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親密さ、とは何か? あるいは距離についてー『親密さ』論

『映画よさようなら』(フィルムアート社、2022年)収録の書き下ろし論考です。

 『親密さ』(二〇一二年)は、濱口竜介がENBUゼミナール映像俳優コースの卒業制作として監督を務めた作品である(濱口は同コースの講師だった)。それぞれ二時間を超える長さの二部構成で、トータルで255分、大長編と言ってよい。もっとも濱口は、その数年後に更に長い(317分)の『ハッピーアワー』(二〇一五年)を撮ることになるのだが。しかし『親密さ』の場合、上映時間の長さよりも構成に着目するべきだろう。第一部では若手劇団の新作舞台『親密さ』に向けた稽古期間が描かれ、第二部では約二時間の演劇『親密さ』が全編上演されるのである。しかも作中の舞台劇『親密さ』は演出家・令子役の平野鈴が実際に演出を手がけており、劇作家/役者の良平を演じた佐藤亮が戯曲を執筆しているのだ。つまり第二部のほとんどを占める舞台は平野と佐藤の作品であり、濱口はそれをいわばドキュメンタリー的に記録しただけということになる。もちろん「だけ」とは言えない。そこには秀抜な仕掛けが存在しているのだが、それはひとまず措く。
 「演劇」を描いた映画といえば、すぐに思い出されるのは、ジョン・カサヴェテス監督の『オープニング・ナイト』(一九七七年)であろう。カサヴェテスへの敬慕を公言している濱口が意識していなかったはずがないが、オープニング・ナイトすなわち初演に至るプロセスを描くところは同じだが、当然のごとくカサヴェテスは実際の演劇を丸ごと映画に収めることはしていない。あるいはジャック・リヴェットの『アウトワン』(一九七一年)は上映時間12時間53分という常軌を逸した長さだが、だからといって二つの劇団がリハーサルしているアイスキュロスの舞台を全編やるわけではない。映画監督で舞台演出もする者は少なくないが、前述のようにこの映画の場合は該当しない。だが舞台『親密さ』は映画『親密さ』のために創作され上演されたのであり、佐藤亮作、平野鈴演出による独立した演劇作品として存在していたのではない。では、このような『親密さ』とは、いったい何をやろうとした映画なのか?
 まずひとつ言えることは、映画の中で演劇の稽古や上演が描かれると、そこに「演技」というテーマが前景化されることが多いが、『親密さ』は必ずしもそのような作品ではない、という点である。もちろん本読みや稽古の様子は描かれているのだが、それはけっして多くはない。むしろ第一部の大半は、恋人である令子と良平の関係性の変化、そして演出の令子が次第に稽古そっちのけで役者たちのインタビューやレクチャー、ディスカッションに急激に傾斜してゆくさまである。実は、この映画には、極めてアクチュアルな、だがしかし虚構の設定が導入されている。物語で描かれるのは二〇一一年二月の後半だが、この間に韓国と北朝鮮の間に有事が出来するのである。当然、日本も対岸の火事で片付けるわけにはいかない。憲法9条と自衛隊の問題、そして韓国に個人で志願兵として赴くか否かという問題がリアルな選択として語られる。劇団の役者のひとりは、主演男優に抜擢されるが、韓国人と結婚してソウルに住む兄と連絡が取れなくなったことがきっかけで志願兵になることを決意し、舞台を降りる。その結果、良平がその役を演じることになるのである。この架空の設定は『親密さ』全編を覆っており、あとで述べるようにこの映画の印象的なラストシーンも、このことにかかわっている。
 ならばこの映画は、劇団と演劇を題材としつつも、実際には「今そこにあ(りえ)る戦争」が隠れた主題だというのだろうか? そうとも言えない。それも重要なテーマのひとつであることは確かだが、『親密さ』は現実政治に対して何らかのステートメントを発しようとするような作品とはやはり違う。
 では、何だというのか? この映画の芯に据えられているのは、この映画が語ろうとしているものとは、何なのか? それは最初からわれわれ観客の目の前にある。そう、親密さ、である。
 親密さ、とは、語の意味としては、非常に親しい、大変に近しいさま、ということだ。感情的に、また具体的にもきわめて密接な間柄ということである。なぜこんな言葉が、この映画の題名なのか? 一見すると、それは令子と良平の関係性を指しているように思える。そしてもちろんそれは正しいのだが、だがそれだけではない。それに二人の間にあるものを果たして「親密さ」と呼べるだろうか? この点を検討してみよう。
