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信じるに足る言葉のために

言葉を発することができない、という感覚が生じ始めてから、いつの間にか10年近く経ってしまった。

私を知る人は、嘘をついていると思うだろう。お前は文章を書き、トークイベントに出て、今は大学で講義もしている。映像作家としては饒舌すぎるほど喋り続けてきたじゃないか。今もこうして書き散らかしているじゃないか、と。

もちろんそれはそうなのだけれど、当人としては、肝心なことは何一つ言えてないという実感がある。しかもそれは、どこまでも言語表現を突き詰めようとする向上心がハードルを上げているというよりは、言葉そのものへの不信感や諦めのような感情が、語ることや書くことを躊躇わせるのだった。

言葉はあまりにも簡単に嘘を付けてしまう。思ってもないことを言ったり、つまらない作品を褒めたり、虚勢のために貶したり、大切なことを誤魔化したり茶化したりできてしまう。

それをいちいち咎めてくれていた神は、呆れて去って行ってしまった。都合良く自分を肯定してくれる神を、場面ごとに選べば良いというスタイルが主流になった。それは必ずしも悪いことばかりではないかもしれないけれど、やはり選択を厳しく吟味する基準を欠けば、必然的に言葉は衰弱していく。そもそも信頼に足るものではなくなる。

もちろん、こんな状況認識は常識に属している。神なき世界、足場なき世界で、それでもなお言葉を発し、世のため、人のために行動せよという声が四方から聞こえてくる。だがそこで前提にされている思想や美学、善悪の基準を鵜呑みにはしたくない。

たとえいずれ変わっていくのだとしても、現時点で自分なりに納得のいく、そして遵守するに足る言葉の原理、行動の原理を持っていなければ、その結果に対する責任を引き受けることもできない。相手に信じてもらえるかもらえないか以前に、まずは、信じるに足る言葉でなければならない。もっとも厳しい神の元で語らなければならない。

暫定的な結論。関係する人や物や関係性自体が備えているポテンシャルを解き放つための言葉や行動を求めること。今のところ、それがもっとも偏見や常識を鵜呑みにせず、反省や変化を恐れず、思考を腐らせずに生きるための原理になり得ると考えている。

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