見出し画像

神と人との間ー『偶然と想像』論

『映画よさようなら』(フィルムアート社、2022年)収録。初稿データなので単行本とは一部表記が異なる可能性があります。

偶然性にあって、存在は無に直面している。
『偶然性の問題』九鬼周造

人生においては、偶然というものを考慮に入れなければならない。偶然は、つまるところ、神である。
『エピクロスの園』アナトール・フランス

1。偶然性の問題

 昭和十年(一九三五年)のことなのでずいぶんと昔の話だが、横光利一が「純粋小説論」のなかで次のように書いている。

 ドストエフスキイの罪と罰という小説を、今私は読みつつあるところだが、この小説には、通俗小説の概念の根柢をなすところの、偶然(一時性)ということが、実に最初から多いのである。思わぬ人物がその小説の中で、どうしても是非その場合に出現しなければ、役に立たぬと思うときあつらえ向きに、ひょっこり現れ、しかも、不意に唐突なことばかりをやるという風の、一見世人の妥当な理智の批判に耐え得ぬような、いわゆる感傷性を備えた現れ方をして、われわれ読者を喜ばす。先ずどこから云っても、通俗小説の二大要素である偶然と感傷性とを多分に含んでいる。そうであるにもかかわらず、これこそ純文学よりも一層高級な、純粋小説の範とも云わるべき優れた作品であると、何人にも思わせるのである。
(「純粋小説論」)

 横光の言う「純粋(小説)」なるものの定義や、その妥当性のことは今は措く。ここで横光は、小説の筋運びの上で、しばしば御都合主義的と謗られもするような「偶然」の導入と、その多用を敢えて肯定的に捉えてみせている。「これらはみな通俗小説ではないかと云えば、じつはその通り私は通俗小説だと思う。しかし、それが単に通俗小説であるばかりではなく、純文学にして、しかも純粋小説であるという定評のある原因は、それらの作品に一般妥当とされる理智の批判に耐え得て来た思想性と、それに適当したリアリティがあるからだ」と横光は続けている。
 思想性とリアリティ、この話をしようと思う。

