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風景について(『批評時空間』より)

1。

「まるで映画を観てゐるやうだ」

 西暦二〇一一年四月三日午後三時過ぎ。私は目の前のスクリーンに、こんな字幕が映るのを見据えながら、まったくもってその通りだと感じ入っていた。それは映画だった。まぎれもなく、厳然と、そして逃れようもなしに、それはまさしく映画だった。
 場所は明大前のこじんまりとしたスペース、キッドアイラックホール。上映されているのは原將人監督作品『初国知所之天皇』(以下『初国)と略す)。私がこの映画を観るのは二度目である。いや、この言い方はすこし間違っている。私は過去にも『初国』を観た記憶が確かにあるが、それはこの映画とはまた別の映画だった。 
 ご存知の方には恐縮だが、やはりまずは少々ややこしい説明をしておかねばなるまい。今回の上映にかんする情報が載っていたインターネット上のページに、「『初国知所之天皇』幻の8ミリオリジナル全長版復活・連続上映のお知らせ」という紹介文が載っているので、いささか不躾ではあるが、以下に全文を引用する。

●『初国知所之天皇』は、1973年、当時23歳だった原將人(正孝)によって発表された。8ミリ+16ミリの作品で、『古事記』と『日本書紀』をベースにした北海道から鹿児島まで旅する壮大なストーリーであるとともに、神話的世界の国づくりが映画づくりに重なり、国家と個人が統合されるという現代芸術最先端の構造を持っていた。そして、7時間を超える作品の上映時間の長さが、観る人々にとっても、時代とそこに生きる個(自己)を考えるうえで必要不可欠な時間であるとして、全共闘運動崩壊後の若者たちに絶大な人気を博した。朝日、読売、東京の各紙で大きく取り上げられ、特に読売新聞では新進気鋭の詩人吉増剛造氏が「映像が旅を始めた」と絶賛した。上映は渋谷のポーリエフォルト(後にアピアに会場を移す)という小さなスペースで週末毎に行われるだけだったが、1年間で1万人以上を動員した。その後、16ミリの短縮バージョンが作られ全国各地のホールなどで上映され、8ミリオリジナルバージョンも原自身のライブ演奏によって全国のライブハウスで77年まで上映が続いた。
●しかし、8ミリオリジナルは、78年の原の自宅の火災によりダメージを受け34年間眠り続けていて、8ミリオリジナルを体験したことのない若い世代から、その再映が熱望されていた。それが、今回、修復作業を受け、オリジナル8ミリ+16ミリ(DVD)の形態で復活することになったのである。
●また、今回特筆すべきことはライブの音楽演奏である。原は8ミリ+16ミリの楽曲(サントラが日本フォノグラムから発売された)に加えて、16ミリバージョンでも新たに2曲新曲を加えているが、それらすべてが上記のミュージシャンのサポートを受けライブ演奏されることになるのだ。オリジナル以来38年の時の流れを通底する音楽空間にゆったりと浸ってほしい。
(以上原文ママ http://hatsukuni.hibarimusic.com/)

 この連続上映は、これまでに三回行われたが、私が観ることの出来たのは四月三日のみである。右の引用中の「上記のミュージシャン」には、テニスコーツ(さや、植野隆司)、秋山徹次、ユタカワサキ、そして上映会の企画者のひとりでもある宇波拓(おそらく紹介文は彼によるものだと思う)の名前があるが(発表段階での情報なので実際に全員が参加したのかどうかは未確認)、四月三日は原將人のソロ演奏だった。彼は映写機も自分で操作していたので、文字通りに監督たったひとりによる、一種のパフォーマンス的な上映だったことになる。原將人はDVDプレイヤーと8ミリ映写機を自在に操り、映像に生でナレーションを被せ、キーボードとハモニカを奏でながら、朗々と自作の歌を唄った。三時から開始された上映は、途中四度の休憩を挟んで、終わったのは夜の九時半くらいだっただろうか。その間、原將人はずっと、私たち観客の背後で、忙しく立ち働き続けていた。
 あらためて資料に当たってみると、私が以前に観た『初国』は、おそらく『初国知所之天皇1994年版』だったのではないかと思う。先の説明文にもあったように、『初国』のオリジナルは、当初構想された劇映画『初国知所之天皇』になる筈だった16ミリのフィルム断片と、その撮影が中絶されてのち、原がロケ地として予定していた土地土地を、8ミリカメラを持ってヒッチハイクで旅をしながら撮っていった映像を、交互に/並行して上映しつつ、監督自身がナレーションと音楽をリアルタイムで付けてゆくという特異な形式を持っていた。その後、8ミリ部分は16ミリにブローアップされ、音声が録音・同期された約四時間の短縮ヴァージョンが作られた。更に十数年後、それを二分割して二台の16ミリ映写機によるマルチプロジェクション作品として上映された。これが『初国知所之天皇1994年版』である。場所は市ヶ谷にある法政大学の、今は亡き学館大ホールだったと思う。私はこのとき三十歳だった。
 今回の「復活」とは、一九七八年の原の自宅火災でフィルムが損傷してしまって以後、三十年以上を経ての、オリジナルの8ミリによる上映のことを指している。8ミリにはネガが存在しないので、デュープすることが出来ない。もとのフィルムが傷んだり破損してしまったら、基本的にはそれで終わりなのである。それだけに、このたびの「復活」には意義がある。そして実際、カタカタカタカタというあの独特な映写機の駆動音が鳴り響くキッドアイラックホールで、私たちの眼前に映写される8ミリのイメージは、そこかしこでパーフォレーションが外れかかって目崩れを起こし、このままフィルムが跳んでしまってそれで終わりになるのではないかという危惧を幾度となく醸し出しながらも、なんとかラストまで無事に辿り着いたのだった。しかし私にとっては、その異様にノイジィなカタカタカタカタも、まるで自分のまばたき/またたきが、何者かに勝手に惹き起こされているかのような目崩れも、ひどく懐かしいものだった。私もまた、遠い昔に8ミリ映画を作ってみたことがあるし、丸四年も働いていた映画館で、16ミリや35ミリの映写機を動かした経験があるからだ。「映画」とは何か、という問題は、私にとっては「フィルム」と「映写機」の、メカニカルな、マテリアルな問題と、けっして切り離すことが出来ない。だからあの日、まだ『初国』の上映が始まって間もない時に、画面に映し出された文章に私は、こう言ってよければ、ほとんど震えるように同意したのだった。そうだ、ほんとうに「まるで映画を観てゐるやうだ」と。
 しかし勇み足はよそう。まずは原將人という、この稀有なる映画作家/音楽家のことを、もう少し紹介してみたい。西暦一九五〇年七月十五日生まれ。東京出身だが現在は京都在住である。彼が注目されるきっかけになったのは、麻布高校在学中に製作した16ミリ映画『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(一九六八年)が、第1回東京フィルムアートフェスティバルでグランプリとATG賞を同時受賞したことである。早熟な天才として一躍脚光を浴びた原は、大島渚監督の『東京战争戦後秘話』(一九七〇年)にシナリオ(佐々木守と共同)と予告編の演出で参加。また同年、ジャックスの元メンバーで、ソロ・アルバム『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』をリリースしたばかりの早川義夫を追ったドキュメンタリー映画『自己表出史・早川義夫編』も発表している。早川からは個人的に作曲も学び、これがその後のシンガーソングライターとしての原將人の出発点になったものと思われる。
 ここでひとつ注記しておくが、この時点までは、原は本名である「原正孝」名義で活動していた。その後「將人」に改名して現在に至るが、本稿では煩雑さを避けるために「原將人」で統一することにしたい。
 
豊饒さにくゆりくゆられ旅に出て/豊饒さにくゆりくゆられあてどない/豊饒さにくゆりくゆられ私は限りない/けむりのように地球を包み/ありとあらゆる可能性で/こころのなかがいっぱいで/こころのなかがいっぱいで/けむりのように地球を包み/ありとあらゆる可能性で/はじけてしまいそうだ/はじけてしまいそうだよ。
「旅に出る唄」原正孝

 私が8ミリ映画をこしらえていたのは、高校から大学にかけて、八〇年代前半のことだが、当時はいわゆる自主映画・学生映画がちょっとしたブームになっていた頃で、石井聰亙(現在は石井岳龍)、手塚眞、長崎俊一、山川直人、黒沢清、等々といった錚々たる人々が次々と話題作を発表していた。私自身、その波に感化されて8ミリを手に取ったわけだが、その頃、自主映画のパイオニア的名作として頻繁に上映されていたのが、原の『おかしさに彩られた悲しみのバラード』だった。六〇年代の日本映画は良くも悪くもゴダールを核とするヌーヴェルヴァーグの影響が色濃いが、高校生だった原とその仲間によって一気呵成に撮られたとおぼしきこのアマチュア映画は、そのすっとぼけた軽快さと柔軟きわまりない方法意識によって、もっぱら理論とイデオロギーの次元でのみ「ゴダール・インパクト」に生真面目に応接しようとしていた他の数多のプロアマ映画人たちに対して、或る爽やかな、だが痛烈な嘲弄をぶつけるようなものになっていた。私も過去に何度かこの映画を観たが、今でも覚えているのは、全編に溢れる絶妙な活劇性と、そこはかとなく流れるペーソスだ。「悲しさに彩られたおかしみ」ではなく「おかしさに彩られた悲しみ」である点は、原將人という人物の人生観・世界観を考える上で、少なからぬ示唆を与えてくれるのではないかと思う。
 四方田犬彦氏は、そのメモワール的な著作の中で、この映画とその作り手について、次のように書いている。

 (前略)それは文字通り「一本のフィルムのなかにすべてを投入しなければならない」というゴダールの教えを実践したかのような、即興性と躍動感に満ちたフィルムだった。そこには映画とは別個に存在している物語を映し出すものではなく、映画とは何かという問いを考えるためにこそ撮られるべきであるという、メタレヴェルの認識が存在していた。
 監督の原正孝という名前には見覚えがあった。それはわたしが通っていた五本木小学校で二年上の学年にいて、あまりに秀才の誉れが高いために父兄会でファンクラブが出来てしまったという少年のことだった。わたしは彼の弟を通して、刊行されたばかりの『ガロ』という漫画雑誌を貸してもらったことがあった。麻布高校三年という肩書きは、わたしには充分に眩しいものだった。後に原正孝は原將人と改名し、『初国知所之天皇』という、十時間をゆうに越す日記映画を70年代初頭に撮り上げたり、90年代には商業映画の世界に進出して、広末涼子をスクリーン・デビューさせたりしている。映画とはつまるところ、映画とは何かという問いをめぐる思考の移動だという確信を、彼は『バラード』以来一貫して保ち続けてきた。私はその不器用なまでの頑固さに敬服せざるをえない。
(『ハイスクール1968』四方田犬彦)

