見出し画像

Experimental film culture vol.3.5 in Japan 特別配信プログラム

11月、上映会「Experimental Film Culture in Japan」の配信プログラムで西澤諭志さんの『百光』と加藤貴文さんの『15s』を見た。

Experimental film culture in Japanは、「劇映画」「ドキュメンタリー」「実験映像」「美術作品としての映像」の垣根を越え、とりわけ国内では紹介される機会が少ない映像作品を継続的かつ集中的に上映します。プログラムの内容は、特定のジャンルに特化したものではなく、既存の枠組の中では収まりきらない実験的な作品を選定します。多様性と新しいフォーマットを模索し、ジャンルの境界を超えて、作り手にとっても観客にとっても実験を可能にするような中間的な場所づくりを目指していきます。
http://efcjp.info/about/ 
これまでこのExperimental film culture in Japanでは、3回上映を行ってきました。Vol 3.5では、これまでこの上映会で上映してきた映像 | 映画作品の中から、独自で字幕制作を行った作品と好評だった作品をピックアップし、再上映する試みを行います。そして、新たにこれまでの上映会にプラスして、今回は、堀禎一監督作品の上映も行います。せっかく字幕をつけても、いつ再上映されるかわからない、素晴らしい作品に敬意を払い、密度が増したこの上映会を是非お楽しみください。
http://efcjp.info/2021/10/23/20211023/

『百光』は4つの章に分かれている。黒背景に明朝体のテロップで章題が表示された後、薄暗い部屋が映り、長い髪の人物がするっと現れてくる冒頭に、つい『呪怨』を想起してしまう。もちろん、これは『百光』に固有の特徴というより、ある特定の時代の日本の住宅環境、生活様式、撮影環境による必然的な要請として刻印されたものであり、またそれが私自身の生きてきた住宅環境、生活様式、映画鑑賞歴と相互に作用した結果だ。

実際、この映画は、章ごとに異なるアプローチで、作者や作者の身近な人々、ひいては東京(日本)で暮らす彼らと同世代の人々の生活様式を検証するドキュメンタリーとして制作されたものだという。最初の章「布団」にとても感銘を受けた。容易に田山花袋と接続されるシチュエーションを用意しつつ、私小説的な表現との距離を慎重かつ巧妙に測った画面設計が為されている。

日常的な行為や光景をそのまま素朴に記録するのではなく、その運動や形態を取り出して、カメラにどう映るかという問いのもとに抽象化し、反復・再演する。結果、あくまでも日常的な行為の集積でありながら、視覚に特化し、それ以外の必然性や実用性が捨象された、限りなく人工的で形式化された運動が取り出される。(視覚的な要素の厳格さと比べると、聴覚的な要素のほうがややゆるやかに配置されているように思えたが、それは私自身の音に対する解像度の問題もあるかもしれない。)

以前、小津安二郎の映画を集中的に見返していたのだけれど、日常生活の中のルーティンを高度に抽象化・形式化して再演してみせる小津が、もし現代の(もっと広くとるなら90年代以降の)若い世代の住生活環境にカメラを向けたらこうなっていたりして、というようなことを考えたりした。

『15s』は、断片的な風景をきっちり正確に15秒ずつ、ある程度ランダムに提示していく。こちらも反復が重要な要素だが、画面に映る運動(行為や行動)から各ショットのあるべき長さを測っていく『百光』に対して、『15s』は同じ長さで有無を言わさず切るという操作によって、画面内の運動を半ば(完全にではない)無視した暴力的なつなぎを採用する。リズミック・モンタージュ(およびトーン・モンタージュ)とメトリック・モンタージュの違いとも言い換えられるだろうか。

これはとにかく撮影した時間が増えれば増えるほど面白くなる作品だと思う。撮れば撮るほど、圧縮率を上げれば上げるほど、各ショットの関係性は希薄になり、断片化する。今回はまだ「回転するモチーフ」や「祭」など反復により突出して目立つショットが見受けられたが、そうした特権的なイメージさえもすべて漂白された時、どのような映像が立ち上がるのか。そしてそれは、『百光』とは別のかたちで作者の生活圏を抽象化・形式化した都市(場所)のドキュメンタリーとして見ることができるのか。それとも加藤典洋の言う「風景化」が徹底された没場所的・無時間的イメージになるのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?