナタキはそのあとを追う。
そんなに速くはない。歩いて十分付いて行ける速度だ。 住宅街を抜け、とうとうナタキは町外れの丘に出た。 光は、丘の一番上でフワフワと行ったり来たりを繰り返していた。
時折、その光が消える。 目を凝らすと、光が消えているのではなく、何かが光をさえぎっているようだった。 ナタキは丘を昇り始めた。
丘といってもなだらかな丘である。急なのぼりも存在しない。 20歳になったばかりのナタキにとっては、何の苦もない。 近づいていくと、段々と光をさえぎるものがハッキリと見え出し、ついにそれが人であることが分かった。
一人の女性が踊っていた。
軽やかなステップで、まるでホタルと戯れいるように。 くるくる回りポーンと跳んで、しなやかな体は曲線を描く。
まるで風の妖精のようだ。
ナタキの目は踊っているその女性に釘付けになっていた。 さっきまで感じていた暑さも忘れ、ただ、彼女の流れるような動きに心を奪われいていた。 しばらく見つめていると、彼女はナタキの存在に気づき、踊るのをやめた。 そこで、ナタキもハッとした。
「警吏の人?」
踊りやめた女性に問われて、ナタキは慌てて頷いた。 「何か、いけなかったかしら?ここは入っていけない場所ではなかっと思うのだけど」 女性が不安そうな顔をしたので、ナタキは首を思いっきり横に振った。 「いえ、あの…そうじゃなくて…」 歳はナタキより少し上といったところだろうか。
どこかで会ったことがある気がする。 そんなことを思いながら、ナタキは女性の顔を見ていた。
女性は首をかしげた。
その様子に気づいてナタキは言葉を続ける。 「その…何をしてるんですか?ええと、踊ってるのは分かるんですけど…あ、とても お上手でした。…じゃなくて、何故こんなところで?」 しどろもどろになりながら続けたナタキに、女性はキョトンとしていた。 ナタキはそのまま続ける。 「あ…んと。こんな町外れに女性が一人でいるのは、その…やはり危ないのではない かと…」
「ああ。ごめんなさい。」
女性は気づかなかったといったふうで普通に驚いていた。 そして少し悩んでから空を見上げる。
「…でも、ここじゃないとダメなんです。」 ナタキはそんなことを言われるとは思っていなかったので、一瞬戸惑った。 「え…あ。そうなんですか。じゃあ、仕方ない…ですね。」
「すみません」
「いえ…」 なんだ、この会話は。自分でも、何かが変だと思いながらナタキは女性と話していた。仕方ないって、何が仕方ないんだ。
ナタキはそのまま、余計なことを口走ってしまった。 「邪魔でなければ帰るまで私がいますけど。何かあったら困りますし。」

放って置けばいいことだった。別に何も起こりはしない。 ここを通りすぎてだらだらと町を歩いて、適当に休んで警吏署に帰れば良いのだ。だが、ナタキ はそうしなかった。 何がそうさせたのかは分からない。彼女の踊りが美しかったからなのか、それとも見たことがあった気がしたからなのだろうか。 原因はわからない。ただ、ナタキはそうしたいと思ったから、そこにとどまることにした。 

「じゃあお願いします。」
女性は微笑み、また踊り始めた。 美しい。まるで彼女の周りにだけ重力がないように、軽やかに彼女は踊っていた。 ときに楽しそうに、ときに切なく、ときに幸せそうに。彼女の踊りは流れるように表情を変えてナタキを魅了した。
「何かの練習なんですか?」
ナタキは一通り踊り終えた彼女に聞いてみた。
彼女はまた微笑んで答えた。
「いいえ、約束なんです。」
「約束?」
「踊れる限り踊り続けると、約束したんです。」
その微笑には幾分か憂いが混ざっていた。
答えると、女性はまた踊り始めた。 その踊りが終わると、女性は「今日はもう帰ります」と言って、去っていった。 ナタキはそれを見送ったあと、腕時計を見た。
「!やべっ!」
普通なら警邏を終わっている時間を1時間も過ぎていた。 ナタキは全速力で警吏署に走って帰った。
イヤマは警吏署の前でナタキを待っていた。 イヤマは不機嫌な顔はしていたものの、特に何も聞かずにナタキの呼吸が落ち着くのを待って建物の中に入っていった。
次の週。また、ナタキとイヤマの警邏の日が来た。 「あのさ、イヤマ。今日も先週みたいにできないかな?」
「駄目だ。」 出口付近で小声で言ったナタキの言葉を即座に切って、イヤマは外に出る。 蒸し暑い、湿った空気が肌にまとわりつく。
「なんで…」
「警邏、しないだろ。」 先ほどと同じようにナタキの言葉を切って、イヤマは冷たく言い放った。