 映画とは何か。そう、結局のところ、最初から、そしてこのあともずっとずっとずっと、そしておそらく最後まで、問われているのは常に、この問いなのだ。いわゆる「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の中心人物であった大島渚に請われて『東京战争戦後秘話』に参加した時、原はまだ二十歳そこそこだった。この映画は当初『映画で遺書を残して死んだ男の物語』と題されていたというが、原の着想がどの程度まで実際の作品に活かされたのかはさしあたりおくとしても、16ミリカメラを持ったまま逃走していた男がいきなり飛び降り自殺を遂げる冒頭のシーンから、そのカメラに残っていた映像と撮影者をめぐる謎めいたディスカッションまで、原が続いて撮ろうとするだろう『初国』に連なる問題意識が、はっきりと見て取れる。
 『東京战争戦後秘話』(以下『東京』と略す)をDVDで観直してみると、この映画が六〇年代末という撮影時における学生運動の(まだそれとははっきりと意識化されていなかった)失速と迷走に鋭く切り込んだ、きわめてアクチュアルな政治的問題意識に依るものであること以上に、「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の面目躍如というか、とりわけアラン・レネの『二十四時間の情事』に始まる一連の作品に顕著な、事実と虚構の、過去と記憶の、不分明さと不確定性のテーマに強い共振を示していることが強く感じられる(私見だが、「松竹ヌーヴェルヴァーグ」は、大島渚にせよ吉田喜重にせよ、実のところレネからの影響がもっとも濃かったのではないかと思う。いわば彼らはゴダールをやろうとしてレネをやっていたのだ。しかしそれは「六〇年代」という時代のせいでもあったかもしれない)。主人公は自殺した男ーー「あいつ」と呼ばれるーーの傍らからカメラを持って逃げようとするが、警察にカメラを奪い取られてしまう。パトカーを追う内に意識が跳んで、気がつくと彼は仲間たちに囲まれてアジトに居る。先鋭化した高校の映画サークルである彼らは街頭デモを撮影しようとしていてトラブルに遭ったのだ。彼は死んだ「あいつ」のことを皆に訊ねるが、仲間たちはそもそも「あいつ」が誰のことなのかさえわからない様子だ。彼は「あいつ」の恋人だった(と彼が記憶している)ヒロインを難渋する。そこで「あいつ」が撮影したフィルムを観てみると、そこに延々と映っていたのは、何の変哲もない街の風景だった。彼と彼女は「あいつ」の足跡を辿ろうとして、次第に迷路に入り込んでゆく。「あいつ」など元から居なかったのではないか、「あいつ」とは彼自身なのではないか、という疑いと、しかしもしもそうならば、あのフィルムに映った映像=風景はいったい何なのか、という不安に挟み撃ちされるようにして、映画は一気にカタストロフへと突き進む。
 マルグリット・デュラスがシナリオを書いた『二十四時間の情事』(一九五九年)、アラン・ロブ=グリエがシナリオを書いた『去年マリエンバードで』(一九六一年)に代表されるアラン・レネの作品群に通底する主題、すなわち「あれはほんとうのことだったのか?」と「彼もしくは彼女はほんとうに実在していたのか?」という二つの存在論的問いに収斂する主題が、ここでは時代とトポスを違えて変奏されている。映画のラストシーンは冒頭へと繋がっていくかのように描かれており、そのあからさまな循環構造もまた、そもそも何も起こらなかったのではないか、という、すぐれてヌーヴォーロマン=ヌーヴェルヴァーグ的なテーマを喚起させるだろう。
 やはり四方田犬彦氏が、このような『東京』の複雑な話法を解析しつつ、大島/原の意図を「事後性」という切り口から論じている。この映画の奇妙な題名自体が「起こらなかった東京战争の事後」という意味を潜在させていることを指摘した上で、「あいつ」と「(フィルムに映った)風景」の不在と現前の反復回帰の運動が齎す空虚感こそが、この映画の眼目であると四方田氏は述べている。

 「あいつ」とは彼の無意識が他者として眼前に現れたときの姿であり、「東京战争」が空虚であるように、本来的に空虚なものである。そして次々と壁に映し出される匿名的な風景とは、そのまま都市としての東京が体現している無意識そのものである。だがその程度の仕掛けであれば、『東京战争戦後秘話』はヒチコックのサスペンス劇の次元で終わっていたことだろう。大島が独自なのは、ここに模倣という主題を新たに導入した点である。事後性という概念が人をしてミミクリ(擬態)へ促すという不思議な現象を、彼は克明に描いている。
(中略)元木(=主人公の名前)は「あいつ」を克服するために、積極的に「あいつ」を模倣しようと決意する。彼はその結果、すべての風景に「あいつ」が遍在しているという真理に到達し、「あいつ」の物語をなぞって自殺する。あるいは別の表現を用いるならば、自分が作り出した物語の主人公をみごとに演じ切ることで、自分が「あいつ」であったことを死をもって証明する。
(『大島渚と日本』四方田犬彦)

 あらかじめ「事後」であるがゆえの「空虚」を埋めるために「模倣=擬態=演技」が要請される。これは『東京』という一本のフィルム自体の存在証明の論理でもあるだろう。では、ならば、「あいつ」が撮影したとされる、あの「風景」とは果たして何だったのか?

 それは「東京战争」が終戦を迎え、東京がふたたび(ブルジョア的な)平和と秩序を回復した後の光景であり、より端的にいうならば、事後性がそのまま具体的な形をとって生成した映像に他ならない。(同)

 「『東京战争戦後秘話』において事後性は、こうして風景の匿名性と凡庸さのもとに現れることとなる。それを事後性の凡庸さ、あるいは権力の遍在性であるといい換えても、同じことだろう」と四方田氏は書いている。この鋭利にして明解な分析に異論を差し挟むつもりは毛頭ない。だが、ここであらためて大島渚ではなく原將人の側に立って考えてみるならば、些か異なる様相も仄見えてくるのではないかと思うのだ。鍵となるのは「風景」というキーワードである。『初国』の16ミリ短縮ヴァージョン版DVDに附されている解説(無署名)によると、原は大島から「映画で遺書を残して死んだ男の物語」という基本的な設定の提示を受けた時、「それはあくまでも不在証明としての映画でなければならない」と思ったという。

 しかし、出来上がった作品のなかの遺書としての風景は、「実存を取り巻く世界としての風景ではなく、古典的な光景に過ぎなかったのでちょっとがっかりした」と原は言う。その後、原はイメージした不在証明としての風景が如何にして撮れるかと、『初国知所之天皇』を構想してゆくことになる。(「解題『初国知所之天皇』)

 この点について、原は雑誌「映画芸術」のホームページ「映画芸術DIARY」に掲載されている金子遊によるロング・インタビューの中で、もう少し詳しく語っている。二つの発言を引用する。

 あれはぼくがアイデアを出して、佐々木(守)さんも当時、足立正生さんたちと『略称 連続射殺魔』という風景映画を撮っていたときだったので「ああ、いいんじゃない」と自然にまとまっていったのだと思います。でも、実際に撮影されたものは、撮影した成島さんの美意識が絡んでしまっているんで、かなり違うという違和感を感じて、それが後でぼくが自分で撮ることになる『初国知所之天皇』へと繋がっていきましたね。

 成島さんは風景を自分の美意識を入れて、かっちりしたプロフェッショナルな撮り方でやっている。でも、風景というのは、そこに偶然存在するぼくたちにとって、よそよそしいものでなければならない、存在論と言うか、不在証明と言うか、わりと広い画で撮らないといけないと思った。そういう風景として、古代から現代まで歴史そのものを、文明そのものを、虚構だろとか、冗談だろって言えるような視点で日本を見てみようかと思ったんです。
(「映画芸術DIARY」/http://eigageijutsu.com/article/157198561.html)

 確かに『東京』における「あいつ」が残したフィルムに刻印された「風景」群は、そこには何ひとつ意味のあるものは映っていないように見えるものの、フレーミングはかなりシャープであり、映画冒頭のハンドカメラで激しく揺れ動く映像と較べると、明らかにちゃんと撮られている。それでは結局のところ、「空虚」を美学化してしまっていると原は感じたのだろう。原にとって、「不在証明」とは、「よそよそしさ」と深くかかわっているものでなければならないのだ。では、よそよそしさ、とは何なのか?
 三たび四方田氏で恐縮だが、先に挙げたのとは別のテクストで、氏は『おかしさに彩られた悲しみのバラード』についても論じている。

 だが今日の観点から見直してみると、作品の内部に思いがけない政治的符牒が氾濫していることが判明する。劇中で原監督が撮っているフィルムとは、ヴェトナム戦争の悲惨を知り、その悪夢に悩む少女が、反戦運動に身を投じて自己解放を果たそうとする物語である。だがこの監督はそこにどこまでも安全地帯に留まっている者の感傷を見てとり、そこにブレヒト風の異化効果を施して批判的演出を持ち込んでいる。主人公が彷徨する街角では一人の朝鮮人が私刑に遭い、絞首台に立たされている光景が描かれている。にもかかわらず少年は描くべき主題を見つけることができず、風景のなかを横切ってゆくばかりである。ここには一九六八年の時点で東京の路上に現前していた危機と、それをめぐる無関心への批判が強く感じられる。
(「1968年の日本文化に何が生じたのか」/『1968年文化論』四方田犬彦・平沢剛編著)

 『おかしさに彩られた悲しみのバラード』もまた一種のメタ映画的構造を持っているのだが(映画の中で高校生たちは8ミリ映画を撮っている。そしてこの点こそ大島が原を『東京』に召喚した最大の理由だろう)、四方田氏はその背後に『東京』と同質の「事後性」と「空虚」、すなわち鋭敏で複雑な政治的批判意識を見出している。事実、先の金子遊とのインタビューで、原は当時の「運動」の様子と自らのコミットメントについて、かなり詳細に語っている(そもそも『東京』という映画の出発点には、国学院大学の映画研究会が公安にフィルムを差し押さえられるという実際の事件があったことも、そこでは述べられている)。七〇年前後にかんする原の述懐は、次のようなものである。

 (前略)69年の10.21は前年以上に過激な街頭闘争が行われたんです。全学連のセクトのなかには、機動隊と対決するにあたって角材や火炎瓶だけでなく、パイプ爆弾と呼ばれる火薬を詰めた新型爆弾を用意していたセクトもあった。赤軍派なんですけどね。10.21と11月の佐藤首相の訪米阻止までを、東京戦争、大阪戦争と称して、漢字で書くと戦争の戦は、占うに戈(ほこ)ですね、街頭で国家権力と闘うということです。でも、もうここまでくると武装蜂起と紙一重になってしまい、大量の逮捕者を出すし、民衆からの支持も失って、実際、10月と11月で三千人を超える逮捕者を出して、運動は急速に収束してしまう。
 そして69年の佐藤首相の訪米で日米安全保障条約の自動延長は決まってしまい、後から考えると、もうここで70年の安保闘争は終わっていたんです。70年になると大阪万博が始まり、もう時代の雰囲気はすっかり変わっていた。3月には関西の赤軍派による日航のよど号ハイジャック事件があり、運動は、あとは赤軍派の海外拠点設立と、国内では連合赤軍のあさま山荘事件に至るわけです。だから、こういうことを踏まえて、60年安保を闘った大島さんは70年安保に対するレクイエムとして『東京戦争戦後秘話』という題名を付けたんだと思います。
(「映画芸術DIARY」、同前)

 とすれば、やはり原にとっても「風景」とは、「六〇年代」という一個の「政治の季節」にほんの僅か遅れてきた青年による、決定的にして致命的な「事後性」の別名としての「空虚」、その儚い表象ということなのだろうか。それは確かにそうであるのかもしれない。だが、それだけではない。原の言う「よそよそしさ」なるものを、あの「映画とは何か」という問いに、ふたたび接続してみる必要がある。こうしてようやく私たちは、『初国』へと辿り着く/還ってくることになる。
 
一人の少女がうつむいて/一人の少女が立ち尽す/ぼくはただ佇みて/ぼくはただ見るだけ/見つめるのみにて語らず/表現論など成り立たぬ/表現論など成り立たぬ。
「少女の唄」原正孝