 濱口竜介監督『偶然と想像』は、三話の短編から成るオムニバス映画である。今年三月のベルリン国際映画祭に出品され、審査員グランプリに相当する銀熊賞を受賞した。先んじて公開された村上春樹原作の長編最新作『ドライブ・マイ・カー』は七月のカンヌ国際映画祭で脚本賞など四賞を受賞しており、濱口はこれで『ハッピーアワー』(二〇一五年)のロカルノ国際映画祭最優秀女優賞、シナリオを担当した黒沢清監督『スパイの妻』(二〇二〇年)のヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(最優秀監督賞)と併せて、かかわった作品が世界四大映画祭の全部で賞を射止めたことになる。
 ちなみに「偶然と想像」の総題のもとに濱口が執筆したシナリオはあと四本あるそうで、続編の製作も予定されているという。最初の三編にかんする限り、各エピソードに内容的な関連はなく、物語はそれぞれ完結している。最終的に全七作になる予定の「短編集」の通しテーマが、タイトルに冠された「偶然」と「想像」の二語というわけである。
 ではまず、簡単なあらすじ紹介を兼ねて、三つの物語の「偶然」のありようを見てみよう。第一話「魔法」には「(よりもっと不確か)」という副題が付いている。モデルの芽衣子は仕事帰りのタクシーの車中で仲の良いヘアメイクのつぐみの恋バナを聞くうちに、相手の男が自分が以前交際していた男だと思い当たる。芽衣子は男にいきなり会いに行き、かつての恋人同士は長い口論となる。別れた理由は芽衣子の浮気であり、男は彼女を愛していたがゆえに憎んでいた。全体の大半を占めるこの二人の場面がじつに素晴らしい。激しく怒鳴りあったかと思うと、互いの真意を言葉の端々で探り合い、遂には睦言のような雰囲気を帯びもして、まるで舞台劇を観ているような感興を抱かされる。『偶然と想像』の短編にはいずれも二人の人物が奇妙な(というのはどれも通常とはかなり生成の条件が異なるからだが)親密さを醸し出す場面が存在するが、ひとつ目のこのシーンはとりわけエモーショナルでインパクトが強い。
 この物語における「偶然」とはもちろん、まず第一に、親友の恋人候補が元カレだった、ということである(他にもあるのだが、それは追って触れる)。
 第二話「扉は開けたままで」の奈緒は結婚して子供もいるが思うところあって大学に入り直し、文学を学んでいる。教授の瀬川は小説家でもあり、最近芥川賞を受賞した。奈緒の不倫相手である大学生の佐々木は就職が決まっているのに出席日数が足らず、土下座して瀬川に頼み込むが言下に断られる。恨みを抱いた佐々木は奈緒に、教授にハニートラップを仕掛けろと命じる。奈緒は瀬川の研究室を訪ね、録音機器を忍ばせつつ彼の小説のエロティックな場面を朗読して誘いをかけるのだが……「扉は開けたままで」というのは瀬川が学生が入室した際、間違いや誤解が生じぬよう常に研究室のドアを開けておくことを指している。瀬川のいささか度を越した堅物ぶりと、文学=言葉への真摯な態度、他者への誠実さに打たれ、いたたまれなくなった奈緒は謀略を告白するが、瀬川は思いがけないことを言い出す。奈緒と瀬川のあいだには恋とも性とも違う感情が通い合い、二人はある約束をする。
 この物語における「偶然」は、奈緒がその後に冒す致命的なミスのきっかけとなるひとつの事実である。
 第三話「もう一度」は、ちょっとしたSF仕立てであり、Xeron=セロンというコンピュータ・ウイルスによってEメールがランダムに誤配されるようになり、全世界的にメールが不使用となっている近未来(?)が舞台。東京で暮らす夏子はクラス会に出席するため、二十年ぶりに故郷の仙台に帰ってきた。その帰りがけ、仙台駅のエスカレータで彼女はひとりの女性とすれ違う。この旅で一番会いたかった、それこそが帰郷の目的だった同級生のあやだ。あやも思いがけぬ再会に驚いており、夏子は彼女が家族と住む自宅に招かれる。夏子とあやは高校時代、恋人だった。だが世間の偏見と闘う勇気が足りなかった夏子は東京に出奔し、純粋な同性愛者ではなかったあやは地元に留まり結婚したのだった。夫は仕事、息子(途中で帰ってくる)と娘は学校なので、他に誰もいない家のリビングで二人の女性は対峙する。思い出話が続くが、何かがおかしい。これを書かないと先が続けられないのでネタバレを承知で述べると、じつはその女性はあやではなかったのだ。彼女のほうも勘違いをして、見ず知らずの夏子を家まで連れてきてしまったのだった。落胆する夏子。夏子はあやに伝えたいこと、確かめたいことがあったのだ。だがそこで、あやではなかった女性が提案する。わたしがあやをやりましょうか、と。こうして演じられる、ほんとうはまったくの他人同士でしかない二人の女性のささやかな「劇」は、したたかに観客の胸を打つ。『ドライブ・マイ・カー』や『親密さ』(二〇一二年)に顕著だが、濱口作品において「演劇(演技)」は極めて重要な主題のひとつである。この短編はその真骨頂と言ってよい。
 この物語における「偶然」は、いわば二段構えになっている。予期しなかった再会/遭遇と、その先の展開を底支えする二人の人物の過去の共通点。
 三つの物語の「偶然」は、おおよそこのようなものである。ここで横光の論に立ち返ると、フィクションにおける「偶然」の使用は、嘘っぽさ、作りものくささ、すなわちリアリティの無さを際立たせるものとされており、それはもちろんそうなのかもしれないが、しかし考えてみよう、現実の世界や人生でも、時として信じられないような偶然に見舞われることがあるのではないか。三つの短編に装填された偶然の数々は、どれほど驚くべきではあっても、いや、そうであるからこそ、私たち自身が、似たような経験に思い当たることがじゅうぶんにあり得るようなものである。つまり、実のところ偶然のほうがリアルに属しており、偶然の排除こそがフィクションの基本性質なのだ。虚構は虚構っぽさを厭うあまり(リアリティを狙うあまり)、実際にはあり得るだろう偶然さえ極度に警戒する。御都合主義的に偶然をやたら利用する輩がいるだけに余計にそうなる。だが、たとえばの話、別々の知り合いに関係があったり、同じ名前の友人がいたり、はじめて訪ねた遠方でばったり誰かに会ってしまったり、などということは実際にもある。それはスモールワールド理論の証明とも言えるだろうし、確率論的な現象とも、あるいは運命と呼ばれることもある。偶然性とは、いうなれば現実の現実性の特性なのである。
 「事実は小説より奇なり」などという単純な話ではない。これは、そう、「思想」の問題なのだ。
 横光は、こう述べている。