ナタキは言い返すこともできず、しかし、納得できずにしかめっ面でイヤマの後ろを着いて歩き 出した。
「あのさ…」
「なんだ。」 イヤマの声は事務的だった。いつもそうなのだが、いつもに増した事務的だった。 「ちょっと、寄って欲しいところがあるんだけど…」 ナタキは、そう言ってイヤマの顔色をうかがった。 イヤマにジロリと睨まれ、一瞬体を縮ませる。
「どこだ?」
睨んだまま、イヤマは聞いてきた。
ナタキは恐る恐る口を開く。
「住宅街の奥の丘。」
場所を聞いたとたんにイヤマの表情が激変する。
「何の用だ?」
驚きと不安の混ざったような声にナタキが逆に驚いた。 イヤマがこんなに驚くことなんて、そうないことだ。
「いや…ちょっと……」
ナタキは、仕方なく先週のことを話した。
丘の上で踊る女性の話。
イヤマは、それを聞いて少し考え込み、ため息をついた。
「わかった。少し寄ってみよう。」
結論を出し、ナタキに告げる。
「ほんとに?!」
心底喜んでいるナタキに少し不安げな視線を向け、イヤマは頷いた。
「ああ・・・・」
二人は町を早足で軽くひとまわりし、それから丘へ向かった。 先週と同じところにつくと、丘には一匹のホタルが舞っていて、それが先週と同じように見え隠 れしていた。
ナタキはそれを見て、丘に駆け寄ろうとした。
「待て。」
走り出したナタキの腕をつかみ、イヤマはナタキを引き止めた。
「なんだよ。」
「本当に人がいるのか?」
「いるよ。」
「…………そうか。」 

イヤマは眉間にしわを寄せたまま手を離した。ナタキは丘に駆けて行く。 丘に着くと、女性はすでに踊っていた。

先週と同じように、くるくる回りポーンと跳んで、しなやかな体は曲線を描く。 ナタキに気づくと、女性は一端踊るのを止めて、ナタキに近づいてきた。 

「また、いらしたんですね。」
女性は笑顔でナタキに話しかけた。
「…はい。本当に、ずっと踊っているんですね。」
「ええ。約束ですから。」

 答えた女性の表情は、やはり先週と同じように少し憂いを含んでいた。 どうも、それが気になってナタキは続けて質問した。 

「あの…誰との約束なんですか?」

 女性はその細く白い右腕を天にかざし、上を向くと何も言わずにまた踊り始めた。 ナタキの後ろからゆっくりとイヤマが歩いてくる。 ナタキは女性が答えれくれなかったことに、少し腹を立てながらも、結局は彼女の踊りに魅入っ てしまい、そのことは段々どうでもよくなっていった。
イヤマがナタキの肩を叩く。 

「ナタキ、もういいか?」
「え?」 イヤマに言われて我に返り、ナタキは辺りを見回した。 女性はいなくなっていた。
「あれ…?」
「警吏署に帰ろう。あまり遅いと変に思われる。」
イヤマの声が少し強張っていた。
「あ…うん。」 なんとなく釈然としないまま、ナタキはイヤマのあとについて丘をあとにした。 丘から離れて、少し経った頃、イヤマが口を開いた。 

「あの丘、警吏署の先輩がなんて呼んでるか知ってるか?」
「いや。」 

イヤマは、言いにくそうに唇を一度噛んでから息を吸い、止めてナタキの表情をうかがってから 息をはいた。 

「幽霊が丘。自分と近しい未練のある死んだはずの人間と会うことがあるらしい。何をバカなこ とをと思っていたが・・・・」
「どういうことだよ。」
ナタキは急に不安になった。そんなわけはない。 「ナタキ。お前はいったい誰と話していた?俺には何も見えなかった。」 