 『初国』という作品は、最初に引用した紹介文にもあるように、まずは『古事記』と『日本書紀』を足がかりとして、神武天皇/祟神天皇にはじまる「日本国家の起源」を、それもジェームズ・ジョイスが『ユリシーズ』で採ったような方法で描く16ミリの劇映画として構想、一旦北海道で撮影が開始されたものの直ぐに中断し、原はその後、何故この映画が成立しなかったのかという検証も兼ねて、日本を南に向かって縦断するヒッチハイクの旅を敢行、その過程を8ミリに記録していったものである。このきわめて挑発的なタイトルに触発されて、この映画をはじめて観た者は、しかし「天皇」など何処に描かれているのかと訝しむかもしれない。実際、この作品は、いうなれば「天皇論」が「映画論」へとあっけなく転倒、変換されてしまうという特異な構造を持っている。『初国』のシナリオ(それは実際には上映ごとに原監督自身によってリアルタイムで行なわれるナレーションの台本である)では、映画=旅が開始されて暫くのあいだは、原は「天皇」について未だ思考を続けている。だがしかし、車を乗り継ぎ、重い機材を背負って辛い道程を経てゆく内に、次第に語られるのは専ら「旅=映画」それ自体になってゆく。しかも、すこぶる興味深いことは、その転換のプロセスが、映画のほぼ冒頭ですでに予告されているということである。かなり長くなってしまうが、『初国』のシナリオから引用する。

 七十一年夏の創作ノートよりーー例えば、直接形で映画に対して呼びかけるならば、キミはキミ自身と紛れもなく邂逅すべきなのである。映画は己れ自身と向かい合い、映画は己れ自身にふさわしく、映画は映画であるべきである。私は映画の御霊に近づきて映画の帝国の形成に参与すべきである。映画の自己認識の歴史に辿ることはそのための課題。

 しかし、そうなのだろうか。私が映画の御霊に近づきて導くなどということは一つの思い上がりではなかったのだろうか。

 ファーストシーンは何気なく捉えられた風景。カメラは揺れながら写し出すのであるが、キミは何も知らずに歩き続けて行く。その風景とはキミが最終的に邂逅すべき風景なのであるが。《まなざし》に現出すべきオリジンではなく映画自身が自からに邂逅すべき場なのである。M、キミがそれを知らないことは二重の意味で不幸なのである。キミは旅を続けるのである。自からのオリジンを求めつつ、そして不幸を知ってしまった少女たちへのアナロジカルな旅を通して仮構のうちにオリジンを現出する魔術の秘密にふれ、その魔術を手に入れたとき、仮構を拒否し、《まなざし》を拒否し、風景の襞を拒否するのだが、逆に現実に叛かれてしまうこと。こうした落差を展開の軸としたとき、映画の御霊に近づいて、映画が自らと邂逅するときの巫女たるべき私にとってどういうことなのか。

 どういうこともあったものじゃない。落差も展開も映画にとって全く関係ないことではなかったか。仮構も、《まなざし》も、オリジンも。しかし、それはどういうことなのか。

 Mの自己認識は、日本国家の自己認識であり映画の帝国の自己認識。仮構性、恣意性を必然性に転化して行く場の摂理。また、恣意性を必然性に転化していく実存めいたもののナンセンスさ。何をドラマの展開の軸としていくのか。映画自身に関してもアナロジカルなものである仮構表現論であるし、そこで映画が自己認識を放棄していく。仮構を放棄して、いわば純粋さを貫いたとき、そういったことが純粋さなのかという前に、そういったアナロジカルな純粋さが問題なのだ。

 結局、俺はそこで行き詰まってしまい、撮り続けることができなかった。
(『初国知所之天皇』1973-94 Version シナリオ採録)

 何という真摯な自問自答だろうか。今こうしてシナリオを引き写しながら、私は慄然とせざるを得ない。しかもこの時点で、原將人はまだ二十歳そこそこだったのだ。西暦二〇一一年四月三日午後三時過ぎ、あの「まるで映画を観ているようだ」という言葉から程なく、私は六十歳の原將人自身の声によって、この苛烈な映画論を耳にした。そこには四十年の歳月が包含されていた。だが、映画はまだ始まったばかりだ。まだこれから長い長い時間が待っている。私はそれを体験した。私はそれを体験するだろう。
 ところで、「風景」という語=概念にかんしては、もうひとり、特権的と言ってよい固有名が存在している。言うまでもなく、中平卓馬という固有名がそれである。私はこれからひと月の間に、中平の写真について考えてみるだろう。そして次の時空間では、原將人と中平卓馬のふたりのことを同時に書くことになるだろう。うまくいくかどうかはわからないが、それでもやってみるつもりだ。

2。

 西暦二〇一一年五月十八日、私は大阪、心斎橋のギャラリーSixで、中平卓馬『キリカエ』展を観た。東京の『ドキュメンタリー』展には行けなかったので、時間をやりくりして出かけたのだ。前回予告しておいたように、私はこれから原將人にかんする文章を書き継ぎつつ、そこにこの特異な写真家の存在を接続してみたいと思う。中平は一九三八年、原は一九五〇年生まれ、つまり二人はちょうど一回りの年齢差がある。しかし周知のように、彼らは嘗て同じ問題、他ならぬ「風景」の一語に焦点化される表現と芸術の問題に共にかかわったことがある。だが、そのことについては追って述べることにして、まずは私が原將人監督作品『初国知所之天皇』(以下『初国』)を観た西暦二〇一一年四月三日に時間を巻き戻してみたいと思う。
 既に触れたように、『初国』は、当初撮られる筈だった16ミリフィルムによる劇映画のパートを除いた大部分が、撮影が途絶して以後に、ロケ地に予定していた土地土地を原がヒッチハイクで旅をしながら記録していった8ミリの映像から成っている。必然的に、それらは「原將人が撮った映像」と「原將人を撮った映像」ということになる。旅の映像は基本的にクロノロジカルに進んでゆくのだが、その殆どは、重い機材と荷物を背負って歩きながら、行き交うクルマに止まってもらおうと苦労する原の姿と、ようやくヒッチに成功して助手席に居る彼の様子と、車窓から眺められた風景、である。『初国』は、そうした映像の連鎖に、監督自身によるリアルタイムのナレーションと演奏が重なるという構成になっている。
 興味深いのは、取り立てて事件らしきものが起こるわけでもない、どうしたってモノトナスで退屈なものになるしかない映像のありようが、旅の進み行きに沿って、少しずつ変化してゆくように見えることである。前半では、16ミリの断片が随時挟み込まれつつ、そもそもの構想であった「『古事記』と『日本書紀』を足がかりとして、神武天皇/祟神天皇にはじまる「日本国家の起源」を、ジョイスが『ユリシーズ』で採ったような方法で描く劇映画」が、なにゆえに完成し得なかったのか、という検証作業の様相を有している。だがしかし、次第にその「旅」自体が、目的化・主題化していくことになる。幻に終わった劇映画『初国知所之天皇』にかんする自己反省は、いつしか今まさに撮られつつあるもうひとつの『初国知所之天皇』についての自己反省に取って代わられてゆく。そして、それに従って、スクリーンに映し出されてゆく映像は、「原將人」自身を被写体としたものが徐々に増えていくのである。いやもちろん、最初から彼の姿は幾度も映ってはいるのだが、映画の後半に至って、明らかに意図的に「原將人が撮った映像」から「原將人を撮った映像」への重心の移動が為される。そして注意すべきなのは、『初国』において決定的と言ってよいだろう、この転換の直前に、「風景」にかかわる思弁が登場していることである。シナリオからナレーションを引用する。

 十一月某日、私は苦悩する。一体いつになったらカメラは回り始めるのか。まだだ、待て待て、私はカメラを回したいと思う心を抑えつけ、ただ風景を眺めやっていた。風景は偏在するのだ。いつでも撮れるのだと。その可能性で自らを鍛えながら、偏在する風景の一回性の意味について問い続ける。しかし、一回性の意味と言っても、所詮何でもないことである。そうして一回性の意味について問う限り、少なくともそのように装う限り、カメラは回り始めることはあるまい。そのように風景を媒介にするにしろ、映画を自らの生に、自らの実存に重ね合わせることを放棄するべきなのだ。

 十一月某日、偏在する風景をその出会いの一回性においてではなく、出会いの偏在性において撮ることができるかどうか、賭けてみようと思う。先ず、何かある風景を見て、写したいと思う心を押さえつけるのだ。写したいと思わなくなるまで風景を見続けるのだ。見飽きてもいけない。再び見飽きなくなるまで風景を見続けるのだ。そして私はおもむろにカメラを取り出す。撮ることだけが一回限りの生からも私の歩みからも突出するように。
(『初国知所之天皇』1973-94 Version シナリオ採録)

 この述懐には、もちろん、あの『東京●争戦後秘話』についての「風景というのは、そこに偶然存在するぼくたちにとって、よそよそしいものでなければならない」という感覚が踏まえられていると思える。「よそよそしさ」とは、或る「偏在する風景」を、撮るよりも前にただひたすら見ること、撮る欲望が蒸発してしまうまで見続け、しかし見る欲望が撮る欲望に倣って減衰していったグラフ曲線の果てに、見ることの零度へと至る寸前で踏み止まって水平を保ち出したところでおもむろに、いわば一切の欲望抜きにただ、撮り始めること、そこに生じる「風景」との新たなる関係性を指している。つまり、どこまでも恣意的でしかない「出会いの偏在性」をこそ「撮る動機」にすること。
 そしてこのあと、いささか唐突に「ミュージカル映画から、映画のミュージカルへ」という言葉が持ち出される。

 (前略)歩きながらカメラを回し、ふと斜め前の景観に目を留める。留めた間も足は動くので景観を構成するもの、あるいは景観への前景からの角度がゆっくりと変化する。その時私はそうした画面を構成してゆく原理みたいなもの、さらにはそれを拡げていく原理みたいなもの、それは何であるか問わざるを得ない。その時その時に、気を魅かれる恣意性のようなものとスムーズな終わりみたいなもの、時々無理はあっても、それはそれなりにわざとやったのだ。ねらいと言えば一つのスミーズさになってしまうようなもので、それだけでいいのかどうか。かと言って、そこでしかつめらしく主体みたいなものをもってきて、深刻ぶった表情をするのか。恣意性すらも主体といった読み込みを逸れないというのに。しかし、それは主体ではないのかどうか。恐らくそうした発想そのものが間違っているのだ。
 今日、車に乗っていて突然ひらめいたのだが、ミュージカル映画でなく、映画のミュージカルなのだ。私はいつかはミュージカル映画を撮りたいと考えていたが、ミュージカル映画ではなく、映画のミュージカルを撮るべきなのだ。そして、私は唄う映画の伴奏とバックコーラスを音程をはずさぬようにして受け持つべきなのだ。静止したカットの連続、外の風景とカメラの角度を一定にしたままの移動、いわゆるパン。風景を収めていくカメラの角度の移動、要するにズーミング。それと同時に被写体のフレームの切り方も変わっていくこと、エトセトラ、エトセトラ。さて、キーは何、そしてリズムは、コードは。イントロはどんな感じで、展開部は、そしてサビは、一体いつになったら映画は唄い出すのか。(同)

 「ミュージカル」の一語に牽引されて、どこか浮き浮きとした雰囲気を感じさせるこのナレーションは、前にも述べておいたが、この映画に先立ってドキュメンタリー映画『自己表出史・早川義夫編』の撮影をきっかけに原が早川に作曲を師事したことを思い出させる。それは直接的には原が作詞作曲演奏歌唱のすべてをこなしたソロ・アルバム『は・つ・く・に・し・ら・す・め・ら・み・こ・とーー原・正・孝・の・世・界』へと結実することになるが、しかしそれ以前に、そもそも『初国』という映画の構造自体が、一種の音楽的な発想に依ってもいることを示している。しかしこの「映画のミュージカル」は、誰かが(原が)唄うというよりも、「映画」それ自体が“唄う”のであるが。 
 「転換」が起こるのは、このすぐ後である。若き原將人はヒッチハイクの車を乗り継ぎ、城崎から松江を経て出雲大社へと向かっている。
 