 二人が恋愛関係になった経緯は語られない。映画の最初から二人は同棲している。二人ともアルバイトをしながら演劇活動を続けており、恋人であると同時に劇団の中心を担う同志でもある。令子は良平の劇作の才能を高く買っており、彼女の彼への愛情にはそれが大きなウェイトを占めているようだ。一方、良平はプライドと現実の狭間で懊悩している。自分には台詞を書く力もあるし演技力もある、だがそれに見合うだけの評価を得てはいない。よくあるといえばよくある悩みだが、良平の才気がいかほどのものであるのかということはさして問題ではない。さほど有名ではなさそうな二人の劇団はしかしそれなりの実績があるようではあり、それだからこそこれまでも続いてきたし、続けようと思えばおそらく続いてしまうだろうし、だがそれが、要するに続けられなくなるまで続けているのに過ぎないのではないのか、という疑いも、さすがに二人は内心で抱いている。やめ時を誤ったのだ。そしてそれは、ひょっとしたら自分たちの関係もそうなのかもしれない。別れ(られ)なかったから別れていないだけなのではないか。新作に向けての意見の微妙な食い違いや、良平のしばしばかなり独善的な態度への令子の不満や違和感、生活のすれ違いによって生じた心の距離、実際のところ、二人の間に「親密さ」を感じるどころか、それが失われてゆく過程を、あるいはそれがすでに失われてしまっていることを二人がそれぞれに確認してゆく過程を、映画は描いているかのようだ。そこにあるのは親密さ、ではなく親密さの喪失である。もしくは親密さがどうしようもなく疲弊してゆく姿である。
 だがしかし、第一部のラストに、奇跡的な場面が立ち現れる。二人が明け方の幹線道路の脇を延々と歩きながらひたすら話す長いシーン。その間に夜の闇に光が滲み出し、やがて美しい朝焼けがやってくる。令子と良平は淡々と話しており、そこで愛情の再確認や関係性の修復が明確に語られるわけではない。むしろ事態は逆であり、遠からず、よりにもよって『親密さ』と題された次の舞台が開幕し千秋楽を迎えた後、おそらくは程なくして、二人の恋人としての関係の終わりがやってくるだろうということ、そしてそれが同時に、二人の劇団の終わり、二人の演劇活動の終わり、つまり二人の青春の終わりでもあるということが、どちらにもそこはかとなく、だが確かに予感されている、とでもいう感じなのだ。しかし、にもかかわらず、いや、だからこそ、そこには紛れもない親密さが漂い出すのである。やっと、この長い映画の折り返し地点になってようやく、題名通りの空気が流れるのだ。それは確かに、哀しい親密さ、なのかもしれない。だが妙に爽やかでもある。二月の朝の冷たく澄んだ空気のように。
 令子と良平の間に真の親密さが流れると思える場面はもうひとつある。それは第二部のラスト、すなわち『親密さ』全編の結末である。舞台『親密さ』から二年後、令子と良平は偶然、田町駅のホームで再会する。二人はすでに別れており、別々の人生を歩んでいる。劇団は解散したようだが、令子は演劇専門誌の編集をしつつ、舞台を続けている。良平は、かつては芸術至上主義かつ個人主義であり、志願兵として韓国に渡ろうとする役者と喧嘩になったりもしたのに、坊主頭で軍服(?)を着ており、一時帰国中に軍の先輩とナンパの最中であるらしい。戦闘に参加するのではなく、音楽を奏でる楽隊に所属しているのだというが、最前線にいることに変わりはない。俺はまだひとりも殺してない、と口にするということは、いつか殺すことになる、あるいは殺されることになる可能性を本人も自覚しているということだろう。以前の彼からすれば信じがたいほどの変わりようだが、すでに知っていたらしい令子は戸惑うことなく微笑みを浮かべて話している。このときふと、二人の間に、親密さ、らしきものが流れるのだ。それはもちろん、実際にはかつて互いに抱いていた感情の遠い余韻のようなものなのだが、それでもやはり、その雰囲気は親密さの一種だと感じられる。
