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R.I.O. 1993

(初出:『ユリイカ』1993.4月号 特集=ロック——身体を拡張する音響装置)

●R.I.O.とは何か

 1978年、ロンドン。イギリスのメタ・プログレッシヴ・ロック・バンド(本人たちは“ダダ・ブルース・バンド”などと名乗っていたが)ヘンリー・カウが、彼らとともに複数のグループが出演する合同コンサートを行った。題して“ROCK IN OPPOSITION”。これはバンド自身によって企画、運営された、完全な自主イヴェントであり、カウの呼び掛けに応じて、フランス、イタリア、スウェーデン、ベルギーの4カ国から、意識的なロック・グループが結集したR.I.O.はこの催しを直接的なきっかけとして発足した、一種のユニオンである。彼らはこの後、更に別の国からの参加バンドも加えて、スイスで最初のミーティングを開き、ヨーロッパにおけるインディペンデントな音楽活動をさまざまな面でサポートするための組織としてR.I.O.を位置づけるに至った。
 当時のヘンリー・カウは、音楽的にも、また政治的にも、急速に先鋭化していた。彼らはたとえば、同じ時期に隆盛を極めていたパンクと比べると、3コード+単純明解なメッセージ(パンク)ではなく、高度で複雑なコンポジション/インプロヴィゼーションと、アレゴリカルで思弁的なテーマを重んじていたため、ある意味では二重にマージナルな位置にあった(そんな中でメンバー間にも多くの意見の対立があり、実はカウというバンド自体がこの時危機に瀕していたのだが——というよりも同年、実質的にカウは解散してしまうのだが、この辺の事情については、ここでは事実のみを記すことに留めておく)。カウは70年代の半ばより、ヨーロッパ各地でライヴ・ツアーを精力的に行ってきたが、そうして他の土地を訪ねる内に、イギリス以外の国々にも自分たちのスタンスと相通ずるスタンスのグループが、幾つか存在していることを知った。その頃はまだいわゆるインディ・レーベルというものがほとんど生まれておらず、安易な商業主義と決別してラディカルな音楽活動を志向するバンドは、当然ながらメジャー会社には受け入れられないため、レコードを出すことはおろかコンサートを行うことさえ困難な状況にあった。カウ自身、それまで3枚のアルバムをリリースしたヴァージン・レコードと、その頃には絶縁していた。R.I.O.は、こうした概してマイナーな、だが高い音楽性を有したバンドを一堂に集めて、彼らの存在をアピールすることにひとつの目的があった、これはまた、R.I.O.とほぼ同時期に、カウのドラマーのクリス・カトラーによって設立された、営利を第一の目的としないレコード会社、流通機構であるレコメンデッド・レコーズの基本姿勢でもある。R.I.O.は、ヨーロッパの「反体制(イン・オポジション)」的なロック・バンドの共闘ネットワークとして、その後何ヶ所かで開催された。
 R.I.O.に何らかの形で参加した、主なバンドは以下の通り。エトロン・フー・ルルーブラン(フランス)、マグマ(同)、アール・ゾイ(同)、アルベール・マルクール(同)、ZNR(同)、アクサク・マブール(ベルギー)、サムラ・ママス・マナ(スウェーデン)、ストーミー・シックス(イタリア)、フェリウ・イ・ホアン・アルベール(スペイン)、ハイナー・ゲッベルズ&アルフレート・ハルト(ドイツ)、アンレスト・ワーク&プレイ(UK)etc.……。

●OPPOSITION?
 