 十二月某日、朝から一つの考えがこびりついて離れない。それは映画の象徴と化すということである。映画の象徴と化す、こびりついて離れないのであれば、それにこだわり続けようと思う。映画の象徴と化す、その言葉に触発されながら、私は一つだけはっきりさせておこうと思う。私は映画を撮って歩いているのではないということだ。私において、映画が主役なのではなく、私が、映画の主役なのである。しかし、そんなことならもうすでに分かりきっていることではないか。まだまだ役者としての鍛錬が足らないのだろうか。そして私が映画の舞台となるのだ。これは先日考えたミュージカル映画から、映画のミュージカルへということと、唄う映画の伴奏をするということとと深い関連をもった事柄のようである。

 十二月某日、役者としての私、そして映画の舞台となること、それは映画に対するせめてもの私の捧げものであった。考えてみると、私は映画に捧げるべき過去も、捧げるべき現在も持ち合わせていない。私は私の映画に対する過去と現在の全て、私が私であることの全て、役者としての私を映画に捧げる。私は何も持ち合わせていない、しかし、全てを持っているのだ。(同)

 「映画が主役なのではなく、私が、映画の主役なのである」。当然のことではある。それはつまり、映画によって「映画」を思考する、あからさまな「メタ映画」であった『初国』を、一種の「セルフ・ドキュメンタリー映画」へと後退させることなのか。無論違う。いや、それはそうなのだが、ここで語られている「私」は、単なるプライベートな自己=セルフではない。「通り過ぎて行く街の粘着力によって私の視野は広がり、まるで三百六十度超ワイドの大スペクタクルを見ているようであった。まるで映画を見ているようだ。再び私はそう何度もつぶやき、つぶやき続けた。私は映画を見ていた。感覚が一線を越え、見るもの全てが映画であるならば、感覚の拡大に映画のコンセプトの拡張を重ねながら、映画を一つの現代美術のコンセプトアートとして捉えていくことがあろうか。映画のコンセプトを問題にしていく盲者たちよ、己の感覚の貧しさをしかと見据えるがいい」。同時代に跋扈していた数多の「アバンギャルド映画」どもに対する痛烈な一撃。「映画」を一個の「世界」と捉え、その拡張や変容を謳うのでは駄目なのだ。そうではなく、この「私」が対峙している「世界」が、もはや/そもそも、端的に「映画」なのである。そうであれば「私」とは、その「映画」に属する者に他ならない。そして「世界=映画」に対してカメラという特権的な視点を有し、それを「出会いの偏在性」において記録する運命を課された「私」は、この「映画=世界」の「主役」足らんと務めよう。こうして「原將人」という「私」が、『初国』の「被写体=主役」として再=発見されることになる。そしてこの後、ナレーションの一人称が、いきなり「私」から「俺」へと変わるのである。「俺ははっきり分かった。俺の存在自体、虚構なのだ。俺は「初国知所之天皇」なのだと、だから俺の姿を撮り続ければそれで十分虚構であるし、映画なのだと…」。
 『初国』というフィルムは、もともと目的地であった鹿児島に着いた原が、知人の娘の自死という意想外の出来事を知らされ、まだ高校一年だったその少女に想いを馳せるエピソードで終わる。自分でも映画を撮り始めていた少女が自ら選んだ死について考えながら、彼は「この巨大な現実という劇場」の酷薄さと醜悪さへの「映画」の無力を今更ながらに思い知らざるを得ない。「俺はその醜悪さに耐えながら、この世界を絶滅するか、俺が死ぬかするしかないのではないかと思われた」。映画の最後のナレーションは以下のようなものである。

 しかし、俺はカメラを撮り続けていた。知ってしまったことが暗い影を落とし、何よりも映画に後ろ髪を引かれる。そして、手に仕事を覚えさせてしまった今となっては、もはや無理なのかも知れない。俺はいい映画を作りたいと願った。(同)

 こうして『初国』という類い稀なフィルムは、いちおうの幕を閉じる。いちおうの、と記したのは、それからも原將人は、この作品に胚胎された問いと迷いを一身に引き受けながら、長く困難な「旅」を継続してゆくことになるからだ。だが兎も角も、今は西暦二〇一一年四月三日の九時半過ぎ、私は放心しながらキッドアイラック・アートホールを出て明大前駅へと歩いている。それから二週間が経ってから、私は会場で買い求めた『初国』の16ミリ4時間版のDVDを観直し、宇波拓から他の原作品の資料を借り受けた上で、時空間の第六回を書くことになるだろう。
 しかしここでそろそろ中平卓馬を召喚しよう。ご存知の方には恐縮だが、やはりまずは少々ややこしい説明をしておかねばなるまい。中平卓馬は東京外国語大学スペイン科を卒業後、雑誌「現代の眼」の編集者を経て写真家に転身、一九六九年には多木浩二等と写真同人誌「Provoke」を創刊して、理論と実作の両面から「写真」の革新に取り組んだ。六〇年代後半から七〇年代初頭までは、森山大道と共にいわゆる「ブレ、ボケ」を代表する存在として活躍していたが、急速に自身の方法論に異を唱えるようになり、それは遂に一九七三年刊行の評論集『なぜ、植物図鑑か』の表題論文における苛烈な自己批判へと至る。ところがその後、一九七七年九月十一日の早朝、急性アルコール中毒で昏倒して一時的に死に瀕し、意識回復後には記憶や言語能力に少なからぬ障害が残っていた(ちなみにこの時期の中平をモデルにした思しき小説として、尾辻克彦=赤瀬川原平の「牡蠣の季節」「冷蔵庫」がある)。それから暫くの間、作品発表が途絶えていたが、八〇年代に入ってから徐々に復帰し、二〇〇三年には横浜美術館で初の大規模な個展「中平卓馬展 原点復帰―横浜」が催された。それ以降は展示や旧作の再販も含めた写真集の出版が相次いでおり、最近の「ドキュメンタリー展」「キリカエ展」もその流れに位置している。
 では「なぜ、植物図鑑か」や、その周辺のテクストにおける、中平の「自己批判」とは如何なるものであったのか。「なぜ、植物図鑑か」は冒頭、中平の別の論考に対する読者からの投書への応接として書き出される。その投書では、中平の写真から以前のようなポエジーが失われつつあることが批判されていた。中平はその事実を認めた上で、自分はもはや嘗てのような「ポエジー」や「イメージ」などといった語で形容される写真には戻れないと述べ、その理由を述べるという形で、この比較的長い論考を進めてゆく。その記述は率直であり真摯なものである。まず簡潔に纏めてしまうなら、この紛れもない一種の「転回」は、中平が「写真」という方法をあらためて根底から問い直した結果として現れた。彼は同時代の他の芸術における新たな傾向、たとえば映画におけるゴダール、あるいは小説におけるアラン・ロブ=グリエやル・クレジオなどの試みに触発されつつ、では彼らが成し得たのと同様の革新を「写真」に導入することは可能かと問い、その問いの過程で、自らが行なってきた「ブレ、ボケ」と評される手ぶれやピンボケを多用するスタイルが、「事物」や「現実」と呼ばれるものを、あまりにも「人間」的に処理してしまっているとして、捨て去る決意に至ったというのである。

 表現するとは、とりわけ写真という方法を用いて表現するとは結局いかなることなのだろうか。それはむろんのこと私の像(イメージ)の表出や、外化ではない。それこそ写真の最も不得手とするところのものだ。またそのような像(イメージ)の外化、表出が言葉の正しい意味での世界と私との出会いを妨げることをすでにわれわれは知っている。写真を撮るということ、それは事物(もの)の思考、事物(もの)の視線を組織化することである。私は一枚の写真に像(イメージ)の、私が世界はかくあるだろう、かくあらねばならないとするイメージの象徴を求めるのではない。
(「なぜ、植物図鑑か」)

 革新、と書いたが、しかしそれは必ずしも様式的な流行の移り変わりを意味しているのではない。確かにゴダールはヌーヴェルヴァーグ、ロブ=グリエはヌーヴォーロマンの旗頭とされ、いずれも「ヌーヴォー=新しい」という形容が称号になっていたわけだが、彼ら自身が「新しさ」よりも、本当のところは「映画」や「小説」の「原理」性に拘っていたのと同じく、中平もまた、闇雲に「写真」のスタイルを更新しようとするのではなく、いわば「写真の写真性」をラディカル(急進的=根底的)に見つめ直そうとしたのだと思われる。

 カメラとは何か? カメラの依って立つロジックとは何か? カメラはわれわれの見るという欲望の具現であり、その歴史的累積が生んだひとつの技術であり、それ自体ひとつの制度であると言えるだろう。カメラはすべてを対象化し、私からの距離を隔てることによって、世界を客体と化す。四角いフレイムに現実を切り取ること、一点に集約すること、そのことによって私は、たとえそれが現実の一部であるにすぎないとしても、それを所有することができる。その意味でカメラもまた主体・客体という二元論に根ざす近代のロジックを不可避的に背負っている。だが、見ること、それは身体と切り離したところでは成立しない。身体をもってこの世界に生きてあるということ、それはまた見るということをぬきにしては成立しない。こうして世界をよぎってゆく、その身体にひろがる、あるいは身体化された空間、そのすべてが世界を構成し、その〈記憶〉、そのすべてが見ることの内実である。
(中略)
 カメラは見ることを一方的に私の眼に限局する。それ故にそれは世界をオペレイトする思想を体現している。もしそうであるとするならば、カメラはその成立そのものからして世界をトータライズすることのできない方法なのではないか? それは極めて当然な疑問である。たしかに一枚の写真をとりあげてみる限り、それは私という一点から一方的に覗き見た空間を呈示しているだけにすぎない。だが一枚の写真の空間に限定するのではなく、時間と場所に媒介された無数の写真を考える時、一枚一枚の写真のもつパースペクティヴは次第にその意味が薄められてゆくのではないか。つまり、そうすることによって、時間に媒介され、無限に乗り超え、乗り超えられるもの、それはまさしく世界と私、それら二元的対立をつつみ込んだ場としての世界の構造を明らかにしてゆくことが可能なのではないか、ということなのである。そこにはもはやスタティックな私と世界という図式は消え、無限に動き続ける無数の視点が構造化されてゆくのではないか。そのことにもし成功するならば事態は少し変わってゆくに違いない。私がなお写真にこだわり、わずかではあろうが、その可能性にかけるとするならば、ひとつにはおそらくそのような形である。(同)

 「私」と「世界」の間に「カメラ」が介在するだけではまだ十分ではない。静止した平面に切り取られた「世界」の一表象としての「写真」は、「私」の視線、いや「私」という視線との同一化を前提としている限りにおいて、討たれるべき「主体」の僭称された専制を延命させるだけである。しかしそれでも「カメラ」を、「写真」を諦めることなく、「私」と「世界」という二元論の不可避を一旦は引き受けながら、その対決の有様それ自体を表現へと昇華してゆくには、果たしてどうしたらいいのか。「それは要するに、イメージを捨て、あるがままの世界に向き合うこと、事物(もの)を事物として、また私を私としてこの世界内に正当に位置づけることこそわれわれの、この時代の、表現でなければならない、ということであった。そのためには私による世界の人間化、情緒化をまず排斥してかからねばならない」。そこで「無限に動き続ける無数の視点」を「写真」に閉じ込めるひとつの術として、論文の題名にもなっている「図鑑」という概念が登場することになる。

