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オンライン映像祭「Films From Nowhere」作品紹介

 映像作家の荒木悠さん、そして関内文庫との共同企画として始まったオンライン映像祭「Films From Nowhere」も今週末で終了。3月29日(日)24:00までレンタル購入可能です(購入から3日間、1,000円で全作品見放題)。なかなか上映機会のない作品も多いので、どうぞお見逃しなく!

 新型コロナウイルス自体の脅威のみならず、政府の「やってる感」演出に右往左往させられていることに疑問を覚え、急遽(というか勢いで)始めた企画でしたが、予想以上に多くの人に関心を持ってもらえたようで、ありがたく思っています。

以下、企画者の立場から簡単な作品紹介をしてみました。作者の意図とずれたところも多々あるかもしれませんが、何かしら鑑賞の参考になれば幸いです。

荒木悠《Deep Search (digested version)》
カメラと身体のフィジカルな接触がもたらす緊張感と、それを安全圏から眺める観客。カーアクションやスカイアクションに見られる弾道的アクション、シネマティズムがもたらすサスペンス構造を分析的に踏襲。『ミクロの決死圏』や『ファイト・クラブ』OPも想起。

荒木悠《ANGELO LIVES》
探索的なカメラ利用から生まれる語り口の多様さが荒木作品を特徴づける。ショット間の接続ルールをいったん解きほぐし、作中で再びルール設定をしていく過程がスリリング。カメラが埋め込まれた「口」がシンプルな操作で「(両)眼」へと回帰するラストの鮮やかさ!

荒木悠《YEDDO》
拙作『土瀝青 asphalt』とも共通する、イメージとテクスト、二つの時代の重ね合わせ。誤訳・誤用を通じて風景の見え方をずらしてみせる作家の戦略が明快に表れており、荒木作品入門篇としてもお薦め。

池添俊《あの人の顔を思い出せない》
フィルムをデジタル化した粒子感の強いイメージと、そのルックに沿って揺れ・ボケる黒いヴェール。擬古文的あるいは倒錯的な構造映画詩。ジョン・スミス『The Black Tower』も想起した。

池添俊《his/her》
モノローグではなく口笛であることによって、映像(カメラ)の一人称と音声(口笛)の一人称の対応関係に不確かさが持ち込まれる。私的な記録/記憶でありながら集合的な記録/記憶でもあるホームムービーや家族写真の再検討を促す作品として見た。 

池添俊《揺蕩》
デジタル化されたフィルム映像の、高精細な粒子をウェブ上で鑑賞すること。記憶とテクノロジーの恣意的とも必然的ともいえる結びつきに目配りしつつも、あくまで映像詩として提示された香港旅行記。都市風景の表象としては、金坂健二作品とも比較して考えてみたい。

内山もにか《Anatomy of Dependence》
タイトルは土居健郎『「甘え」の構造』から? Lineのビデオ通話画面をキャプチャし再構成。愛犬の死を前にしながらも、撮影、スクショ、そして自身の顔(?)を色彩で塗り潰すといった行為によって、感情は容赦なく腑分けされ、対象化される。まさに依存(という感情)の解剖学の実践。

内山もにか《a new use》
作者とその家族、反復的形態と手仕事のニュアンス、時代の変化と変わらない手順、慎重に図られた二項間の距離。日常にある小さきものの「死」を、追悼するでも打ち棄てるでもなく、再び元の場所に戻すという身振りが、本作の無時間的な時間を象徴している。

海野林太郎《ロング・ロングショット》
実写で再現されたFPS的カメラワークという「結果」だけを享受すると海野作品の半面を見落とす。なぜ「FPS的」と感じるかを探る風景の観察と分析の精緻さ、その運動を物理的なカメラに落とし込むための技術的・身体的鍛錬を「映画」の問題としても読み解いてみたい。

海野林太郎《3rdトラベラー》
「「マインクラフト」のカメラワークを参照」して制作された本作を、例えば同じ作家の『浮遊霊の気分で』のカメラワークと比較することをお勧めしたい。現実空間の有り様に対して、いかなるゲームを召還するかという選択の時点で、既に風景への批評は始まっている。

木野彩子、佐々木友輔《【補講】ダンスハ保健体育ナリ?》
ダンスとは何か。体育なのか? 芸術なのか? を教育現場から問うレクチャーパフォーマンス。規律訓練の内側から、平準化され自粛を迫られる身体を叛乱させるための手がかりを探る。

佐々木友輔《コールヒストリー》
風景論映画の姿を借りつつ、「聞くこと」の困難について思考を重ねる複数の「ドラマ」。映画の美学から巧妙に締め出されている「批評」や「解説」の言葉をあえて組み込み、日本のアートをめぐる言説を検討する新たな言文一致の語りの創出を試みている。

地主麻衣子《欲望の音》
手持ちカメラで操作される作者の眼差し=欲望、下世話な興味で笑い声をあげる観客の眼差し=欲望、打ち鳴らされるドラムのリズムを視覚的に伝える固定カメラの眼差し(=欲望の音)の三画面で構成。これは欲望というテーマを超えて「演出」や「共同制作」一般のプロセスそのものでもある。