 R.I.O.は、日本語では「反体制ロック」(本稿でも既に一度使用した)とされる場合が多い。なるほど、IN OPPOSITIONには「在野の、野党の」といった語義があり、英国では特に現体制に対立する勢力という意味が強い。実際、ヘンリー・カウを筆頭とするR.I.O.グループは、レコード・カンパニーによるミュージシャンの利益収奪の構造に対して極めて批判的だっただけでなく、そうした事どもを可能にするもの、すなわち「資本主義」へも懐疑的な視線を向けた。彼らは共産党を初めとする「反体制」的な組織に大なり小なり関わっており、R.I.O.にアクチュアルな政治参加という側面があったことは、もちろんうたがうべくもないだろう。
 しかし、かといって、IN OPPOSITIONの射程を現実的なレヴェルでの社会/政治のみに限定してしまうと、肝心な点を見逃すことになる。彼らのサウンドが反権力的なポジションから発せられていることは確かであるとしても、それは決してプロテストの道具として用いられているのではない。OPPOSITIONは、彼らのサウンドの「内側で聴かれなくてはならない」のだ。それはまず何よりも既存の「ロック」なるものへの、いや、「音楽」という権力=制度への、痛烈な「異議申し立て(オポジション)」なのであり、「ロック」と「音楽」のフレーム内に、さまざまな方法で「対立(オポジション)」を呼び込むことなのである。つまり、R.I.O.とは、単に「政治的な音楽」なのではなく、むしろ「音楽の政治」に深く関わるものだったのだ。
 そこではたとえばグループ・コンポジション→コレクティヴ・インプロヴィゼーション(ヘンリー・カウの“UNREST”)という実践によって、既存の「作曲家」という地位と、「作曲」という作業工程自体が解体されたり、トラディショナル/フォルクローレ的な要素の大胆な導入(サムラ、ストーミー・シックス)、エレクトロニクスと室内楽の出会い(アクサク・マブールのファースト、ZNR)、或いは「ロック」が持つベーシックなスタイルを押さえつつ、そのイディオムを極端に拡張する試み(エトロン・フー・ルルーブラン)といった、数々の実験が行われていく。国籍も編成も基本的な音楽性もそれぞれに異なるバンド同士が、相互に刺激を与え合いながら、あらゆる点で妥協を拝して、「ロック」と「音楽」の新たなフェイズを追求していった。R.I.O.の企図とは、極言するならば、我々の飼い慣らされた「聴覚」そのものに、鋭く“対立”することだったとさえ言ってもいいだろう。

●R.I.O.の展開

 クリス・カトラーの弁によれば、組織としてのR.I.O.は、実際にはたったの二年間しか続かなかったという。活動停止の具体的な理由については定かではないが、先に触れたように、中心グループのヘンリー・カウが解散、分裂してしまった事にも一因はあるだろう。だが、ちょうどこの頃から、おそらくはパンク・ムーヴメントが起爆剤となって、イギリスを中心にインディペンデントのレコード・レーベルが数多く誕生していったという音楽状況自体の変化と、R.I.O.のコンセプトそのものに、たとえ完全な合議制を採っていようとも、何らかの中枢部を持った「組織」という在り方とは、根本的に相容れない運動体としてのラディカリズムが存していたことを考え合わせるなら、この「共闘」は複数の「闘争」に散開したのだと考えるべきなのかもしれない。実際、R.I.O.が機能を停止した後も、この名称をそのまま標榜したり、またそうでないまでも、ミュージシャンとしての姿勢や主義を同じくする後続のバンドが次々と現われ、いつしかR.I.O.はあたかもひとつのカテゴリーであるかのような扱いさえ受けるようになっていったのである。
 R.I.O.なき後もレコメンデッド・レコーズは存続し、現在はReR メガコープと改名、ヨーロッパ圏に留まらず、世界中の実験的、前衛的なミュージシャンのバックアップを行っている。また1980年前後には、他の国にも続々とレコメンと同傾向のレーベルが誕生していった。スイスのレックレック、ドイツのノーマンズ・ランド及びレビュー・レコーズ、フランスのAYAA、アメリカのキュニフォーム等などである。各レーベルは互いに協力関係にあり、いずれも所在地とは関わりなく、さまざまな国のバンドのアルバムをリリースしている。俗に「レコメン系」などと称されるこれらのレーベルは1993年現在も存在しているが、80年代を通じて百花繚乱とも言うべき成長を遂げたインディ・シーンの中では格段に規模も小さく、(もっとも経済的に成功しているレックレックでさえ10年間で50タイトルしかアルバムをリリースしていない)、レーベルの維持という部分では、数多くの問題と常に向かい合っている。たとえば現在のReRは、ヨーロッパ盤ではアメリカの音楽市場に参入することが非常に困難であるため、キュニフォーム・レーベルと契約を結び、原盤を米国内でプレスしてから、イギリスに逆輸入するというシステムを取っている。この事からも分かるように、R.I.O.は現在も確かに“闘争中”なのである。