 いったい純粋小説に於ける偶然(一時性もしくは特殊性)というものは、その小説の構造の大部分であるところの、日常性(必然性もしくは普遍性)の集中から、当然起って来るある特殊な運動の奇形部であるか、あるいは、その偶然の起る可能が、その偶然の起ったがために、一層それまでの日常性を強度にするかどちらかである。この二つの中の一つを脱れて偶然が作中に現れるなら、そこに現れた偶然はたちまち感傷に変化してしまう。このため、偶然の持つリアリティというものほど表現するに困難なものはない。しかも、日常生活に於ける感動というものは、この偶然に一番多くあるのである。(同)

 私たちがなんとなく抱いている了見とは真逆に、偶然性こそがフィクションにリアリティを付与し得るのであって、適用の仕方さえ上手にやれば、それは退屈な虚構を驚くべき現実に近づけることになる。なぜなら、横光の言うように、日常と呼ばれている何かが、偶然性のエンジンなのだから。
 現実においても虚構においても、偶然はあるとき、不意撃ちのように、誰かに、私たちに訪れる。だが『偶然と想像』にかんしては、濱口監督の視点は、偶然の意味や、その存在理由を問うこと(それは「運命論」にも繋がる)にはない。そうではなくて、彼が語ろうとしたのは、想像もしていなかった偶然がやってきてしまったとき、そしてそのあとに、ひとはいったいどうするのか、なのである。