 なによりも図鑑であること。魚類図鑑、鉱山植物図鑑、錦鯉図鑑といった子供の本でよく見るような図鑑であること。図鑑は直接的に当の対象を明快に指示することをその最大の機能とする。あらゆる陰影、またそこにしのび込む情緒を斥けてなりたつのが図鑑である。“悲しそうな”猫の図鑑というものは存在しない。もし図鑑に少しでもあいまいな部分があるとすれば、それは図鑑の機能を果たしてはいない。あらゆるものの羅列、並置がまた図鑑の性格である。図鑑はけっしてあるものを特権化し、それを中心に組立られる全体ではない。つまりそこにある部分は全体に浸透された部分ではなく、部分はつねに部分にとどまり、その向う側にはなにもない。図鑑の方法とは徹底したjuxtapositionである。この並置の方法こそ私の方法でなければならない。そしてまた図鑑は輝くばかりの事物の表層をなぞるだけである。その内側に入り込んだり、その裏側にある意味を探ろうとする下司な好奇心、あるいは私の思い上がりを図鑑は徹底的に拒絶して、事物が事物であることを明確化することだけで成立する。これはまた私の方法でなければならないだろう。(同)

 「なぜ、植物図鑑か」という文章は、一個のアフォリズムのごとき複雑な含蓄と、はっきりと挑発的な印象を帯びた次の一文で終わる。「一度シャッターを切ること、それですべては終わる」。だがもちろん、「無限に動き続ける無数の視点」を生成するためには、一度シャッターを切り、すべてを終えた後で、ふたたびシャッターを切る必要がある。それを何度も何度も繰り返す必要がある。しかもそうして増殖する「写真」は、何よりも「図鑑」的に並置されなくてはならない。一枚の静止画に定着されることによって得られる筈の「写真」の聖性は、このようにして限りなく滅却してゆく。つまるところ、これは他でもない「ブレ、ボケ」に代表されるような、「私(たち)」に対する「世界」の堪え難い暴力への対抗装置としての、「世界」に対する「私」の芸術的な暴力の顕現としての「写真」というものへの、紛れもない訣別宣言であった。「考えられる唯一の答えは写真を指示機能そのものに再びとり返すこと、そしてあらゆるまやかしの芸術性を写真から剥奪することである」(「グラフィズム幻想論」)。
 そして特筆すべきことは、ここで提起されたラディカルな「転回」が、現実に作品という形で明確に立ち現れてきたのが、中平が記憶と言語をなかば喪失して以後のことであったという事実である。たとえば、二〇一〇年に復刻された第一写真集『来たるべき言葉のために』(一九七〇年)と直近の『中平卓馬 Documentary』(二〇一一年)とを見較べてみれば、率直に言って、とても同じ人物によるものとは思えないほどの違いがある。モノクロームの「ブレ、ボケ」から極度のクリアネスを纏ったカラーへ。「図鑑」としての「写真」という中平の理念は、今や完璧に実現されている。だがしかし、ならばそれはひとが生活してゆく上で欠かせないとされているものと、いわば引き換えだったというのだろうか?
 中平卓馬再評価の最大の立役者のひとりは、間違いなくホンマタカシだろう。ホンマは中平の日常を映像に収めて、映画『きわめてよいふうけい』(二〇〇三年)として発表した。動く被写体としての中平卓馬の魅力を最初に発見した作品として重要なこの映画(二〇〇六年には「中平卓馬試論」で重森弘淹写真評論賞を受賞し、横浜美術館学芸員として「中平卓馬展 原点復帰―横浜」展を担当した小原真史が、自身の監督作品として『カメラになった男─ー写真家中平卓馬』を発表している)は、一本の優れたドキュメンタリーであると同時に、ホンマタカシというひとりの写真家が中平卓馬から何を受け継いでいるのかをおおいに語ってもいる。私は以前、ホンマにこの映画の話を聞いたことがある。その時に交わした対話から幾つか引用する。

ホンマ それは本当に事故によるものとしかいいようがなくて、人間はそんなに簡単には変われませんよ。(中略)しかも中平さんは自分で分かってたわけじゃないですか。情緒的なことを排して植物図鑑のように撮りたい、撮るべきだって言ったけど、実際はそれが長い間できなかった。事故で記憶がなくなって初めてそれが出来るようになった。そんなことがなければ簡単には変われないし、そんな風にして変わったっていうのは、多分世界中の表現者を見てもあんまりいないと思いますね。
             *
ホンマ (前略)中平さんはマッチでタバコを吸うんですよ。マッチを外に向けて擦るか自分に向けて擦るか、大きく分けて2通りありますよね。マッチする人をまず実験して、大人だったら、外に向けて擦る人は10回ともそうするんですよ。初めてマッチを擦る子どもは、どうつけていいか分からないから、いろいろやるんです。で、2回目やったときはうまく付いた方向にしか擦らない。大人なら絶対に固定化しちゃうんです。それで中平さんはどうやるかというと、2回に1回、外に向けたり内に向けたりで着火に成功するの。まったくランダム。それはどういうことかというと、これは仮説ですけど、1回1回の記憶がないんです。1回1回があの人にとっては生まれて初めて。
             *
ホンマ (前略)ベタを見ると、何度も何度も同じものを撮ってるんですよ。被写体が限られてるんです。だからその仮説からいくと、毎回初めてその被写体を見て、初めて撮ってると思うんですよ。それがすごく驚きで。そういうシナリオで映画を作ればよかったなって今は思ってるんです。
佐々木 それはすごい話で、さっき言ったように、カメラで写真を撮るときには、カメラのレンズの向こうにそれを覗いている人間の瞳が必ずある、その瞳の向こうには脳や心があるということになってるわけですけど、そこをどう切断するかということになったときに、中平さんという人は、結果的にそういう身体的な事故があってというのはあるんだけど、要はカメラそのものになっちゃってるんですよね。カメラには心理がないから、どんな映像でも何回でも撮るじゃないですか。それと同じことに結果的になっている。それが人間によって成されているということへの驚きってことですよね。
ホンマ あとは現実的なことで、中平さんの今のカラー写真がすごく奇跡的だっていうのは、マニュアルのカメラを使っているんですけど、1/125秒の位置に固定してあるんですよ。変えないのね。その露出のときに写る写真だけが写されている。撮りたい写真によって明るさを変えたりしないのね。100のフィルムを入れてるんだけど、天気のいい日にしか原理的には写らない。だからああいう写真になるわけ。調整してああしているわけじゃないんですよ。
佐々木 それ以外は写ってない。
ホンマ それ以外は真っ黒なんです。
(「《写真機械》としての「人間」」、『ベクトルズ』第一号)

 「カメラを持った男」から「カメラになった男」へ。小原真史ならずとも中平をこう呼びたくなってくる。だがしかし今の私は、このときの「カメラそのものになっちゃってる」という自分の認識は、いささか考えが浅かったのではないかと考えつつある。そしてこの点にこそ、原將人という存在が絡まってくるのだ。だがその前に、まだ述べておかなければならないことがある。
 最近出版された、一九六四年から一九八二年までに中平が雑誌に発表した作品群を集成した大冊『都市 風景 図鑑』には、「一九七七年九月十一日」以前と以後の作品が収められているのだが、前後の写真を確認すると、実は中平が「図鑑」を「以前」から撮っていたことがわかる。むしろ作風の変化は緩やかなグラデーションを描いており、巻末に置かれた、「1982年11月」の日付がある「新たに出会った子供達」や、その前の「1982年3月」とある「写真原点1981」はモノクロで撮られているのに、更にその前の「1978年12月」とある「沖縄 写真原点1」は、現在の画調に近いカラーなのである。つまり実際には、中平の「転回」は、あの「一九七七年九月十一日」を境目として、劇的に起きたわけではなかった。「なぜ、植物図鑑か」での「自己批判」を経て、実作において試行錯誤する過程で、彼は予想だにせぬ事態に陥ったのである。
 ということは、こうも言い得るのではないか。中平卓馬の「転回」は、彼が記憶をなくした事実とは切り離して考えられる。そして「一九七七年九月十一日」以来、すでに三十三年もの時間が流れている。中平の変化は、その間もずっと進行していた。いや、今も進行中なのである。彼は「カメラ」に「なった」のではなく、ある長い時間を掛けて「カメラ」に「なっていった」のであり、まだ「なっていっている」最中なのだ。心斎橋Sixの『キリカエ』展には、中平が「早稲田文学」の一九七七年十月号に発表した「先制の一撃ーー見ることと読むこと」というエッセイの一部が掲示されていた。時期からみて「以前」に書かれたほぼ最後の文章のひとつだろう。そこにはこうある。

 「見る」ことがすでに築き上げられたコードに縛りつけられ、「見る」ことが「見ない」ことと同じになっている時、われわれはカメラという非人称的な機械を介して、この世界と渡り合う。そこには写真を撮る瞬間、自分自身知らなかった異貌の世界がフィルムに刻印される。その驚き。意識と無意識の境界地帯。そこにコードを突き破り、コードを破壊する小さなきっかけを見出すこと。それが写真家に望みうるたったひとつのことである。視線による世界の粉砕といったら大仰だろう。日頃みかける一本の木、たったひとつの石ころ、砕ける波頭、そして何よりも、見馴れた街の一画、人々の群れ、人々の出会い、そういうなんでもない普通のこと共に先制の一撃を加え、それらからの反撃にわが身をさらすこと。そして不断に自己を解体させ、新たなおのれを再生してゆく涯のない繰り返し、そのような視線の戦線をいつまで確保し続けることができるか。それは批評である。世界に対すると同時に自分自身に対する批評である。
(「先制の一撃ーー見ることと読むこと」、『見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977』所収)

 何という真摯な宣言だろうか。今こうして引き写しながら、私は慄然とせざるを得ない。だがしかし、これはあくまでも今から三十三年前に書かれたものである。忘れてはならないことは、現在の中平卓馬はけっして、こんな風に書きも語りもしないだろう、ということだ。理念が実現したので言う必要がない、というのではない。ただ単に、たとえ口を開いたとしても、こんなことは言わない、それだけのことである。しかしこのことに、私はまたも慄然とする。「それは批評である」。私はこの一言の過去の実在と現在の不在が、怖い。
 驚いたことに、私はまだ「風景」に辿り着いていない。だが少なくとも、「映画」と「写真」という媒体の異なりを超えて、中平卓馬のことを書きながら、それが原將人のことのようでもあり、原將人について考えることが、そのまま中平卓馬について考えることと同義になっていくような感覚は、既にして生じているのではないか。だが紙数が尽きた。安心したまえ、次回は決着をつけよう。

3。

 中平卓馬と原將人。私はこの二人がかつて直接対峙したことがあるのかどうかは知らない。だが、今から四十年むかしに、彼らはひとつの言葉をめぐり、或る特別な関係を切り結んだことがある。その言葉とは、他ならぬ「風景」である。しかしこの言葉を最初に口にしたのは中平でも原でもなかった。それは映画評論家の松田政男である。ここで簡便に紹介することを憚られる複雑にして豊饒な政治運動を経て、六〇年代半ばより旺盛な執筆活動に入っていた松田は、同人雑誌「第二次『映画批評』」の創刊に合わせて、足立正生、佐々木守と共同で、当時世間を揺るがせていた「連続射殺魔=永山則夫」にかんする一本のフィルムを制作する。『略称・連続射殺魔』(一九六九年)である。十九歳の青年永山は、西暦一九六八年十月から一九六九年四月にかけて、東京、京都、函館、名古屋、と移動し続けながら、見ず知らずの四人を米軍宿舎から盗んだ銃で次々と射殺し、逮捕された。獄中で著した手記『無知の涙』に始まる「作家=永山則夫」の複雑にして豊饒な歴史にかんしては、また別の長い記述が必要だろう。約二十年に及ぶ公判を経て一九九〇年最高裁で死刑が確定、西暦一九九七年八月一日、東京拘置所において永山則夫は死刑を執行された。『略称・連続射殺魔』は、生地である網走から逮捕された東京まで、永山則夫が辿ったであろう道程を再現しながら、そこにはただ只管、何の変哲もない「風景」だけが映っているという特異なフィルムである。そしてほぼ同時期に、松田、足立とともにこの映画を撮った佐々木守は、大島渚の『東京●争戦後秘話』(一九七〇年)のシナリオを原將人と共同で書き上げることになる。『絞死刑』(一九六八年)に出演するなど大島率いる創造社の近傍にあった松田は、当然のごとく『東京●争戦後秘話』と『略称・連続射殺魔』の類似性と連続性に、鋭く反応してゆく。
 「情況から風景へ」、或いは「情況論から風景論へ」というのが、松田政男が示したテーゼである。「情況」とは、二つの安保に挟まれた六〇年代の政治運動における重要なキーワードであった。「状況」を敢て「情況」と記すことによって付加される意味作用とは、誤解を承知で述べてしまうなら、エモーションとルサンチマンをも理念や理論に潔く決然と導入する、といったことだったろう。なるほど「情況」という語は一定の役割を果たし得た。だが、時代は今や七〇年代である、と松田は宣言する。