●ヘンリー・カウ以降

 以下のパートでは、R.I.O.の活動および理念を、直接的、間接的に受け継いでいると言える、現在活躍中のバンド、ミュージシャンを紹介していく。まずはヘンリー・カウのメンバーたちの動向について触れておこう。
 ギター、ヴァイオリン他のフレッド・フリスは、クリス・カトラー、後期カウと合体したアヴァン・ポップ・トリオ、スラップハッピーのヴォーカリスト、ダグマー・クラウゼと共にアート・ベアーズを名乗り、3枚のアルバムを発表した。インスト主体だったカウとは異なり、ここではカトラーの寓意的な歌詞とダグマーの表現力に富んだ歌唱を全面的にフィーチャーして、ブレヒト・ソングスの正統な後継者とも言うべき、緊張度の高いサウンドを構築している(後にダグマーは2枚のブレヒト・ソング集も発表している)。80年代に入ってアメリカに移住したフリスは、若手のプレイヤーとさまざまな形でコラボレイトしつつ、3枚の“ポップ”なテイストのソロ・アルバムを発表、マテリアルのビル・ラズウェル、フレッド・マハーとのロック・インプロヴァイジング・トリオ、マサカや、チェリストのトム・コラとのミニマル・オーケストラ、スケルトン・クルー、或いは種々のガジェットを使用したソロ・インプロヴィゼーションといった複数のフォーマットで、カウ時代以上に大胆な活動を展開していく。彼自身を追ったドキュメンタリー映画のタイトルではないが、まさしく“ステップ・アクロス・ザ・ボーダー”を地で行くフリスの音楽の全貌については、とてもこの場で書き切れるものではない。近年はフレンチ・フリス・カイザー・トンプスンや、ジョン・ゾーンのネイキッド・シティのメンバーとしても活躍している。また、80年代後半には、彼の過去のコンポジションを何でも演奏できるスーパー・ユニットとして、キープ・ザ・ドッグを結成、世界各地で旺盛なコンサート・ツアーを行った、現時点でのフリスの最新作は、フランスで上演されたオペラを収録した『Helter Skelter』。ここではフリスは演奏は行っておらず、作曲と指揮のみ。いかにもフリスならではの複雑怪奇なコンポジションをリアライズしているのは、ケ・デラ・ゲールという全員が非職業的演奏家から成る(中には楽器に触った事さえない者もいたという)14人編成の小オーケストラで、フリスは彼らに独自の音楽教育を施すところからプロジェクトを始め、最終的には舞台上でその成果を披露した。フリスの「教育者」としての側面を窺える、興味深いアルバムである。
 C・カトラーは81年に活動を停止したアート・ベアーズを継承するプロジェクトとして、フリスに代わって元カウのリンゼイ・クーパーをコンポーザーに迎え、ニューズ・フロム・ベイブルとして2枚のミニ・アルバムを発表、クーパーの資質を活かした、きめ細かいアレンジの施された叙情的な楽曲を残した。ニューズ・フロム・ベイブルは84年までしか続かなかったが、更にその後を引き受ける作品がつい最近になってリリースされている。旧東ドイツ出身の謎の作曲家ルッツ・グランディーンとカトラーの連名で出された『Domestic Stories』である。全ての作曲を担当したグランディーンの経歴については不祥なのだが、このアルバムにはフリスもゲストで参加しており、音楽的にもアート・ベアーズの90年代ヴァージョンといった趣がある。カトラーの活動についてもう一方の極を成すのが、R.I.O.の構成メンバーでもあったゲッベルズ&ハルト、シンガーのクリストフ・アンダースというドイツ勢と組んだバンド、カシーバーである。現在まで4枚のアルバムを発表しているが、最初の『Man or Money』で聴かれた激しい即興演奏が、サックスのハルトが脱退してからは、キーボードのH・ゲッベルズによる緻密な曲作りを核とするスタイルに変化している。