『カフェで夜ご飯を食べる日』 2024年6月29日 日記

カフェが好きだ。
ファミレスよりは尖っているけれど、レストランよりは角ばっていない。
個性に溢れているのにどこか上品なカフェが好きだ。
響きも良い。カフェ。フェが良い味を出しているように思う。カフだったとしたらここまで世間に浸透しなかったのではないか。いや、カフも結構良いな。フの腑抜け感。これが、カと聞いた時に盛り上がった肩を優しくなでてくれる役割を果たしているのだろう。

何が目的でカフェに行くのかは人それぞれだが、私はもっぱら読書のためである。読書なら自宅でも散々やっているのだけど、何分集中力が無い私は、掃除や洗濯などやらなければならないことが次々と頭に過ってしまうため、思うようにページが進まない。私には、読書をする際にそんな厄介ごとを考えなくて済む空間が必要なのである。それに適した空間がカフェなのだ。美味しいコーヒーとケーキという豊かな枷が椅子に引き留めてくれているからこそ、初めて読書ができる。

というわけで、カフェに行ったときのほとんどの場合でコーヒーとケーキを注文する。これは行く時間も大いに関係がある(カフェは絶妙な時間帯に閉まってしまうし)。

この日バイトを終えた私は、小腹が空いたのでどこかそこらで食事を取ろうと考えた。携帯で近くの店を探していると、ファミレス、ファーストフードの他に、なんと、こんな時間まで営業しているカフェが一件あった。これは行くしかない。意気込んで、慣れない道をグングン進んでいった。前へ進むたびに、光が鳴りを潜め、闇が活気づいていった。街灯の明かりが、私の心細さを抱擁できなくなった頃、ふっと、明かりの灯っている建物が目に入った。

ここだ。ここが目的のカフェだ。

こんな時間に建物に入るという経験が中々無いから、ドアの前から動くのに少々時間がかかった。何か自分が泥棒のようにも感じられた。

こんばんわ。と言いながらドアを開けると、自然な笑みを浮かべた店員さんが出迎えてくれた。どこでもどうぞ、と言われたので、店の角に面している席に座った。緊張を和らげるため、初めて訪れる店では角っこに座るようにしている(角はなんとなく落ち着くから)。

店員さんがメニューを持ってきてくれた。何種類かの美味しそうな響きの中から、今回はチキンのローストにした。どこかで見かける度にローストという名前にはそそられる。ローストという調理法は別に家でもできるけれど、なんとなく特別感のある響きである。
パンかご飯か聞かれたので、ご飯を選択した。どうやら、ここのご飯は五分づき米だという(精米の度合い)、なんとなく健康の良さそうなものだったのでこちらにした。今考えると、外食で高いお金を払って健康的なものを食べるというのはおかしな感覚だ。五分づき米より、白米の方がおいしいはずだろう。敢えてそれを取り扱っているというのは、私たちに健康でいてほしいという願いからなのだろうか。健康になれる食品を食べるハードルを下げる役割を担っているのだろうか。だとしたら、ありがたくいただこう。しかし、そうであるのならばこの時間にご飯物を出していることは最大の矛盾である。

待つ。
結構待つ。
直ぐに出せるコーヒーやケーキと違って、一から調理するご飯物は時間がかかる。当たり前のことだけれど、相対的に割合長く感じる。
こういう時は内装を見渡すのが良い。乳白色の壁には所々ラックが設けられており、そこにいくつかの本が並べられている。手に取ってみるとこちらは売り物だった。気になって他の本も見てみると、どれも売り物だということが分かる。聞くと、近くの古本屋さんと提携しているそうだ。
席は今座っている他に、大小さまざまな規模のものがあり、他にはソファ掛けのものもある。カウンターもあるけれど、人生で座った試しはない。あそこには何らかのオーラが立ち込めており、そのオーラをものともしない人しか座ることができないのだ。いつかは私もそちら側の人間になりたいと思うのだが。

料理が運ばれた。綺麗。最初に思ったことがそれである。こんがり焼かれたチキン、粒マスタード、パクチー、それを彩るプレート。調和が目の前にある。パリパリに焼いた皮が添えられているのもうれしい。ある意味、外食は料理の盛り付けを見るために行っているといっても過言ではないかもしれない。ささやかな芸術とも言うべきか。美味しさを引き立たせる最初のスパイスは盛り付けであると思う。

チキンにナイフを入れる。ほぐれた繊維の隙間から肉汁がちろちろと溢れてくる。口に入れる。美味い。想像以上にしっとりと柔らかく仕上げられている。ご飯を口いっぱいにほおばると、全身が多幸感で包まれる。合間にパリパリの皮を食べる。ギュムギュムとした触感にカリッという触感が合わさってなんとも楽しい。たまに顔を出すパクチーの香りが口いっぱいに新鮮さを届けてくれる。それぞれがそれぞれ、欠けてはいけない存在なのだ。
カフェにはテレビが無い。スマホも見ない。あるのは目の前に置かれた料理だけだ。だから料理と向き合える真剣に食べることができる。乗せられた食材の意味を理解することができる。

食べ終わり、店を後にする。

いつもより食事に集中できた気がする。
カフェでご飯を食べるのもアリだなと思う一日だった。


今日はこのくらいで。
おやすみなさい、さようなら。

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