「何言ってるんだよ…やめろよ。そういうの…」 イヤマはそんな冗談は言わない。そんなことは知っていた。 しかし、そんなことは信じられなかった。
「………」

イヤマは何も言わずに、じっとナタキを見ていた。 

「だって…俺は、あんな女の人知らないし。」

 なんとか違うことを証明しようと、相違点を探したが、それぐらいしか思い浮かばない。 

「お前が覚えてないだけかもしれない。どこかで繋がっている可能性はあるんだ。資料を調べてみよう。」
イヤマは真剣そのものだった。ナタキはそんなことは信じられなかった。 あの女性が幽霊だなんて。そんなわけがない。

 「…いいけど、多分見つからないよ。」 見つからなければいいと思った。
次の日から、イヤマとナタキは空いた時間には資料室で過去の事件、事故で死んだ女性を調べ始 めた。新聞にも目を通し、段々と時間をさかのぼっていく。 事件も事故も少ない町なので、そう時間はかからない。
1日に1年分は調べられる。
「ほら、やっぱりないよ。」 ナタキはそんなことを言いながら、毎日、新聞や資料の写真を眺めていた。5日過ぎ、6日過ぎ、 また、一週間がたった。
ナタキは資料を片手に外を眺めていた。
「今日も、踊ってるのかな。」
窓の外は雨だった。土砂降りで、窓の外がほとんど見えない。
警邏の時間も近づいてきている。 こんな日も警邏だなんて最低だ。いつもならそう思っていただろう。 だが、今日は違った。あの女性が気になる。 まさか、今日も踊っているなんてことはないと思う。しかし、もしかすると踊っているのかもし れない。
ナタキの手には七年前の夏の事故での死者の名前が並んでいた。 資料に再び目を戻し、一ページめくる。
ナタキの目は、そこで止まった。 その様子に気づいたイヤマが新聞を放ってナタキの方に駆け寄った。

 「どうした?何か見つかったか?」
ナタキは一つの名前を指していた。
「サリュウ・クカワ?これは男だろう?」
「馬車で轢かれた。土砂降りの日に。」
雨の音が耳について離れない。
「隣の家に住んでた。仲良かった兄ちゃんで。」 ナタキの中で急速に7年前の記憶が鮮明に蘇ってきていた。
イヤマは、ただ聞いていた。

「打ち所が悪くて、死んだ。確か、婚約者がいたんだけど。」
「その婚約者はどうした?」
「事故の数週間前に婚約破棄されたって……」 ナタキは資料を閉じ、立ち上がった。ナタキの中で何かが繋がった。
「そういうことか。」
一人納得すると、ナタキはイヤマを放って資料室を飛び出した。
「ナタキ?!」 イヤマが叫んで追いかけたが、ナタキは警吏署から傘も差さずに雨の中に飛び出していった。 大粒の雨が降っている。雨粒の地面や屋根に当たる音が大きくて、それ以外の音は聞こえない。 ナタキは濡れるのも気にせず走っていた。
七年前。あのときもこうして走っていた。 原因はなんだったかよく覚えていない。おそらく、今となってはどうでもいいことで親と喧嘩して、家を飛び出した。 クカワに会いたかった。クカワなら分かってくれる。理解してくれる。 だから、クカワに会いたかった。家にいなかったので、クカワを探してナタキは町の中を走って いた。
雨が顔に当たって、涙とぐしょぐしょに混ざってしまっていた。
本当に偶然だった。 誰かが馬車に轢かれた。そして、轢かれた人はたまたま驚いて立ち止まったナタキの目の前に降って来た。馬のいななきが聴こえた。
見知った顔だった。
「クカワ兄ちゃん!」 相手も、自分だと分かったらしい。体は起こせないが、手を伸ばしてきた。 ナタキはその手をつかんだ。冷たかった。
雨のせいで、ひどく冷えていた。
その人は、何か必死にナタキに伝えようとしていた。 それに気づいたナタキは兄のように慕っていた隣人に顔を近づけた。 「丘の上…彼女に…もう、自由だ…伝えて…」 その声は途切れ途切れで、ひどく聞き取りにくかった。 雨の音が耳に残る。聞きたい言葉が上手く聞き取れない。 ナタキは、突然のことにただ困惑していた。雨が目に入ってくる。 クカワのよく見知った顔が、ぼやけてよく見えない。 意味がわからなかった。クカワが何が言いたいのか。
何の話をしているのか。
クカワは、何度も何度も同じことを繰り返し口にしていた。 ナタキは、何も言えずにじっとクカワの言葉を聴いていた。 意味はわからなかった。でも、聞かなければならない気がした。