最新作はカトラーのオリジナルと、トマス・ピンチョンの『重力の虹』からの引用を歌詞に用いた『A Face We All Know』。なお、カシーバーは92年に初来日を果たし、各地でコンサートを行った。その他、カトラーは優れた詩人としてだけではなく、卓越したテクニックを誇るドラマーとしても、複数のバンドに関わってきた。カナダのコンヴェントムのメンバーが中心になったギター・アンサンブル、レ・カトル・ギタリスト・ド・ラポカリプソ=バールや、アメリカのモダン・ポップ・バンド、ペル・ユビュ等のアルバムで、その変幻自在のドラミングを聴くことが出来る。
 キーボード、サックスを担当していたティム・ホジキンスンは、カウ解散の直後から加速度的にアナーキーな活動へと向かっていった。彼はレコメンデッド・レコーズの初期スタッフだったビル・ジロニス等とザ・ワークを結成、カウ時代に培った演奏技術や音楽理論を全面的に否定して、チューニングなしのハワイアン・ギターをかき鳴らしながら、ヒステリックに歌い始めた。デビュー作『Slow Crimes』には、カウでのホジキンスンを知る少なからぬ聴き手が、かなりのショックを受けた。変拍子パンク(!)とでも呼ぶべきユニークな音楽性を有するザ・ワークは断続的に活動を続け、92年には3枚目のアルバム『See』を発表している。また、ザ・ワークよりもロック色の濃い別ユニット、ザ・モームスとしても、アルバムを1枚録音している。近年はバス・クラリネットの即興演奏も積極的に行っており、F・フリスとのデュオ演奏の模様が、映画『ステップ・アクロス・ザ・ボーダー』に収録されている。
 バスーンのL・クーパーは、カウの中ではアカデミックな音楽教育を修了した唯一のメンバーだったが、女性ばかりのメンバーから成るフェミニスト・インプロヴァイジング・グループを組織するなど、既成の枠を越えた活動にも意欲的だった。カウの末期にフリス、カトラーの協力の下に最初のソロ・アルバム『Rags』を録音、その後は主に映画やダンスの作曲家として幅広く活躍している。前述のニューズ・フロム・ベイブル以後はパーマネントなバンドはないが、『An Angel on the Bridge』『Schrodinger's Cat』、映画監督、歌手であるサリー・ポッターのテクストに曲を付けた『Oh Moscow』(A・ハルトや元ソフトマシーンのヒュー・ホッパー等が参加)といった近年の作品群は、いずれも高い音楽的内容を持っている。
 ベースのジョン・グリーヴスはナショナル・ヘルスに参加した後、ソロに転じ、本人の味わい深いヴォーカルを中心とするアルバムを数枚発表した。また、スラップハッピーのピーター・プレグヴァドと活動を共にし、連名で『Kew Rhone』を、両名を含むバンド、ザ・ロッジとしてもアルバムを残している。現在フランスに居を構えるグリーヴスは、フランスの力量あるミュージシャン達をバックに従えた『La Petite Bouteille de Linge』や、マイケル・ナイマンのプロデューサーとしても知られるデヴィッド・カニンガムとのデュオ・アルバムなど、良質な作品をコンスタントに送り出している。確かにカウの頃の過激さは微塵もないが、隅々まで練り上げられたアレンジメントと、全体に漂うジェントルな雰囲気には、数多のシンガー・ソング・ライターにはない、一種の気高ささえ感じられる。
 ここまで見てきたように、ヘンリー・カウ解散後にメンバーが歩んだ道はそれぞれに異なっているが、一貫して言えることは、いずれもカウの達成を単純に発展させるのではなく、寧ろそれを乗り越えてゆこうとしているという事である。これをヘンリー・カウという「過去」にさえ“異議申し立て”を挑もうとする、R.I.O.の精神の成せる技だと言ったら、或いは穿ち過ぎということになるだろうか?