 或る田舎詩人の説によれば、情況とは凡人のあずかり知らぬ不可視の世界の謂いなんだそうだけれども、ともかく、六〇年代思想が呪術にまで高められてしまった時、ちょうど時間となったかのように、七〇年代が始まったというわけなのである。
 そして、戦士たちは去り、風景だけが遺った。ひとがイミテーション・ワードで語るのをやめる時、情況はおろか、情け無用の状況さえも消え失せて、忽然と、風景が出現するのだ。ここは、徹底的に、可視可能なる世界である。閉ざされても風景、開かれても風景、いかなる思いをこめたとしても、七〇年代の空はあくまでも蒼く、夜はあくまでも暗いのだ。
(「映像 風景 言語」、『風景の死滅』)

 足立正生らとともに〈連続射殺魔〉永山則夫の全足跡を追って、網走から札幌・函館・津軽平野・東京・名古屋・京都・大阪・神戸にいたる日本の東半分、さらには香港と、くまなく歩きまわった私たちが、ドキュメンタリー映画とは言いながら、ただひたすら永山則夫の目もまた見たであろうところの各地の風景のみを撮りまくって、いわば実景映画とでも自称するほかはない奇妙な作品をいまつくりつつあるのは、ひとえに、風景こそが、まずもって私たちに敵対してくる〈権力〉そのものとして意識されたからなのである。おそらく、永山則夫は、風景を切り裂くために、弾丸を発射したに違いないのである。
(「密室・風景・権力*若松映画と性の「解放」」、『薔薇と無名者』)

 「風景を切り裂くために、弾丸を発射したに違いない」。私が所有している松田政男著『薔薇と無名者』(昭和45年5月10日初版第一刷発行)は、ずいぶん昔のいつだったかに古書店で買い求めたものだが、この部分に鉛筆でバッテンが記されている。誰もが強いインパクトを受ける箇所だということだろう。しかし、永山則夫が切り裂こうとした「風景」とは、けっして特殊な、特権的なものではなかった。スタティックでモノトナスでアンビエントな『略称・連続射殺魔』の映像は、そうでなければならなかった。そして、それは『東京●争戦後秘話』の「あいつ」が撮影した(とされる)映像、そこに延々と映し出される空疎で単調で平凡極まる「風景」と、明らかに同種のものである。

 何処にでもある風景ーーこれは〈風景映画〉の秘密をさぐる上での、最初にして、そして最後のキイワードである。しかし、ところで、不思議なことに、『東京●争戦後秘話』の若い助監督たちが、この〈何処にでもある風景〉をもとめて、私たちの首都をロケハンした時、それは、必ずしも、何処にでもあるというわけには行かなかったのである。何処にでもあるにもかかわらず、しかしさがしだすことが困難な風景ーー。私は、助監督たちの苦労話を聞いて哄笑し、しかし次の瞬間、慄然たらざるをえなかったことをありありと思い出す。そして、一足飛びに言っておくと、画面からも明らかなように、森のなかから一本の木を、砂浜のなかから一個の小石をあたかも選び抜くようにして見つか出された風景とは、同時に、森と砂浜のすべてでもあるような、何処にでもある風景として、私たちに現前することになったのである。
(「ユートピアの反語」、『風景の死滅』)

 「何処にでもあるはずなのに何処にもなく、しかしやはり何処にでもあるという変幻自在な風景のありようは、それ自体で、風景のなかにおける主体の位置を問い詰めるところの、厳しくも、しかし静けさにみちたひとつの謎をはらんでいると言いうる」と松田は続けている。いま引用した文章のタイトルの意味は、「〈何処にでもある風景〉とは、実は、〈何処にもない場所〉としてのユートピアの反語である」ということである。この〈何処にもない場所〉なるものを「革命」と、その反語としての〈何処にでもある風景〉を「日常」と言い換えることも可能かもしれない。そして松田は、蛇足ながら、と断わりながら、次のようなことを書き添えている。

 情況論から風景論への転位とは、一口に言って、風景のなかにいる〈あいつ〉から見つめられている己れの即自的存在を自覚しうるかどうかにかかっているのだ、ということを付け加えておこう。〈何処にでもある風景〉とは、実は、私たちが見るものではなく、私たちが見られるものであるのかもしれないのだ。そして、いま、マドの向こうに拡がる風景からあなたが見られていることを敏感にもあなた自身で悟った時、あなたは自らを〈死〉にまでいたらしめないために何をすべきなのであろうか。(同)

 「私たちが見るものではなく、私たちが見られるものである」、そして/しかし〈何処にでもある風景〉。「見ること」と「見られること」、「見る者」と「見られる者」という問題系がここに浮上してくる。ところで、二ヶ月前の時空間で記しておいたように、『東京●争戦後秘話』のシナリオを佐々木守と執筆した原將人は、この映画の「風景」の捉え方に必ずしも満足してはいなかった。原にとってそれは「不在証明」と「よそよそしさ」にかかわるものでなければならなかったが、映っていたのは「古典的な映像」であったように彼には思えた。そうして原は『初国知所之天皇』に赴くことになる。
 さて、松田政男による「風景論」に、リアルタイムで応答した芸術家のひとりこそ、他ならぬ中平卓馬だった。

 かつて優れた映画評論家、松田政男は“連続射殺魔”永山則夫についてふれ、彼は彼の現前に展開する、まさしく権力そのものによって支えられ、塗り込められた一様なる「風景」を切り裂くために各地をさまよい、ただそのために一発の銃声をみずからの内に見いだしたと書いたが、ぼくにとっても世界はプラスチックのように艶やかで堅牢な「風景」としてしか現前しない。それはまぎれもないぼくの肉体と感性の不幸なのであるが、まさにそれ故に、ぼくは写真を撮りつづけると言うこともできよう。
(「風景への叛乱ーー見続ける涯に火が…」、『見続ける涯に火が…ーー批評集成1965ー1977』)

 雑誌『グラフィケーション』の一九七〇年六月号に掲載され、次いで中平卓馬の最初の写真集『来たるべき言葉のために』に再録された文章から引いた(但し二〇一〇年の復刻版からは初版に収録されていたテキストがすべて削除されている)。ここで率直に表明されている、松田政男と共振する〈何処にでもある風景〉への異和は、一ヶ月前の時空間で足早に辿っておいた、あの「なぜ、植物図鑑か」に結実する写真家中平卓馬の苛烈な自己反省とラディカルな方法論的転回に、急速に向かっていくだろう。

 今、ぼくの脳裡をかすめるのは風景から物質へということである。それは風景の外面性をさらに物質の“防水性”の外面へと思考をつきすすめようということである。あのやさしい風景に入ってゆけない、その風景がいまだもちうる審美性、イメージの介入可能性をこんどというこんどは徹底的にたたきつぶさんがためなのだ。風景論はその成立において情況という言葉のもつ唯我的な部分をたちきり、世界を風景というプラスチックのような外面とその実在(それをささえているのはまぎれもなく権力だ)とそれに直面する私、そしてそれを切り裂くための認識論として出発した。それはまぎれもなく一つの成果である。それをぼくは再びファインダーの中にもどし、ファインダーの必然性に従って物質を発見しようというのだ。それはぼくなりの風景論のゆきつく先である。物質と人間との対立をまさしく対立そのものとしてとらえかえそうということ。そしてそのためにはイメージなどといった情緒的要素を逐一追放してゆかねばならないのだ。
(「イメージからの脱出」、同前書)

 「情況から風景へ」、そして「風景から物質へ」。そして中平は、松田政男が提起した「見る/見られる」という関係の転倒の問題にも触れている。

 周知の通り、風景論の骨格をなす論理の一つに、われわれの眼前に現前する風景、それをわれわれは見る、しかし同時に風景そのものによってわれわれ一人一人が見られているのではないか、という論理がある。(中略)それはこの権力によって一様に塗り込められた風景という意味では、権力の視線にさらされたわれわれという意味があることは明白だが、ぼくはこの指摘に同時にわれわれがすべてを人間中心に、人間の意識で浸透し尽くした上で世界を見る、そのヒューマニズムへの告発をよみとる。(同)

 この文章は、一九七一年に雑誌「デザイン」で四回にわたって連載されたものであり、「なぜ、植物図鑑か」の二年ほど前に当たる。「権力の視線にさらされたわれわれ」などと云われると、現在では思わずフーコーとか口走ってしまいかねないが、それは兎も角、ここには前にも見たように、同時代のヌーヴォーロマン/ヌーヴェルヴァーグ的な「新しいリアリズム」への強いシンパシーが窺える。それは時として誤解されているような「主観」から「客観」への力点の移動というよりも、むしろ「主観/客観」という枠組み自体の見直しと破壊であった(たとえばアラン・ログ=グリエが『嫉妬』等で試みたのは、主観性の極限と客観性の限界の交叉としての描写=記述だった)。そしてそれは当然、先の「見る/見られる」と深く関係してくる。
 「リアリズム」について、中平は次のように述べている。

 なにをリアルであると呼ぶのか。リアリズムとは何か。その根源のところは不問に付されたままである。リアリズムという言葉だけが手前勝手に自己増殖を続ける。また写真というものがもともと現実の似姿、模写像であるという特性をもっているがために、写実主義という言葉とあいまって、無規定に乱用されることになる。言うまでもなく写実主義とはリアリズムの訳語のひとつである。そうなると写真はすべて写実ということになる。あらゆる写真は写真であるかぎり、写実主義ーーリアリズムの実践ということになる。リアリズムという言葉のあいまいさは、このあたりにも混乱の原因があると言えるだろう。
 だが、リアリズムとはそんなものではない。リアリズムとは「ーはーである」という断定、断言をはじめから排除するものである。反対に、リアリズムとはあらかじめ設けられた暗合解読格子をすすんで崩壊させようとする方法的意識のことである。私と世界の間を遮断し、私と世界を予定調和の状態におく意識下の解読格子をいま、ここで、世界と出会うことによって崩壊させ、世界と私をまっすぐに向きあわせようという方法としての意識を、その意志をリアリズムと呼ぶべきなのだ。
(「個の解体・個性の超克」、同前書)

 だが、このように書きつける数年前に、中平卓馬はこんなことも述べている。「ぼくは、写真はつねにそれ自体虚構であるということ、それを前提にして出発しなきゃならないと思う」。ならば「虚構」と「リアリズム」を如何にして止揚するか、この命題こそ、中平卓馬が「写真」を相手取って実験/実践しようとしたものだった。
 中平卓馬、森山大道らと写真同人誌「プロヴォーク」で共闘した故・多木浩二は、中平の写真集『来るべき言葉のために』を論じた小文のなかで、こう述べている。