 夜勤から帰ってきた良平が眠ろうとしていると、彼が書き直したばかりの台本を読んだ令子がちょっかいを掛けてうざがられるシーンがある。そこにじゃれ合い的な親密さを見る観客もいるかもしれないが、この映画では距離が近くなればなるほど親密さが薄まっていくかのようなのだ。むしろ第一部と第二部それぞれのラストに置かれた、別れの予感を帯びた場面と、別れてしまった後の場面のほうが、いわば逆接的な、いや、真の意味での親密さ、に満ちている。
 つまり、ここには「距離」という主題がある。それは現実の、具体的な距離のことであり、と同時に心理的な、エモーショナルな距離のことでもある。距離ゼロとは接触あるいは合体である。そこに向かっていくのが親密さの進行だと普通は考えられているが、この映画ではそうではない。ゼロに限りなく近い状態からの遠ざかりの内にこそ、親密さが宿るのだ。
 第一部、稽古の一環として令子は出演する役者たちにひとりずつインタビューをするのだが、のちに降板して韓国に渡ることになる男性に「いちばん信頼している人は?」「この人は自分を絶対裏切らないと思える人」と尋ねると、彼は兄だと答える。その理由として、子どもの頃に海で溺れ掛けた時に兄が助けてくれたからと彼は言う。自分も溺れるかもしれないのに自分の手をけっして離そうとしなかった、と。実際にはそこは足が着くほどの浅瀬だったのだが、彼にはこのときのことが兄に対する決定的な信頼の証になったのだ。だが彼もそれをずっと意識してきたわけではないだろう。兄は今、戦争状態に突入した韓国に住んでいる、彼は兄と時々、ネット電話で顔を見ながら話している。しかし突然、兄との通話が出来なくなったことが彼を動揺させ、志願兵になることを決意させる。ここでは日本と韓国の間の現実の距離が親密さの確認を促している。遠く離れてある、ということが、かえって親密さを強く認識させている。
 この挿話に、なぜこの映画に、このような虚構の設定が導入されているのかという問いへの答えが込められている。歴史的経緯からして、いわば近くて遠い隣国である韓国と日本の関係性、二つの国の間のさまざまな意味での距離、その親密さの計測が、ここでは問題にされている。この映画の時間設定のちょうど十年前に起きた、JR新大久保駅でホームに転落した人を助けようとした日本人と韓国人留学生が電車にはねられて死亡した痛ましい事故を思い出してもいい(おそらく濱口監督にはこの出来事が頭にあったはずだ)。距離とは、近さと遠さの函数である。そして親密さとは距離をどう受け取るのかという問題なのである。
 別の次元でこのようなことを考えさせられる挿話が第二部、舞台『親密さ』の中にある。劇の登場人物のひとりに、トランスジェンダーの詩人の女性がいる。彼女は自分の身の上話をしたあと、その場の人たちに手相を見てやると言って、こうするとオトコの手を触れると嘯き、自分はオカマだからと自虐してみせるのだが、他の男が進んで手を触らせるのに、良平が演じている詩人の男だけは強く拒絶し、オカマだからって何をしてもいいと思うなよ、などと言って、義理の妹に窘められる。だがしかし劇の終盤では、彼とトランスジェンダーの女性が関係を持ったことが語られるのだ。ここにも距離と親密さをめぐるこの映画ならではの意識と認識が存在している。手を触るという距離ゼロを拒んだ者が親密な関係になるのだから。また、性同一性障がいということも、自分の心と自分の体の距離の問題である。心と体の一致は必ずしも親密さを齎さない。むしろその不一致すなわち距離をいかにして受け止め(られ)るかが重要なのだ。
 舞台『親密さ』は、非常に複雑な恋愛(?)劇である。良平が演じる男には、父親の再婚相手の娘である義妹がいる。彼は義妹に「恋人」を紹介するが、女性二人は同じ大学の一学年違いということがわかり、彼女たちは友人になる。だが「恋人」は彼の実の妹であり、母親に引き取られて長年会わなかったが向こうから手紙が来て再会したのだった。兄妹はこのことを周囲に隠しており、恋人として振舞っている。二人の実際の関係がどのようなものであるのかは明確には示されない。義妹は奔放な恋愛観を持っており、とりあえず寝てみるということを繰り返している。だが彼女は義兄のルームメイトに純粋な恋心を抱いてもいる。郵便局員であるルームメイトは、将来の局長職への昇進のために数年間、地方都市に異動することになる。義妹は想いを直接伝えることが出来ず、手紙をしたため、それを義兄の恋人(妹)に読んでもらう。だがルームメイトはその彼女に恋しているのだ。彼は同居人に、向こうも自分を好きだと思う。こういうことはわかるじゃないか、と言う。工場労働から帰ってきた詩人に恋人(妹)が義妹が書いた手紙を読ませると、彼はそれを引き裂いてしまう……更にここに別のカップルの話やトランスジェンダーの女性の話も入ってくる。こうして書き記していても、この劇がけっして多くはない登場人物たちの錯綜した人間関係を、作りものぽさを懼れず、むしろ敢えて前面に押し出して語ろうとするものだということがわかるだろう。