●メイド・イン・USA
 
 アメリカでの展開は、なんと言ってもF・フリスの渡米が大きなモメントになっている。彼は柔軟な姿勢を持った若いミュージシャン達と交流を深め、彼らに有形、無形の影響を及ぼしていった。この意味でもまず紹介しておきたいのが、既に何度か名前を挙げた、メリーランドに拠点を置くキュニフォーム・レーベルである。このレーベルを代表するグループと言えるザ・マフィンズ、ドクター・ナーヴ、カーリューの三組はいずれも、フリスと直接的なつながりを持っている。
 ザ・マフィンズはキーボード奏者のデイヴ・ニューハウスをリーダーとする、70年代より活動していたバンドで、ヘンリー・カウのフュージョン版のごとき独特のインストゥルメンタルを披露する。複雑な構成を持った長い曲が多いが、観念的になり過ぎないところがアメリカ的と言うべきか。彼らはフリスのソロ・アルバム『Gravity』にバンドごと参加して、バッキングを参加した。また、アルバム『185』は、フリスによってプロデュースされている。彼らは現在では活動を休止しており、キュニフォームからは過去の未発表音源をリリースしているだけである。ザ・マフィンズのスタイルを基本的には受け継ぎながら、それを更に(ポスト?)モダンに押し進めたかのような、テンションの高いサウンドで期待できるのが、チェインソー・ジャズ。元ザ・マフィンズのドラマーを含む彼らのアルバムも、キュニフォームからリリースされている。
 同様に初期の2枚のアルバムをフリスがプロデュースしていたのが、ギタリスト/コンポーザーのニック・ディドコフスキー率いるドクター・ナーヴである。何本かのホーンを含むインスト・バンドという点はザ・マフィンズと似ているが、音はこちらの方が一層リズミックかつポップであり、変拍子だらけの展開の早い曲をダイナミックに演奏する。一分前後の短い曲が多く、あたかもコンピュータ・ゲームのBGMを生バンドが奏でているようなニュアンスがあるが、実際ディドコフスキーはコンピュータに造詣が深く、彼自身がプログラミングした音楽ソフトを使用した作品が、ドクター・ナーヴのレパートリーには含まれている。また、ディドコフスキーは新世代のギター・インプロヴァイザーとしても活動しており、ヨーロッパの前衛的なプレイヤー達とも度々共演している。
 そしてキュニフォームの所属バンドの中でもっとも人気があり、プレスからはニューヨークのスーパー・グループとも評されているのがカーリューである。彼らもまた、初期のアルバムはフリスにプロデュースされていた。キックスでリーダーのジョージ・カートライト、スケルトン・クルーのトム・コラ、米国でもっとも早くから活動しているギター・インプロヴァイザーであり、雑誌『IMPROVISER』を自ら主宰するデイヴィ・ウィリアムス、元V・エフェクト(このバンドのアルバムもフリスのプロデュース)の女性ベーシスト、アン・ルペル、複数のバンドを掛け持つ敏腕ドラマー、ピッピン・バーネットという編成で、ジャズ、フュージョン、カントリー、ブルース、プログレッシヴ・ロック等などといった音楽的要素がミックスされた濃密な演奏を繰り広げる。基本的にインスト・バンドなのだが、最新作『A Beautiful Western Saddle』では、これまたフリスの庇護の下に、洗練されたアヴァン・ポップを聴かせるトーン・ドッグスのエミー・デニオをゲスト・ヴォーカリストとして迎え、なんと全曲「歌もの」に挑戦、新展開を見せた。