クカワは病院に運ばれたが手遅れだった。
ナタキは丘に来ていた。 ずぶぬれで、雨が目に入ったので、ナタキはそれを手の甲でぬぐった。 ホタルがいた。あの女性もいた。
女性はやはり踊っていた。
「こんな日も、踊っているんですね。」 ナタキは笑顔で女性に声をかけた。少なくとも笑顔のつもりで声をかけた。 うまくいったかどうかはわからない。声は、少し震えていて、どうもうまくいった気はしなか った。
「ええ。」
女性は踊りをやめずに答えた。
「サリュウ・クカワから…伝言です。」
女性はピタリと動きを止めた。
「もう、自由だ。と、あなたに伝えるように言われました。」
女性は再び踊り始めた。
ナタキはその女性の踊りを見ていた。今度は魅入ったりしなかった。
その踊りは寂しすぎた。
「もう、いいんです…もう、踊らなくていいんです!」 

ナタキは叫んだ。それでも女性は踊り続けた。 「あなたがどうして踊っているのか、どうして婚約を破棄したのか、知りません。でも、クカワはもう自由だ。と、言ったんです。あなたに伝えて欲しいと。」 

ステップは速くなり、女性の表情はいっそう悲しくなっていく。 

「遅くなって申し訳ありませんでした。でも、あのとき…七年前の俺にはわからなかったんです。」
彼女は踊りをやめなった。 

「クカワは死んだんです。七年前に、馬車に轢かれて。だから、あなたに直接言うことはでき なかった。俺が、伝言を預かっていて…やっと、意味がわかったんです。だから、もう踊らなくていいんです。」 

女性は、ひときわ高く跳んだあと、着地に失敗し、地面に座り込み、そこでやっとナタキを見た 。
「…七年前に…死んだ?」 彼女は泣いている様に見えた。実際は雨で顔が濡れいてるだけだったと思う。それでも、ナタキ には泣いているように見えた。
「はい。」
ナタキは頷いて、はっきりと答えた。 

「私は…あの人を裏切り、踊り続けることを選んで、でも、病気ですぐに踊れなくなって…気づいたら、故郷のこの丘で踊っていて、あの人がそれを見に来てくれて、幸せだ ったのに。……ある日、あの人は来なくなって…踊れる限り踊り続けて欲しいって、あの人に言われたから... 私...」 「七年前。土砂降りの日に、クカワは死んだんです。」
「七年も…前に。」
彼女は座り込んだまま、両手に顔をうずめた。 「もう、自由だと。もう、踊らなくてもいいと。クカワは言っていました。」 

「あの人は…裏切った私を許してくれるのですね。ああ……」 

ナタキはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、丘の上に座り込んだ女性を見ていた。 女性はゆっくりと顔をあげ、ナタキに涙の浮かんだ瞳を向けた。
「ありがとう…」
それは、かなしい涙ではなかった。
ナタキにはそう見えた。
その顔は安らかで、幸せに満ちていた。 その女性の姿は、雨の中、段々と透明度を増していき、最後にはあのホタルだけが残っていた。 そして、そのホタルも灰色の空に吸い込まれるように舞い上がり、雨の中に消えていった。 ナタキは丘の上で雨の降ってくる、その先をじっと見つめていた。 頬を温かい、雨粒ではないものが伝っていった。



「ナタキ。見舞いに来たぞ。」 イヤマがトマトを一つ持って、ナタキの部屋の玄関に立っていた。
「ん。ありがと。」
ナタキは鼻をすすってトマトを受け取った。 ナタキは土砂降りの中、傘も差さずに長時間外にいたため風邪をひいてしまったのだった。 

「それで、結局何がどうなったんだ?」

 イヤマに聞かれて、ナタキはどう答えていいものか考えた。 一日たって自分でも、あれが現実だったのかどうか分からなくなっていた。 土砂降りの雨の中で、風邪を引いてしまって、あのときすでに熱があったのかもしれない。

 「…やっぱり、あそこ幽霊が丘なんじゃないかな。」 

考えた結果、ナタキにはそれしか言えなかった。
「ふうん」
イヤマはそれ以上追求しなかった。

「じゃ、お大事に。早く治せよ。」 イヤマはそう言って去っていった。 ナタキはトマトを一口食べて、ベッドに向かった。 トマトは甘く、適度に酸味が利いていた。

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