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執筆という名の魔物

 小説を書く人ならば、「ぽっとアイデアが浮かんでさっとストーリーが思いついて、電光石火で書き上げる方法ってないのかなー」という妄想を一度や二度や三度はしたことがあるのではないでしょうか……私は始終しております。
 おおまかなプロットは出来たし、ラストもエピソードも決まっている、よし後は書くだけ!……だけ……なんだけど……。  
ーー詰まった。なぜだ……なぜ……。と頭を掻き毟るということが、そりゃあもうよくありまして。いえ、書こうと思えば無理矢理書けないことはない。でも確実に面白くないとわかっている。こういう状況に陥ることは結構あります。上手く行く時は「あ、出来た」とピピッと来て、つるつるーっと行くんだけど、なぜなのかはいくら考えてもよくわからない。
 数週間から数ヶ月寝かせておくと急に突破口が開けることがあるとか、こういうパターンの話運びは上手く行きやすいとか、経験的にわかっていることもあるのですが、それでも袋小路に入ってしまうことはやっぱりある。未完成の作品がPCに蓄積されていくのは切ないものです。自分でも早く完成稿が読みたいのに読めない。誰か代わりに書いて!いやでもやっぱり自分で書きたいかも。ああ……

 執筆過程の話をしますと、プロットはざっくり作り、後は書きながら考える派です。長編でも短篇でもそれほど変わりません。ひどい時はあらすじ五行に起承転結ざっくり数行ずつ、主要登場人物だけ決めて見切り発車をしたりします(プロットにもなっていない予感)。短篇の方がプロットの細部はそこそこ出来上がっていますが、書いている間に変更を加えることも。大抵の場合最初と最後、小さい山場と大きい山場だけ決めておいて、後は走り出してからどんどん詰めて行くので、「へぇーこの物語にはこういうテーマが隠れていたのか!ほぉーこの人にはこんな役割があったのか!」と書きながら気がついたりもします。最初からきっちりプロットを作って臨まれる方は凄い。本当に尊敬します。
 時代小説の難しいところは、プロットの段階でも膨大な時代考証が必要で、資料を何日も何週間も延々読み込んでもまだプロットの前半すら出来ていない、ということが多いことでしょうか(わ、私だけ……?)。とある歴史上の事件を扱うとして、十年前はこう考えられていたことが、現在では新事実が判明して真逆に解釈されているとか、結構よくある話です。そんなことをしていると考証の沼にはまって出られなくなるんですが。でも、ここが緩いと説得力がなくなってしまうと思うと手を抜けない。それに嫌というほど脳にインプットしておくと、思わぬアイデアが浮かんだりするんですよね。だから読むしかない。まぁ、そういう作業も面白いんですが。肩こりと老眼進みますねーー

 そんなこんなでどうにかプロットの目途が立ったら、執筆に入ります。一応頭から書き始めますが、虫食い状態でぽんぽんと書けるところから埋めていきます(箱書きっていうんでしょうか)。ラストシーンが決まっていたらラストももう書いてしまいます。途中で詰まった時や、気分が乗らない時には、BGMを流したり、好きな本を読み返すこともよくします。アドレナリンを出す感じで。最近は浅田次郎さんの『五郎治殿御始末』と朝井まかてさんの『銀の猫』が素晴らしくて、うわぁー自分の甘っちょろさが泣けてくるーなどと思いながら読み返してはカツを入れてもらっております。お二方ともタイムマシンで江戸時代を見ていらしたのではなかろうか。浅田次郎さん、前世は武士ですよね?絶対そうですよね?
 で、ともかく書きたい場面を頭の中から出してしまわないと間を埋める場面が書けないタイプなので、どんどんアウトプットして行って、足りない部分を埋めていくというスタイルです。そして、ああここは伏線が欲しいな、この人物がこの場面にいたらおかしいな、脇役足りないな、この人に立ち聞きさせよう、といった具合に行ったり来たりして整合性を取って行きます。 最後まで行き着いたら、大体六割方完成。後は加筆修正推敲加筆修正推敲……とひたすら繰り返して完成形に仕上げていきます。執筆過程ではここが一番楽しい。宝石をカットしてあとは研磨する段階ですから、大変だけどほぼ楽しいだけです。 

 我ながら平凡な執筆過程ですね。いや、これじゃまずいのだろうか……しかし他の方法を試してみても(ポストイットを壁に貼るとかエクセル管理とか)、結局楽な方式に戻るんですよね。ずぼらなのかも。
 松本清張は十作品くらい同時並行で執筆していたとか。凄まじいですね。やれといわれたら出来るだろうけど、とんでもない駄作を量産するだろうな。凡人はじたばたしつつ、こつこつ執筆するとします……。

 (ちなみに冒頭の写真は近所の公園です。奥の建物は保育園)

 

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