 キュニフォームの他のバンドにも興味深いものが多い。幾つか紹介しておこう。C・W・ヴルタチェク率いるトリオ、フォーエバー・アインシュタイン。ヴルタチェクはReRよりアンビエント的な作品集を何枚か発表している作曲家だが、このバンドではギターを弾いている。それにベース、ドラムスという“ロック”的な編成を逆に利用して、さまざまな実験を試みている点は、マサカやエトロン・フーとも一脈通ずるものがある。N・ディドコフスキーがプロデュースを買って出た2作目『Opportunity Crosses the Bridge』は全曲ライヴ・レコーディングで、関節の折れたようなインスト・ロックが延々と続く力作である。同じく三人組だが、ピアノ、サックス、パーカッションという編成なのがカナダのミリオドール。全員がシンセサイザーも操り、ユーモラスでいながら時折ドラマチックな盛り上がりを見せたりもする、奇妙に“風刺的”なミニマル・ジャズ・サウンドを持ち味としていたが、どうやら解散してしまったようだ。そしてキュニフォーム最大の問題作と言えるのが、カリフォルニアのU・トーテムである。これは元々モーター・トーテミスト・ギルドと5UU'Sという二つのバンドが合体したものであり、数ヶ国語(日本語含む)のヴォーカルと何種類もの管弦楽器を駆使して、暗い諧謔性を有した非常に難解な楽曲を演奏する。妙な喩えだが、アート・ベアーズの曲をヘンリー・カウが演奏しているようなのだ。いずれにせよフリスの多大なる影響下にある事は間違いないが、演奏技術といい、作曲能力といい、フリスがもたらした種々の方法論を自分たちのものとして咀嚼することに成功している。モーター・トーテミスト・ギルドはドイツのノーマンズ・ランドから、5UU'SはReRより単独アルバムを発表している。キュニフォームはこうした独自のサウンドを志向するバンドをサポートする一方で、R.I.O.のユニヴェル・ゼロや、フランスのエルドン=リシャール・ピナスの過去の名作をCDで復刻していることも付け加えておこう。
 キュニフォーム以外にも、アメリカには重要なバンドが存在している。たとえばコロラド州デンヴァーにはシンキング・プラグがいる。ギターのマイク・ジョンソンをリーダーとする7人組で、最新アルバムの『In This Life』はReRからのリリース、一曲のみフリスがゲスト参加している。U・トーテムが陰とすればこちらは陽ということになろうか、女性ヴォーカルを前面に押し出した屈折度の高い演奏は、正しくヘンリー・カウのアメリカン・ヴァージョンと呼べるものだ。楽器の組み合せや不協和音の使い方にはディス・ヒートからの影響も感じられる。ヴォーカルのスザンヌ・ルイスとドラムスのボブ・ドレイクは、シンキング・プラグとは別にジャンク・ポップ・デュオ、ヘイルも行っており、同じくReRより2枚のアルバムをリリースしている。ニューヨークのオーソトニクスはカーリューのP・バーネット、サックスのダニー・フィニー、ギター/ヴォーカルのレビー・シャープのトリオで、これまでのアルバムは全てフリスのプロデュース。リズミックなポップ・サウンドを基調としており、米国版エトロン・フーといった感じの好バンドである。R・シャープがNYのシミー・ディスクから出したソロには、フリスとトム・コラが全面的に参加している。また、後期のスケルトン・クルーに参加したエレクトリック・ハープ奏者ジーナ・パーキンスの活動も見逃せない。ノーマンズ・ランドより発表された彼女の初ソロは、全編インプロヴィゼーションであり、やや生硬な出来栄えだったが、次にカナダのVICTOから出た『Ursa's Door』では、一転してヴァイオリンやチェロを導入した大掛かりな作品に挑んでみせた。30分を超える表題作は、彼女の作曲家としての才能を証立てる素晴らしい仕上がりである。ジーナがギタリストのクリス・コクランと結成したのが、ノー・セイフティ。最初は完全なデュオだったが、現在では6人組となっている。スイスのレックレックから発表された2枚のアルバムでは、スケルトン・クルーの頃のフリスと共に、NYのニューウェイヴ(例えばトーキング・ヘッズ)の伝統をも引き継ぐような、鮮やかな演奏を聴かせており、今後も期待される。