2。想像力の問題

 では、タイトルのもう一語である「想像」についてはどうだろうか?
 「魔法」の後半、芽衣子とつぐみがカフェにいると、男が偶然通りかかる。つぐみは芽衣子との関係を知らないので、男を店に招き入れ、三人ははじめて一堂に会する。そこで芽衣子は、すべてをつぐみに告げることを想像する。「扉は開けたままで」では、大学研究室の出来事から五年後、奈緒はバスの車内で偶然、佐々木と再会する。二人の境遇は五年前とはすっかり変わってしまっている。そこで彼女は彼に、ある想像を口にする。奈緒はそれを素敵なことだと言うが、佐々木はにべもなく退ける。「もう一度」の「想像」とは言うまでもなく、夏子があやと間違えた女性が、あやと夏子のあり得なかった現在を想像してあやを演じることであり、そして夏子がそのお返しに、あやが自分を間違えたクラスメイトを演じてみせることで、見知らぬ少女二人の過去を想像することである。
 三つの物語の「想像」は、それぞれの「偶然」と深いところで連結している。それらの偶然がなければ彼女たちがそんな想像をすることはなかった。フィクションは、それそのものが一個の想像物であるが、その内部に、さまざまな想像を、想像の無数の可能性を潜在させている。登場人物たちは、個々に想像の権利を有しており、そしてその外側を観客の想像力が取り巻いている。
 興味深いのは、三つのエピソードにおける「想像」のありようが異なっていることだ。第一話の想像は映像で描かれる。芽衣子の想像上の展開がまず演じられると、カメラは急激に彼女にズームアップし、もう一度引くと画面はショットの始めに戻っており、もう一度、実際に起こったのはこうでした、という落ちが着く。第二話の想像はただ口にされるのみである。それは結末の奈緒の台詞だけではない。研究室での朗読の場面自体、小説のエロティックな描写が声に出されることで、その行為を、奈緒が、瀬川が、そして観客が想像するように仕向けられている。それは所詮は言葉であり文字でしかない(がゆえの独自性と価値を持った)小説と、目で見える、見えてしまう/耳で聞こえる、聞こえてしまう映画の違いを表していると言えるかもしれない。第三話の想像は「演技」という営み、他人のふりをする試みのなかから立ち上がってくる。二人の女性による想像の交換は、画面には一度として出てこない別の二人の不在の女性の姿を、観客の想像力の内側に、ほのかに、だが確かに現出させる。
 三つの物語の想像は、イメージ、発話、演技、という三つの異なる手段/手法によって観客に提示されている。これは明らかに意識的な選択だろう。「偶然」がストーリーテリングやプロットの次元にあるとするならば、「想像」は表象の次元にある。『偶然と想像』は、まず第一に「脚本の映画」と言ってよいだろうが、たとえばト書きに「○○はXXを想像する」とあるだけでは、そこにはまだ何も存在していない。映画作家は、そこで何かをしなくてはならない。観客にその想像が見えるように、聞こえるように。ここに小説と映画の違いを考える鍵がある。『ドライブ・マイ・カー』や柴崎友香原作の『寝ても覚めても』(二〇一八年)で小説のアダプテーションにめざましい創意を発揮した濱口監督だからこそ、オリジナル脚本の『偶然と想像』では、この点にこだわったのではないかと思う。とともに、このこともまたリアリティの問題と関係している。
 私たちは、フィクションに触れている際でなくとも、いつでもどこでも、ひっきりなしに何かを想像している、想像しているつもりでなくても想像している。想像には幾つもの方向性があるが、大きく言えば二種類に分かれる。ひとつは「もしも」の想像である。実際とは別の現在を想像する。まだ起こっていない未来を想像する。もう起こってしまった過去の出来事が違っていた可能性を想像する、などなど、広い意味での反実仮想のことである。もうひとつは他者の内面の想像である。テレパスでなければ、私たちは他人の心の内を覗くことは出来ない(ほんとうを言えば、自分の心だって怪しい)。出来るのは、ただ想像することだけだ。もちろんそうした想像は、さまざまな現実的・具体的な諸条件に左右されているし、憶測や邪推に陥ることもあれば、希望的観測や悲観主義など、心的コンディションによって冷静なものではなくなる場合もある(というか、その方が多いだろう)。だがいずれにせよ、今あるこれとは違う現実や世界、そして他者の内面を想像するのは、人間に備わった奇妙で貴重な能力のひとつであり、それゆえにひとは悩み迷うこともあれば、宝のような何かを手に入れることもあったりする。
 つまり想像とは、ある意味ではごく当たり前でありきたりなものである。想像ということをまったくしない人間はおそらく存在しない(これも想像でしかないが)。この意味で間違いなく想像はリアルの一角を占めている。厄介なのは、このような脳内の/意識の/心の働きをまとめてざっくりと「想像」と呼んでいるだけで、それがどういうことなのか、私を含めたほとんどの人間がよくわかっていないということだ。脳科学者や神経生理学者なら多少は解明出来ているのかもしれないが、そういう話をしたいのではない。何かを想像しているとき、多くの場合、私たちは自分がその何かを想像していることをちゃんとわかっているが、どうしてそんなことをしているのか/やれているのかを理解しているわけではない。ましてやそもそも自分にとっては想像の対象であるしかない他者が何をどう想像しているのかなんて、知るわけがないしわかるはずもない。想像とは誰もがしているはずなのに、私たちはそれを共有出来ない。つまり想像の存在と想像の存在証明の不可能は裏表であって、今まさに想像しているという動詞の内実はこれこれこうですと明示出来ないということ自体が想像の本質なのである。
 そして、そのためにこそ芸術があるのだ、といったら大袈裟に受け取られるだろうか。想像という謎に満ちた行為だか現象だかを私たちの個別の脳内から外部へと取り出し、不特定の人間にアクセス可能にするために、ひとが「芸術」と呼んできた営み/試みは存在しているのである。かつてサミュエル・ベケットは「想像力は死んだ想像せよ」と書いた。Imagination dead Imagine. ベケットの真意はどうあれ、最後が「想像せよ」と命令形になっていることが重要なのだ。私が何かを想像していることを、私があなたのことを想像していることを、私があなたと私のことを想像したことを、あなたに伝えたい。
 芸術にも色々ある。たとえば小説は文字しかないので、描写は目に見えない。それは読者の想像力をあてにしている。そこには可能性と限界が両方ある。では映画はどうか。映画は見える、見えてしまう。イメージと想像は語義的には同じかもしれないが、むろんそれで話が片付きはしない。だがそれでも、いま画面に映っているこの人はこんなことを想像しているのだと、映画はそれとして見せることが出来るし、そのことのアドバンテージや面白みもあれば、それゆえのつまらなさや駄目さもある。
 濱口監督は、そのことをよくよく了解したうえで、映画を撮っている。それはリアルを、秘密に満ち満ちた世界のありさまを、しかと引き受けてみせているということであり、映画に何が出来るのか、映画とは何をするものなのか、という問いを、現実を都合よく忘れようとしたり現実にやみくもに対抗したりするのではない仕方、現実とか世界とか人生とか日常とかのかけがえのない一部としてのフィクションの使命を考えに考え抜くことで、何度でも省みようとすることである。