波田野州平《内部》
カメラによって凝視された事物のディティールと、奇妙なまでに抽象化された顔の無い者たちの「語り」 、その両極の間に生起して我々の頭に植えつけられる記憶は、リアルであることもフェイクであることも自ら否定しようとする。nowhereな風景を見るための映画。

波田野州平《影の由来》
私は勝手に波田野さんの代表作と思っている。波田野作品の特徴である「水」の表現が全編に満ちており、そのイメージの揺らぎ、実体の掴めなさが、フィクションとノンフィクションの境界を撹乱する物語と響き合う。「何かを見た」という感触だけが残る不思議な時間。

渡邉ひろ子《蟻と魚と鳥が出会う処》
常に思わぬ方向へと流れ出していく言葉のドキュメント。言葉が造形され凝固するまでの時間と、言葉が配置され溶けて消えゆくまでの時間、二つのタイムラインが重なり合う一種のコンクリート・ポエトリー。「足場を持たないもの」とは、基準となる「時」と「形」を確定できないもののことか。


映像祭に寄せて、もしくはことの発端

 2020年2月27日に掛かってきたある一本の電話。映像作家の佐々木友輔さんからだった。新型コロナウイルスの感染拡大防止対策の一環として、日本全国軒並みにあらゆるイベントが中止になっていった渦中である。その日私は京都にいて、本来であれば二日後に初日を迎えるはずの、ある舞台作品のバラシを終えたばかりだった。電話口から聴こえる、彼のいつものクールな声。しかしその奥底に潜む本映像祭への熱い想いに感銘を受け、二つ返事で協力させて欲しいと伝えた。自粛が相次ぐ状況下で、自ら場を作り出していこうとするその姿勢、またその実行力の早さに企画者でもある佐々木さんの真髄をみた気がしたのだった。

 今回、私は私で、もっと作品を観る機会が欲しい、もしくはもっと多くの人に知ってもらいたいと思っている映像作家に声をかけさせてもらった。上映とは異なる環境であるにも関わらず、皆んな快く受けてくれたことがとても嬉しかった。この場を借りて深く感謝申し上げたい。やはり、機転の効いた発想には、協力者が瞬く間に集まる力が秘められているようだ。このことへの再認識は、作り手としても一条の光であった。一日も早い事態収束を願いつつ、本プログラムが少しでも皆様のいる生活空間への「潤い」となれば幸甚である。(荒木 悠)
鳥取で、続報を待ちながら

 新型コロナウイルス感染症の拡大防止のためという大義名分のもと、多くの芸術・文化に関わるイベントが延期もしくは中止に追いやられている。現時点(2020年3月1日)では感染者の確認されていない鳥取も例外ではなく、私自身、間近に迫った新作の上映会を予定通り開催するべきかどうか、主催団体や会場、関係者たちと協議を続けているところだ。

 「イベントの自粛を呼びかけ」「小中高の臨時休校を要請」……日々刻々と状況は変化していき、ジリジリとした気持ちで続報を待つ。すでに多くの人々が語っているように、感染症自体の脅威というよりも政府の「やってる感」演出に右往左往させられている感が否めない。TwitterやFacebookを開けば、全国各地の友人たちが、予定していた上映やイベントが中止になったことで行き場をなくし、嘆いたり、暇を持て余したりしていた。

 オンライン映像祭を企画したのは、何よりもまず、彼らに作品を見る場所を提供したかったからだ。阪神・淡路大震災のとき、ご近所の方々に炊き出しを振る舞ってもらったことを思い出していた。食事をとらなければ生きていけないのと同じように、作品を摂取しなければ生きていけない者もいる。好き嫌いや食物アレルギーもあるから、選択肢は多いほうがいい。誰かが生き延びるために、自分の作ったものが少しでもその人の腹を満たせるなら、それはどんな地位や名声よりも誇らしいことだと思った。

 早速、このような考えに賛同してくれるに違いないと直感した映像作家に声をかけた。荒木悠さんには共同企画者として、コンセプトの練り上げや作家の選定にも加わってもらった。唐突な呼びかけにもかかわらず、みなが即座に参加表明をしてくださったおかげで迅速に事が運び、おそらくもっともイベントの中止や延期が多いであろう三月に映像祭開催を間に合わせることができた。心からお礼を申し上げたい。

 今回、視聴可能期間はレンタル料金の支払いから3日間(72時間)と設定している。全体の作品数が多いので、3日間ではあまりに短いと感じるかもしれないが、それはこの企画が「映像祭」であるために必要なことなのだとご理解いただきたい。ぜひ現実空間上の映画祭や映像祭の「一日通し券」を購入したつもりで、まとまった時間を設けて、目当ての作家の作品もそれ以外の作品も併せてたっぷり楽しんでいただけたらと思う。「どこでもない場所」で過ごす休日も、たまには悪くないかもしれない。 (佐々木 友輔)




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