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言語の習得と運転の習熟ー濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』論

*期間限定公開です。本論は同じく既発表の『偶然と想像』論、書き下ろしの『親密さ』論と併せて、今週刊行予定の単行本に収録予定です。

 村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」は『女のいない男たち』の冒頭に置かれている。六編が収められたこの短編集は、この作品から最後に据えられた書き下ろしの表題作まで、ざっくりと「女のいない男たち」(作者自身が「まえがき」で述べているようにヘミングウェイの短編集のタイトル“Men Without Women”から採られている)が描かれている点が共通しているだけで、他には相互の関係は(おそらく)ない。「まえがき」によると、村上氏は短編集になる小説をまとめ書きしてしまうそうである。「ドライブ・マイ・カー」は最初に書かれた作品だったという。さほど長くはない、ごく平均的な短編小説と言ってよいだろう。

 濱口竜介監督は、この小説を「原作」として、上映時間三時間の映画を撮った。

 映画『ドライブ・マイ・カー』は、複数の意味で、これまでの濱口監督の作品と同様、あるいはそれ以上に野心的な試みである。映画による小説のアダプテーションという観点からも、演劇(がこの作品では重要な役割を担っている)と映画の関係性という観点からも、濱口監督の作品歴/作品世界における位置付けという観点からも、極めて挑戦的な作品になっている。そしてこの挑戦のすべての端緒に、村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」を如何にして「映画」にするのか、というミッションがあったことは間違いない。本稿では主にこの点に焦点を絞って論じてみたいと思う。

 まず先に言ってしまうと,濱口監督は原作の設定や粗筋をかなり大胆に改変している。また、映画には『女のいない男たち』の他の短編の要素も入っている。「シェエラザード」と「木野」である。特に前者は小説内で語られる物語がほぼ丸ごと取り入れられており、映画の前半の「原作」と言ってもいい。濱口監督は共同脚本の大江崇允とシナリオを執筆するにあたり、ごく短い「ドライブ・マイ・カー」だけでは長編映画にならないと判断し、同じ短編集の別の作品から挿話や設定を接ぎ穂するようにして映画を完成させた。だが、それだけではない。『ドライブ・マイ・カー』には村上春樹の「原作」にはまったく存在していなかった映画独自の要素が幾つも投入されており、しかもそれらは、それらこそが、作品の核心を成していると思えるのだ。

 濱口監督は『寝ても覚めても』(二〇一八年)で、柴崎友香の同名小説を映画化している。そのありようについては以前に詳しく論じたことがあるのでここでは述べないがーー興味のある方は拙論「彼女は(彼は)何を見ているのか」(『この映画を視ているのは誰か?』所収)をご一読いただきたいーーそこでの「小説」と「映画」の関係は、小説が文字である(しかない)がゆえの特性を最大限にまで活かした原作を、どうやって映像に出来るのかということと、原作の時代設定を大きく手前にズラすことによって、「東日本大震災以前の物語」を「震災を通過する物語」に変換すること、の二点に集約されていた。しかし『ドライブ・マイ・カー』の場合は、事はもっと複雑である。たとえ「原作もの」であっても映画作家は大なり小なりそこに自分自身の問題意識や主題的な連続性を意識的無意識的に持ち込むものではあるが、この作品にかんしては特に、濱口竜介の作品世界の現時点での集大成という感が強い。『寝ても覚めても』では、原作小説のエッセンスを可能な限り尊重しようとする姿勢が逆接的かつ不可避的に「映画ならでは」を招き寄せていたのだとすれば(そしてそのことが映画の独自性と魅力に寄与していたのだとしたら)、『ドライブ・マイ・カー』においては、濱口(と大江)は村上春樹の小説に依拠しつつも、むしろそこには書かれていなかったことを能動的に読み出すようなアダプテーションを行っている。この点で、今回の濱口たちの試みは、同じく村上春樹の短編「納屋を焼く」を「原作」としつつ、確信犯的に自身の世界に仕立て直してみせた『バーニング』のイ・チャンドン監督に近い。だがチャンドンの力業に対して、濱口監督はより繊細、かつ巧妙である。映画『ドライブ・マイ・カー』は、一種の「村上春樹論」として捉えることさえ可能なのだ。