 しかしよくよくみれば、中平の知覚の質それ自体はむしろオーソドックスである。詩人としても、行動者としてもそれは目新しいものではなかった。しかし、写真という、おのれとおのれを超えたものとの、つまり見ることと見ないこと、(あるいは忘却するものと記録するものと、あるいは瞬間と持続と)のあいだを、自らの手によってではなく、他者の手によって結ぶという営みのなかに、かつて手(あるいは言葉)によってこれらの知覚をあらわそうとした営みをはるかに遠くまで超えてしまうものがあったのである。それは仕掛けるワナではなく、むしろいやおうなしにそうなってしまう宿命である。だからこそ、そこには来たるべき言葉のためにと記す必要があったのである。同時に写真を魂(あるいは意識と身体)にできるだけ引きつけようとしても、むしろ身体をかなたへつれて行くようなことになる。「身体を世界にかし与える」といった人がいるが、かれの場合はそうかもしれない。
(「来るべき言葉のためにーー中平卓馬の写真集」、『写真論集成』)

 これは中平が「転回」へと歩み出すよりも以前の文章であるが、ここで多木が「魂」に対して「身体」という言葉によって言い表そうとしていることは、或る意味でのちの「物質論」を予告しているとも考えられるかもしれない。ところで、多木の云う「他者」とはおそらく「写真機=カメラ」のことだろう。これは極めて重要な指摘である。いや、多木の意図はわからないが、ここで「カメラ」が「他者」と言い倣わされていることは、すこぶる重要であると私には思える。しかし多木浩二の中平卓馬論は、最終的には、この時代の思考の圏内に留まってしまっている。

 かれの瞬間の反射のなかにあらわれるのは、かれを超えたなにかなのであり、ぼくがいうかれの知覚とはかれが現に感じ(見)つつあるこのものではなく、それをはるかに超えた表出なのだ。かれが言葉というときに、ほんとうに問題になっているのはかれが感じているとみられる(期待している)未来の言葉であろうか。それは語られる言葉でも、伝えられる言葉でもなく、これらすべての言葉がかえっていく(原言語)とでもいうべき領域のことであり、それが世界という布地を織りあげているものなのである。とすると来るべき言葉というとき、明らかになるのは言葉それ自身の問題というより、かれの正真正銘のロマンチシズムなのだ。(同)

 「来たるべき言葉のために」という言葉に、どうしたって引っ張られてしまうのは致し方ないことだと言うべきかもしれないが、少なくとも現在の観点からすると、ここで「原言語」と呼ばれているような領域の措定(参照されているのはおそらくジャック・デリダによる「アルシ・エクリチュール」だろう)は、数年後の中平卓馬が厳しく斥けようとする「イメージ」や「ヒューマニズム」と然程変わりがないのではないかとも思ってしまう。しかし中平の盟友であった多木浩二が、「プラスチックのように艶やかで堅牢な「風景」」が「ぼくの肉体と感性の不幸」によって現前するのだという写真家の苦悩を、いちはやく見抜いていたことは確かである。
 では今度は、清水穣による中平卓馬論を引用したい。清水はまず、中平、多木、高梨豊、森山大道らによる「プロヴォーク」について、こんなことを述べている。

 プロヴォークの写真とは、極限において現れるリアルなものへ向かって写真批判を積み重ねる、日々の行為にほかならない。「I have nothing to say and I am saying it」というケージの言い回しをもじれば、「写真に撮るべきものはなにもない、だからそのことを撮る」のが、プロヴォークにとっての日常性の写真なのである。
(「日々是写真-ー中平卓馬の写真」、『日々是写真』)

 ケージとは言うまでもなくジョン・ケージのことである。言うまでもなくケージは「音楽の音楽性」を一貫して問い続けた作曲家だった。ケージが「音楽」に対してそうしたように、或いはサミュエル・ベケットが「言語」に対して、ジャン=リュック・ゴダールが「映画」に対して、或いはアンデイ・ウォーホルが「美術」に対してそうしたように、清水は「プロヴォーク」たちは「写真の写真性」をこそ主題化したのだと言っている。つまり、いま名前を挙げたいずれの芸術家にとっても同じことだが、指示内容は最大の重要事ではない。描かれるもの、語られるもの、写されるもの、それらの必然性は、その必然性とやらが営みの両極の主体(作り手と受け手)にとってのそれに落ち着いてしまうことによって、たやすく実は交換可能な「物語」に過ぎなくなってしまうだろう。そうではなく、たとえ必然など何処にもなくても現に存在してしまうもの、あっけなく世界に実在してしまうものこそを問題にせねばならない。だが、これほどむつかしいことがあるだろうか。だから結局のところ、この「日常性」を凝視し尽くした「極限において現れるリアルなもの」に賭けるしかないのだ。見続ける涯に立ち上る火を目指すしかないのだ。
 そして中平卓馬は事故に遭い、記憶を失った。清水穣の論は、これ以後の、すなわち現在の中平に焦点が絞られている。ホンマタカシと同じく、清水もまた記憶喪失が写真家の変貌にとって決定的だったという見方を採っている。

 記憶喪失とは自分の名を満たしていた実存を失くすことである。「私は中平卓馬だ」という同一性が消え、「中平卓馬」という覚えのない名が私のことだ、と告げられる。「中平卓馬」を「この私」として生きるためには、その空っぽの名前を毎日充填しなければならない。彼はそのために「カメラになった」。(中略)外界の光がカメラの内部に入りそれを満たして一葉の写真が生まれるように、世界が「中平卓馬」という空の名前の中に没入しそれを充満させて、失われた実存を再生させる。「私は中平卓馬です」ではなく、「中平卓馬はこれです」。「これは猫です」という同一性の写真ではなく、「これ」の写真。日々の「これ」の写真が、この日、この私を、この色鮮やかな生で満たす。(同)

 「カメラを持った男」ならぬ「カメラになった男」中平卓馬。メモリを消去されたがゆえに、そしてメモリが失調しているがゆえに、繰り返し繰り返し「これ」と「これ」と「これ」と「これ」たちを何度も撮影することによって、放っておくとすぐに空白になってしまうだろうディスクを充填してゆかねばならない。そしてむしろそうした日々の記録/記憶と忘却/消失との反復が、そのまま彼の「生」になっていく。カメラになった男の、写真になった人生。日々是写真。私はほとんど清水の論に同意してしまいそうになる。いや、それは疑いもなく正しい。だって私もまったく同様に考えていたのだから。西暦二〇一一年四月三日、明大前のキッドアイラック・アートホールで原將人の『初国知所之天皇』を観るまでは。
 間違っていることを承知で断言するが、原が『東京●争戦後秘話』に抱いた一抹の不満の理由ははっきりしている。それは監督である大島渚が自らカメラを廻していなかったからである。松田政男はこの映画を『略称・連続射殺魔』と並ぶ「風景映画」の白眉として位置付けているが、それは確かにそうだとしても、監督によって与えられた「映画で遺書を残して死んだ男の物語」というお題に〈何処にでもある風景〉で応えようとしたのは、おそらく原將人であり、佐々木守であったのではないか。映画をトータルで観る限り、大島の本来の企図は、同時代の「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の作家たちと同様、むしろアラン・レネ的なアイデンティティや虚実の混乱の方にあったように思える。
 『東京●争戦後秘話』という映画には、三つの次元=層が混在している。第一に、監督である大島渚による「物語ること」をめぐる層。第二に松田政男が「風景論」を見出した「見ること」をめぐる層。そして更にその底に、画面の表層には現れることのなかった、原將人による「撮ること」をめぐる第三の層が潜在している。そして問題は「見ること」と「撮ること」とのかかわりにある。より精確に述べれば、「見る/見られる」と「撮る/撮られる」との微妙にして重大な差異こそが、何よりも問題なのである。

 目は視る目ではない。視ることを代表しているのに過ぎない。耳は聞く耳ではない。聞くことを代表しているのに過ぎない。目が視ることを代表しているのでなければ、耳が聞くことを代表しているのでなければ、私は視ることも聞くこともできない。逆に言えば視ることを視るのも、聞くことを聞くのも、極めて当然のことなのである。そして、そこにおいて関係の二重性が存在しているのではなく、我々が視たり聞いたり話したりするもの以上だということが言えるのである。
(『初国知所之天皇』1973-94 Version シナリオ採録)

 『初国知所之天皇』以後の原將人の歩みを簡潔に記しておく。七〇年代は『初国』の上映活動と改訂(二面~三面マルチ・プロジェクションへのヴァージョン・チェンジも含む)にほぼ費やされる。八〇年代から九〇年代にかけてはテレビやCMの仕事もこなしながら、一九九三年にひさびさの自主制作映画として、当時十四歳の息子とのロードムービー『百代の過客』を撮り上げ、山形国際ドキュメンタリー映画祭に出品、天才の帰還として大きな話題となった。『百代の過客』は芭蕉の『奥の細道』になぞらえた気侭な父子の旅を記録した、オリジナル版では九時間を超える大作である(山形出品ヴァージョンは三時間四〇分)。原は離婚しており、息子とは別居中だった。一緒に旅に出てみたはいいが、実の息子にどう接していいのかわからない原の父親ぶりを見ていると、あの『初国』の青年があっという間に中年男になってしまったかのような不思議な錯覚を催す。興味深いことは、息子が8ミリフィルム、原は8ミリビデオで撮影していることである。息子は8ミリカメラをビデオのように軽やかに扱い、父はビデオカメラを『初国』以上に廻しっぱなしにする。父子はギターとキーボードで合奏し、自作の歌を唄う。多くの点で『初国』の続編的な様相を帯びた作品だが、他者(息子)との(ディス)コミュニケーションという(おそらく当時の原自身にとって痛切な関心事であったろう)新たなテーマが全体を貫いていると同時に、フィルムとビデオというゴダール的な問題意識(カインとアベル!)も装填されている。
 『百代の過客』での「復活」を目の当たりにした者でさえ、原將人がその後、あの『おかしさに彩られた悲しみのバラード』から約三十年を経て初の劇場用長篇劇映画を撮ること、しかもそれが当時人気の絶頂にあった広末涼子を主演に迎えたものになるなどとは絶対に予想出来なかっただろう。『20世紀ノスタルジア』(一九九七年)である。原はこの作品によって日本映画監督協会新人賞を受賞している。しかしロードショー公開された歴とした商業映画だからといって、国民的アイドルが出演しているからといって、原將人は揺るぎなく原將人であった。宮沢賢治の『双子の星』から採られたチュンセとポウセという名でお互いを呼び合う高校生カップルの、奇妙だが甘酸っぱくもあるひと夏の想い出を描いたこの作品は、自分は地球滅亡後の或る星からタイムワープしてきた「宇宙人」だと告白する一風変わった少年チュンセ=片岡徹(演じているのは『百代の過客』にも出演していた原將人の息子である!)と、快活だが夢見がちな少女ポウセ=遠山杏が、ふたりで「地球滅亡まで」を映像に記録しようとする、という物語である。したがって当然、またもやカメラが、そしてそのカメラによって撮られた映像が、画面に登場する。『百代の過客』以上に、この映画における映像メディアの多層性は際立っている。チュンセとポウセはそれぞれビデオカメラを携帯し、本編は35ミリフィルムで撮影されているが、デジタルビデオも縦横に駆使されている。ヒロスエが唄い踊るミュージカルシーンも導入された、ファンタジックな色彩の濃い作品だが、「20世紀ノスタルジア」という題名に込められた含意は深い。いささか唐突な感も拭えないラストシーンに託された希望は、監督原將人が、やがて暮れゆく「二〇世紀」と、来るべき「二一世紀」に宛てたメッセージだったのかもしれない。
 二〇〇二年には、『初国』『百代』の流れを汲む「私映画」=『MI・TA・RI!』が発表される。今度原と旅をするのは、新しい伴侶であるマオリと、ふたりの間に生まれたばかりの赤児である。「国旗国歌法」が制定された一九九九年、原は妻子を連れて「日本探し」に旅立つ。祇園祭の京都から原爆記念日の広島へ、そして沖縄へ。8ミリ映写機二台とビデオプロジェクター一台によって、シネマスコープサイズのスクリーンに三面マルチで上映される作品であり、シーン毎に画面のサイズや配列も変わってゆく。また『初国』と同じくリアルタイム・ナレーションも行なわれる。マオリは、このあと観音崎静の芸名で、原將人の二本目の長篇劇映画である『I WISH YOU WERE HERE! あなたにゐてほしい』に主演することになる。私はこの映画にスタッフとして参加した宇波拓の好意によってDVDを観ることが出来たのだが、まだ正式に公開されていないこともあり、「昭和三〇年代」を舞台とするこの作品が、一連の「昭和ノスタルジー映画」に対する批判的視座を明確に有しており、旧カナから新カナへという「仮名遣いの変遷」を鍵として「戦後」を捉え返そうとする、すこぶるクリティカルなものであるとだけ述べておくことにする。
 そして近年、原將人が精力的に上映を行なっているのが、『マテリアル&メモリーズ』を総題とする連作である。この作品は、8ミリ映写機三台を遣ったライヴ・マルチ・プロジェクション(一種のリアルタイム・モンタージュとも言える。しかも全て一秒4コマの超スローモーションで映写される)と、原自身によるライヴ演奏とナレーションによって上映される。機会ごとに新たなパートが撮り足されたり、過去の作品ーーたとえば『初国』からの引用なども含まれることによって、上映時間は自在に伸縮する。過去の同様の作品との重要な違いは、8ミリしか使用されていないということである。『初国』のオリジナル8ミリ版での上映といい、原はここへきて8ミリフィルムが持つ物質=マテリアル性に回帰しようとしているように思える。
 『マテリアル&メモリーズ』という題名は、言うまでもなくアンリ・ベルクソンの『物質と記憶』の英語訳である。原將人は「マテリアル&メモリーズ~ベルクソンから映画を読み解く~」という長文の論考において、ベルクソンの
著作の中でも難解を以て鳴る『物質と記憶』の読解を試みている。ベルクソンの原典からの抜粋は省略し、原による解釈だけを引用する。

