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藤井風さんという「ひかり」

最初に宣言すると、私はにわかである。ただ、突如現れた藤井風さんという「ひかり」に救われた、想いの丈を綴りたいと思う。

平成という時代は、緩やかに失望に向かい、令和になっても漠然とした失望や喪失感は負の遺産として引き継がれていたように思う。一言でいうと、「頑張ってもこの先いい未来は訪れないのではないか」という諦念。流行っていた曲もどこが愁いを帯びていたり、失望から見た希望を描いたものが多かった気がする。

私自身、これからの人生は衰えていくだけなのだろうか、という諦念が積み重なるのを感じていた頃、藤井さんは現れた。

「えええ??」という衝撃だった。「燃えよ」という歌詞の「明日なんか来ると思わずに燃えよ」という一節に、半分寝ていた頭を叩き起こされた気持ちになった。

ああ、私は何と漫然と毎日を過ごしていたのだろうと自分を恥じた。私は自己反省や生きるための活動は行っていても、どう自らの人生を燃やせるかという最も重要な課題に、全く取り組んでいなかった。無二の身体を持って生まれてきた自分に対する冒涜である。

「燃えよ」の歌詞は、「悲しみも苦しみも怒りも生きていたら当然にある。でも、もういいじゃない。それより楽しまない?」と問いかけているようだ。ネガティブもポジティブも、絶望も希望も、全てを着火剤にして燃焼するエネルギーの塊のようだ。

別の記事にも引用したが、「帰ろう」という歌詞の中に「与えられるものこそ与えられたもの」とある。私は藤井さんから希望を与えられた。きっと多くの人が藤井さんから希望を受け取り、与える側になるだろう。私もその中の一人でありたい。


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