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なぜ、ノオトをやるのか?

たとえば自分でネットに何かを書いて公開すれば、原理的には無限の他者=読者に開かれていることにはなる。けれども実際には、当然のことながら、そうはならない。それはただ条件として「複数の誰かに読まれる可能性がゼロではない」というだけのことで、現実に未知の読者を得るには、少なからぬ工夫や苦労や智慧が必要になることは、誰もがわかっていることだろう。
と同時に、いわゆる「ネットでバズる」には一定の方法論があり、そこに上手くハマれば一挙に不特定多数からの関心が寄せられる、という傾向がどんどん強まってきていて、結果として、もともとは勝手気儘にやっていたはずなのに、いつの間にか、あるのかどうかもわからない「ニーズ」みたいなものに囚われていってしまう危険性もある。無償でやっているからこそ、反応が乏しかったり、どこかの誰かに読まれているという手応えが得られないと、だんだん虚しくなってきて、金銭とは異なるモチベーションがどうしても必要になってくる。
いわゆる「承認欲求」は、多くの人間にもとから内在しているものだが、それがちょっと不健康なかたちで、喚起、増幅されてしまうこともある。書きたいことがあって、それを誰かに読んでほしいから書いていたはずなのに、いつしかそこが逆転してしまって、多くの人に読まれやすいことを書こうと思ってしまったりもする。ほんとうは、それこそが虚しい行為なのだが。
では、紙であれネットであれ、何らかのメディアに発表出来さえすれば、それでOKかというと、今度はそのメディアの特性というか、条件というか、事情というか、そのメディアがそのメディアであるがゆえのさまざまな前提が絡んできて、そこに載っていれば読まれるというわけでは必ずしもない。
定価の付けられた「雑誌」の危機が叫ばれて久しいが、ではフリーペーパーやネットマガジンに移行すればいいのかというと、収益化のために「広告」という要素が不可欠かつ最重要になる。もともと紙の雑誌の大半は、或る時期以後、「購読」と「広告」の両輪によって経済的に成立してきたわけだが、ネットマガジンは無料で読めるがゆえに、作り手側にとっては広告収入が何よりも大切になってしまう。もちろん賢明で誠実なネットメディアならば、利益追求と内容の多様性や質の担保を両立させるべく腐心するのだが、それもある程度の余裕があってこそのことである。なかなか難しい。
つまり、インターネットがこれだけ発達しても、実のところ相変わらず「自分が好きに書いた文章を未知の読者へと開く」ということは、けっこうハードルが高いのだ。


では、どうすればいいのか?


もちろん、正解があるわけがない。ただ、ここまで書いてきたことにも多少のヒントはあるように思う。まず、多くの人に読まれたいからネットにタダで書く、ということにも、執筆の対価を得たいから商業媒体に書く、ということにも、それぞれ複数の問題があるということだ。そして両者を単純な対立軸で考えてしまうことにも問題がある。ネットにタダで書いても多くの読者に届くわけではないし、メディアに書いて稿料を得るためにはさまざまな条件や制限がつきまとう。
むろん、ネットに好きに書いてもいいし、メディアに書いてギャラを貰ってもいい。私もそうしている。だが、たとえばここに、もうひとつ、自分が書いた文章を自分で値段をつけて売る、という方法が存在する。これは明らかにプリミティヴなやり方である。いうなれば原始的な直接販売制だ。
だが、ここには何らかの可能性があるのではないか、と思えてきたのだ。

私はこのことを、実はけっこう前から考えていた。でも、実際に始めるまでには思ったよりも時間がかかった。でも、こうして始めた。
この続きは、またつらつら書いていこうと思う。



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