 ここで述べられているのは、〈私たちは、知覚を、均一な光のもとで撮られたどこにでもピントの合った風景写真のように思っているから、選択を本質とすることが分からない。むしろ、均一な光のもとで撮られたどこにでもピントの合った風景写真は、宇宙を構成する物質のなかにこそある。しかし、物質の場合、黒いプレートがフィルムの後ろにないので、感光されないし、現像も定着もされない。私たち生命体、とりわけ動物の[不確定の地帯](感覚と運動の間に存在する選択の領域)は私たちと利害関係のあるところが黒くなったプレートであり、それをバックに、その前にあるフィルムに、ピントも露光も適切な像が焼き付けられ、それをもとに私たちは行動する。〉ということである。
(「マテリアル&メモリーズ~ベルクソンから映画を読み解く~」)

 「宇宙は映画で成り立っている」と題されたパートの一節である。ここで語られている「知覚」と「風景写真」と「物質」の三竦みは、あからさまに中平卓馬を思い出させないか。だが、私がようやっと、遂に、この三ヶ月も続いた「風景」についての時空間の最後に取り上げたいのは、この少し後に出てくる、次のような問いなのである。「エピソード記憶は、主観ショットだけで成立していて、そこに客観ショットの混入はないのか」。「エピソード記憶」とは、これこれこういうことがありました、などといった、何らかの物語の形式で保持される記憶のことである。

 原則的には、過去の知覚の集積がエピソード記憶になるのだから、実際に記憶力によって想起しうる表象とは、その日付に遡って私が見た、あるいは私がそこで私が行動しながら見たり聞いたり感じたりしたその主観であるはずだ。聴覚も、触覚も、味覚も、臭覚も、主観以外ではあり得ない。視覚だって主観以外あり得ないが、私がここで問題にしたいのは、そこには、自己像が含まれる客観ショットが混入していないか、主観をもとに想像された客観ショットが混ざっているのではないかということなのだ。(同)
            *
 映画の世紀、二〇世紀を通過した私たちは、[日付を持った記憶]に、背中越しの私がいる光景、私も写った全景のロングショット、などの任意のコンテを与える。そして、時には、その時誰かが撮った、スナップ写真の記憶が混入しているのかもしれないが、正面からのアップがあったりもするだろう。さらに、それはキャスティングまでして、誰か私に似た俳優が演じている記憶に変貌しているかもしれない。(同)

 原が言おうとしているのは、記憶のいわゆる曖昧さ、可塑性、作話のことではない。「撮る/撮られる」という関係性の背後に「見る/見られる」という関係性が潜在しているのではなくて、その逆である、という、目眩のするような主張である。われわれの「記憶」の中では、「主観ショット」と「客観ショット」が、ごく自然に混在していることがある。だが、それは一体どういうことなのか。リアルな視覚的記憶に「自己像」が含まれている筈はないのだから、それは「主観をもとに想像された客観ショット」と考えるしかない。この「想像」を、テクノロジーが代わりにやってのけるのが「映画」なのである。『初国知所之天皇』後半の、あの急展開を告げた「私は一つだけはっきりさせておこうと思う。私は映画を撮って歩いているのではないということだ。私において、映画が主役なのではなく、私が、映画の主役なのである」という宣言は、精確にこの意味で解されなくてはならない。「私」が「映画」を撮っているのではない。撮っているのはカメラという「機械」である。だから「私」と「映画」のどちらも主語ではない。そしてそれは「私」と「世界」のいずれも主語ではありえない、と言うのと同じことである。「まるで映画を観てゐるやうだ」。撮影と映写。原將人が一貫して徹底的に拘り続けている二つの行ない=営み。「一度シャッターを切ること、それですべては終わる」。それ自体が記憶の涯に取り残された、中平卓馬の潔くも鮮やかな断言。
 「マテリアル&メモリーズ~ベルクソンから映画を読み解く~」には、脳科学的な知見も随所で参照されているが、しかし原にとっては、すべてが「映画」の神秘を晒け出すために用いられる。

 網膜に写し出された光学的な像が神経回路を通過して、視覚として結像するプロセスを調べると、百万単位のニューロンとシナプスが、映画の点滅に近い回数の、点滅を繰り返しているという。とすると、映画の点滅は、視覚のプロセスが外へと対象化されたもので、映画を見るとき、視覚はそれに対して、いわば二重の視覚の手続きを行っていることになる。映画の点滅を視覚プロセスの点滅を通して見るのだ。
 それは、つまり、視覚プロセスを視覚するという、いわばメタ視覚というべきものであって、おそらくそれ以上に強烈な視覚体験はあり得ないということになる。
 視覚的なプロセスが二重になるので、記憶の尖端での凝縮力は最高に高まることになる。このような視覚体験は映画が誕生するまではあり得なかったことである。
 これが映画の魅力の基本にあるものだ。
 そのフィルムの点滅に比べれば、ビデオの走査を見ることは、通常の光景を直接見ることに近い。そして液晶ともなると、その走査はさらに滑らかなものになるので、その液晶画面は窓の外の風景以上の凝縮力を持たない。だから、フィルムの映像に慣れ親しんだ視覚にとって、ビデオはメタ視覚ではないので、記憶の凝集力もフィルム体験に比べれば、弛緩したものになる。
(同)

 原のベルクソン論をつぶさにトレースすることは出来ないが、この件りの結論部分は次のようなものである。「自然的視覚とは空間的マトリックスにおける位置の視覚であり、映画的視覚とは位置からの視覚である。自然的視覚とはものから、空間から見られている視覚なのであるが、映画的視覚とはものを見ることであり、空間を見ることなのだ」。自然的視覚と映画的視覚。「位置の」と「位置からの」の、「空間から」と「空間を」の違い。カメラを通してでなければ、カメラという機械がこの世に存在していなければ、プロジェクターという機械が存在していなければ、映画的視覚は、われわれに宿りはしなかった。だが、ひとたび宿ったが最後、もはや自然的視覚は何処かに消え去ってしまい、カメラを通してでなくとも、映画的視覚が、それだけが生き延びるのだ。
 中平卓馬は「カメラになった男」ではない。彼は「カメラを持った男」だったが、今やそれでさえない。中平という「私」と彼の「カメラ」は他者同士であり、断絶している。そう考えるべきなのだと思う。しかし、ならば結局のところ、理想として掲げられた「図鑑」が実現された、ということでいいのか。いや、それも違う。何故なら中平の写真は、現在も尚、けっして「図鑑」などではないからだ。「図鑑はけっしてあるものを特権化し、それを中心に組立られる全体ではない」と中平は述べていた。「並置」とも。「事物が事物であることを明確化する」とも。だが、このような「図鑑」のありようは、「写真」を自然的視覚に、すなわち〈何処にでもある風景〉がどれだけでも見つけ出され得るだろう「客観」という誤謬/詐術へと誘うだけである。『キリカエ』展の壁にぎっしりと貼られた写真群は、まったくそういうものではなかった。確かに異様にクリアな画像や、無造作さとは無縁の的確極まるフレーミングは、一種の「客観」性を、或る即物的なリアルさを身に纏っているかにも思える。だが、あのような「リアル」など何処にあるというのか。誰もあんな風に事物や人間や生物を見てはいないし、あんな「図鑑」など、世界中探しても何処にもありはしない。中平の「リアリズム」の定義を思い出そう。「私と世界の間を遮断し、私と世界を予定調和の状態におく意識下の解読格子をいま、ここで、世界と出会うことによって崩壊させ、世界と私をまっすぐに向きあわせようという方法としての意識を、その意志をリアリズムと呼ぶべきなのだ」。「中平卓馬の写真」を撮っているのは「中平卓馬という私」ではなく「カメラという私」である。この「私」は、「主体」として振る舞いはしないが、「主観」を持っている。そしてそれは「主観をもとに想像された客観ショット」を産み出すのだ。原將人にとってそうであったように、中平卓馬にとっても「カメラ」とは端的に「私ではない何か(他者)」なのであり、にもかかわらず「カメラ」だけが、「記憶」とは完全に独立して「過去」を、或る時間と空間を、すなわち「世界」を生き永らえさせるのである。だから中平を襲った「記憶喪失」は、こう言ってよければ、たまたまのことであり、それだけのことである。それはたかだか「中平卓馬という私」を失わせたに過ぎない。むしろ彼が長い時間を費やして進行させているのは、「カメラという私」が「中平卓馬」と重なりそうになりながら、どこまでも永遠にすれ違い続ける、終わりのない、意志も目的も欠いた、真の意味でアンチ・ヒューマニズム的な、要するに野蛮なプロセスなのではないか。

 西暦二〇一一年四月三日、私は原將人の『初国知所之天皇』を観た。西暦二〇一一年五月十八日、私は中平卓馬の『キリカエ』展を観た。「写真」は、「映画」は、或いは、「物質」は、「世界」は、私を見返すことなどまるきりなく、ただそこにあった。切り裂かれるべき「風景」は、そこにはなかった。ただ、何かによって撮られたものだけがあった。「まるで写真を観てゐるやうだ」、「まるで映画を観てゐるやうだ」。私はいま、こう呟いてみている。


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