●ヨーロッパへ

 フランスを代表するR.I.O.グループだったエトロン・フー・ルルーブランは85年に惜しくも解散してしまった。彼らが残した5枚のオリジナル・アルバムは、現在聴き直してみてもまったく色あせることのない、強靭な“新しさ”を誇っている。各メンバーのその後の活動を紹介しておこう。
 ベース/ヴォーカルのフェルディナン・リシャールは、R.I.O.の意志をそのまま引き受ける音楽イヴェント、フェスティヴァルM.I.M.I.を主催し、世界中から前衛的なミュージシャンを召集する一方、複数のフォーマットで演奏活動を続けている。同じ元エトロン・フーのサックス奏者ブルーノ・メイラーとのブルニフェール、A・ハルト他との即興を主とするプロジェクト、ゲシュタルト・エ・ジャイブ、レ・カトル・ギタリスト・ド・ラポカリプソ=バールへの客演などを経て、現在はエトロン・フーを彷彿とさせるフェルディナン・エ・ル・フィロゾフスと、ゲジュタルト・エ・ジャイブの後継バンドFALAQで活躍中である。またF・フリスとフレッド&フェルドを名乗り、秀逸なソング・アルバムを発表してもいる。B・メイラーはエトロン・フーと並行して、フランスではレジ、アメリカではゼロ・ポップのメンバーとしても活動していたが、ソロ名義でも2枚のアルバムを発表、2作目の『Recueil』ではN・ディドコフスキーと共演している。キーボードのジョー・シリオンは他メンバーのアルバムにゲストとして顔を出しながら、シアトリカル・ロック・バンド、アール・ムリュに参加、エトロン・フーに酷似したサウンドを展開している。ドラマーのギィグー・シュヌビエは、元ディス・ヒートのチャールズ・ヘイワード、元V・エフェクト、現フィッシュ&ローゼスのリック・ブラウンと、ドラマーだけのバンド、レ・バトリーを組み、2枚のアルバムを発表(2作目ではヘイワードが抜けてデュオになっている)、更にギタリストのガイ・シャピン、ホーン奏者のレイモンド・ヴァン・サンテン(彼はフレッド&フェルドにも参加している)等、オランダ出身の先鋭的なミュージシャン達と、ロック・バンド、アンコール+グランデを結成し、アルバム『Total Bliss』を録音、これが後にG・シャピンとのデュオ、オクターヴォとなって現在に至っている。オクターヴォのサウンドは、エトロン・フーよりも遥かに攻撃的でヘヴィなものであり、継続的なバンドになることが望まれる。
 ところで、レ・バトリーのセカンドとオクターヴォのアルバム・プロデュースを担当しているのは、スイスのヘンリー・カウとも呼ばれたデビル・メントールのギタリスト、ジャン・モーリス(モモ)・ロッセルである。レックレックに2枚のアルバムを残して解散したデビル・メントールは、おそらく欧州でもっともストレートにカウの影響を受けながら、なぜかカウのシリアスさだけは受け継がなかったという不思議なグループである。デビル・メントールを発展させる形で、ロッセルとベースのジャン=ヴァン・ユグナンが始めたのが、ニマール。メンバーにT・コラ、P・バーネット、更にスロヴェニアの伝説的なバンド、ベニャグラードのリーダー、ブラッコ・ビビッチ・ファニンゲルを擁し、軽快でコミカルなチェンバー・ミュージックを聴かせてくれる。既にレックレックより2枚のアルバムを発表しているが、特に2作目『Voix de Surface』は、アフターR.I.O.屈指の一枚と言える傑作である。ニマールとはまた別に、ロッセル、ユグナン、同じく元デビル・メントールのセドリック・ヴュイユは、ランサンブル・レイエとしても活動している。そこで聴けるのは優雅で上品、そしてどことなくチャイルディッシュなポップ・インストだが、「スケルトン・フレッド」(!)などと題された組曲もあり、やはり一筋縄ではいかない、
 オクターヴォやランサンブル・レイエのアルバムをリリースしているのが、AYAAレーベルである。NATO、GRRRと並び、フランスでもっともユニークな姿勢を持ったレコード会社であり、先に紹介したバンドの他にも、まだまだ面白いアルバムを出している。その魅力については、オムニバス盤『Douze Pour Un』を聴くのが手っ取り早いが、幾つか名前を挙げておく事にしよう。アーバン・サックスのジルベール・アルトマンやG・シュヌビエがメンバーにいるヴィデオ・アヴァンチュール、ザ・ワークのミック・ホッブスの別プロジェクト、オフィサー、こちらはヘンリー・カウのシリアスさを更に突き詰めていったかのようなエルボー、パフォーマー兼歌手のダリア・タザルテス、ZNRやアクサク・マブールを思わせるキュートな音楽を奏でるクリンペライ、キッチュなアヴァン・ポップスを繰り出すルク・ド・ブク等など、どれもこれも相当に興味深いサウンドを有している。AYAA全体に言えることは、概してスケールが小さいこと、演奏力よりもセンスやアイディアで勝負しているものがほとんどであること、そしてどのアルバムからも、おかしなユーモアが感じられるということである。
 もちろん、フランス、スイス以外のヨーロッパ圏にも、R.I.O.から何らかの刺激を受けたバンドは多数存在している。オランダにはT・コラとの共演アルバムが話題となったベテラン・バンドのジ・エックスがいるし、イタリアにはReRより次々と作品をリリースしているマスキ&ヴェノスタがいる。ドイツではダブルXプロジェクトが運営する新興レーベルamfが、アメリカやフランスの動きともリンクした展開を見せている。旧チェコスロヴァキアにはイヴァ・ビトヴァ&パベル・ファイトを初め、デュナイ、ヤブルコンが、ラトヴィアには現在のReRを代表するバンドの一つと言えるZGAや、ZNRやジュール・ヴェルヌを想起させるチックマイヤー・フォルマティオが、旧ユーゴスラヴィアにはボルト・クリシュニクが、ポーランドにはレポルタスが、旧ソ連のレニングラードにはストレンジ・ゲームスが……。