 きわめて興味深いのは、この台本を書いた良平が、先に述べた事情で詩人役を演じることになるのだが、第一部で彼のキャラクターを見知っていた観客には、詩人が良平自身であると感じられてしまうということだ(このことが、この映画がこのような構成/順番になっていることの最大の理由だろう)。彼はもともと自分で演じるつもりではなかったのだから、詩人に自分を投影したとしても、そこには距離が生じていたはずだったのだ。ところがはからずも距離はゼロになってしまった。工場で誰もが出来るような、だがほとんど誰もが続けられないような不毛な作業を日々こなしながら、詩を書き続けている男、自己本位と自尊心を人一倍持ちながらも、そう成り切れない弱さと他者への倒錯的な優しさを隠した男。それは明らかに良平という男の戯画である。だとするならば、詩人の義妹も、実妹も、ルームメイトも、令子の似姿、彼女の分身ということにならないか。だが現実の令子はといえば、演出家として客席の端に座り、ただじっと舞台を見据えているだけなのだ。もちろん彼女にはそれしか出来ない。第二部の劇パート中、何度か彼女の姿が映し出されるが、その表情から彼女の感情を推し量ることは出来ない。ただ、そこには距離がある。舞台と客席の物理的で絶対的な距離が。ほんの数歩、前に踏み出せば舞台に上がれてしまうのに、当然ながらそんなことは許されない。上演終了の後、短く撤収の様子が描かれて、すぐに「2年後」という字幕が出る。舞台『親密さ』の本番を観ながら、令子が良平との離別をリアルな選択として想像した可能性はじゅうぶんにある。だが、それが描かれることはない。
 『親密さ』には三つの時間が描かれている。第一部は「二〇一一年二月」の数日間、第二部の大半は「同年三月」の或る一日、そしてそれから二年後の「二〇一三年」である。現実の映画の完成は二〇一二年の夏であり、撮影はその前の冬に行われたものと考えられる。見逃してはならないのは、二〇一一年三月十一日に東日本大震災と福島第一原発事故が起こったということである。とすると、舞台『親密さ』の上演は震災直前だったことになるのだが、そもそもこの映画ではそれは起こらなかったのだと考えるべきなのかもしれない。これは東日本大震災が起こらず、その代わりに朝鮮半島有事が起こった並行世界の物語なのかもしれない。濱口は明らかにこの仕掛けを意図してやっている。言うまでもないが、彼は『親密さ』以前から『なみのおと』(二〇一一年)に始まる「東北記録映画三部作」を手掛けており、のちの『寝ても覚めても』(二〇一八年)でも震災以前に書かれた原作を震災を挟んだ物語に変更してみせた。しかし『親密さ』では、彼は別のことをやろうとしたのである。切断と不可逆性の物語ではなく、親密さの係数である距離の計測の物語を。
 映画のほんとうのラストシーン、偶然の、久しぶりの再会にもかかわらず、まるで昨日会ったばかりのような空気感、ほのかな、だが確かな、親密さと呼ぶしかないような何かを通い合わせながらホームで話していた二人は、やがて穏やかに別れを告げ、令子は京浜東北線に、良平は山手線に乗り込む。二つの電車は発車するとしばらく並走し、二人は窓越しに視線を交わし合い、やがて離れ出すと良平は車内を逆走して令子に挨拶を送り続ける。明らかにヴィム・ヴェンダースの『さすらい』のラストシーンへのオマージュだが、そんなことはどうでもいい。そこではあからさまなまでに切実であまやかな、そして残酷きわまる「距離」の物語が演じられている。離れてゆく、おそらく二度と近づくことはないだろうはるか遠くへと離れてゆく、その寸前にこそ、この映画でもっとも純粋な、強度の親密さが俄かに立ち上がる。だがそれは、そう見えた直後に嘘のように消え去り、二度と戻ることはない。
 私にとって『親密さ』とは、そういう映画である。
 

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