3。偶然性と想像力の問題

 『偶然と想像』の今のところの三編は、ホン・サンスの映画への目配せを強く感じさせる。「魔法」のクライマックスのズーミングを見て、ホン・サンスの得意技を思い出さない映画ファンはいないだろう。「物語のやり直し」も一時期のホン・サンスがよくやっていた手法である。じつは「扉は開けたままで」と「もう一度」にもドラマが最も高まったところで不自然なズーミングが登場する。濱口監督がホン・サンスを意識していることは疑いない。だがしかし、それが単なるオマージュであろうはずがない。故意に同じような手口を用いることで、濱口監督はむしろホン・サンスとの差異を示そうとしているのではないか、そう私には思える。ではその差異とは何か?
 御都合主義というならば、ホン・サンスこそ確信犯的に御都合主義を濫用している。だが、そこで志向されているのはリアリティではない。むしろ逆で、ホン・サンスは映画のなかでしか起こり得ない都合の良いーーそれはしばしば主人公にとっての「都合の良さ」であるーーお話を意図的に語り続けてきた(最近はそこに興味深い破れ目が出てきたが、それは本論とは関係ない)。ホン・サンスは間違いなく現在最も重要な映画作家のひとりだが、その作品はどれも一種のファンタジーであり、ファンタジーであるがゆえの魅力と強さを有している。ホン・サンスの映画は、こんなことは現実にはありえない、だからこれは映画なのだ、と繰り返し語っている。濱口竜介は、まったく正反対である。彼は、これはもちろん映画でしかない、だが、こんなことだって現実に起きるのだ、と言っているのだ。
 映画作家はある種の神である。すべてが思い通りになるわけではないにしても、一本の映画の造物主であり、他の誰よりも全知全能に近い。一本の映画を造るとは一個の世界を創ることに等しい。必然=必定=運命の否定としての偶然性と、無数にして無際限の想像力は、いわば世界による神への叛逆である。偶然と想像は、フィクションを不確定、不安定にするが、そのことによってこそ、フィクションは真の意味で、リアルと、この世界と、等価になる。
 映画作家はひとりの神である。だが同時に、彼/彼女は、ひとりの人間でもある。当たり前だ。だが、この当たり前をどこまでも真に受けなくてはならないのだ。そのことを濱口竜介はよくわかっている。
  
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?