●AND……

 以上、駆け足でアフターR.I.O.の見取り図を描いてきたわけだが、当然ながらここで紹介したバンドは「ロック」と「音楽」に果敢な「異議申し立て」を試みる野心的な音楽家たちのごく一部に過ぎない。とりわけカナダのレーベル、アンビアンス・マニェティークに触れることが出来なかったのは非常に残念である。アンビアンス・マニェティークは元コンヴェントムのメンバーたちを主な構成員とする、一種の家族的なレーベルであり、筆者が個人的にはフリス以来最大の才能と考えているギタリスト、レネ・ルシエ(彼はフリスのキープ・ザ・ドッグのメンバーでもある)が活動の本拠にしている。いずれ場所を改めて詳しく紹介したい。しかしここまでの記述でも、R.I.O.の余波がいまだに激しく世界中で吹き荒れていることは確認できたかと思う。要するに、何も終わってはいないのである。
 「ロック」と呼ばれるジャンル=形式が、この先いつまであるものなのかは、筆者には分からない。だがしかし「音楽」だけは続くだろう。そして「音楽」がある限り、そこには必ず幾つもの「対立(オポジション)」が生まれてくる筈だ。閉じようとする、凝固しようとする「音」を押し広げること、粉砕すること。ROCK IN OPPOSITIONとは、決して何らかの静態的なイズムに収斂することのない、果てなき実践の謂なのである。

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