 原作の「ドライブ・マイ・カー」は次のような話である。「俳優の家福は妻に先立たれて以来、独身を貫いている。あるとき彼は長年自分でハンドルを握ってきた愛車の運転手を雇うことになる。やってきたみさきはまだ二十代半ばの女性だった。家福はみさきの運転で仕事先に通いながら、亡き妻の不倫相手のひとりだった高槻という俳優のことを思い出す」。映画と共通するところを押さえて可能な限り圧縮してみたが、この粗筋もすでに映画とは違っている。小説で高槻は家福がみさきにする話にだけ出てくる、つまり回想中の人物なのだが、映画では実際に登場する。それは家福の妻も同じで、小説ではもうずいぶん前に死んでいるのだが、映画では「音」という名前を与えられており(小説では「妻」としか書かれていない)、物語の前半で重要な役割を演じる。小説では妻は子宮癌でわずかな闘病の末に亡くなったが、映画では自宅マンションでくも膜下出血で突然死しているのを家福が発見する。小説の妻は家福や高槻と同じく俳優だが、映画の音は元女優の人気脚本家である。音がセックスした後にベッドで家福にする執筆中のシナリオの内容が、村上春樹の「シェエラザード」から採られている。映画の原作からの改変点の第一は、妻と高槻を現在形に移動させたことである。音の葬儀が終わると映画はすでに一時間が経過している。そして『ドライブ・マイ・カー』というメイン・タイトルが、そこではじめて表示されるのだ。

 改変点の第二、より大きなそれは、物語の舞台が移動することである。小説では物語の舞台は東京であり、家福は稽古場やドラマの収録に通うためにみさきが運転する車に乗るのだが、映画ではメイン・タイトルとともに、家福は自分で車を運転して広島までやってくる。「広島」という地名は原作には存在しない。音の死から二年が経過している。広島で開催される国際演劇祭で家福はアントン・チェーホフの『ワーニャ伯父さん』を演出することになっている。小説では接触事故がきっかけで緑内障が判明し、運転が出来なくなった家福に修理工場の経営者がみさきを斡旋するのだが、映画では演劇祭の規定で滞在期間中に家福は自分で運転することを許されず、ドラマトゥルク兼韓国語通訳のユンスがみさきを推薦する。小説にも『ワーニャ伯父さん』は出てくるが、それは「明治時代の日本に舞台を移して翻案した『ヴァーニャ伯父』」で、家福は「ヴァーニャ伯父の役をつとめて」いる。だが、映画では家福が演劇祭で『ワーニャ伯父さん』を「多言語演劇」として演出することになり、そのオーディションでアジア各国から集まった俳優たちのなかに高槻がいるのである。これが第三の、そして最大の原作の改変点である。小説でも映画でも家福は『ヴァーニャ=ワーニャ』の台詞を録音したカセットテープをみさきが運転する車の中で聞くが、後者のそれは亡き音が「伯父」の台詞の部分を空けて朗読したものになっている。しかしそれは映画では妻が途中まで生きているがゆえの、こう言ってしまえば付随的な変更と言ってよい。

 整理しよう。まず、濱口監督は原作小説では回想に属する挿話を映画の現在時制に接続し、舞台を東京から広島に移動させ、そこでチェーホフの「多言語演劇」としての上演に向かうプロセスを物語後半の中心に置いた。小説の高槻は妻子のある四十代の俳優だが、映画では女性スキャンダルを起こして間もない若手俳優になっている。原作では家福と高槻の奇妙な「友情」にかなりのウェイトが置かれているが、映画ではその部分は後退し、しかし小説で高槻が口にする重要な台詞はほぼそのまま使われている。だが映画の完全なオリジナルである「多言語演劇」について先に述べるべきだろう。映画の家福は俳優であると同時に気鋭の演出家でもあり、『ワーニャ伯父さん』の前にサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を複数言語で上演する場面が映画では描かれる。では「多言語演劇」とは何なのか?

 そもそも濱口監督は「演劇」と高い親近性を持った映画作家である。『寝ても覚めても』にもイプセン『野鴨』を上演中に東日本大震災が起こるシーンがあったし(原作にはない)、何と言っても『親密さ』(二〇一二年)を挙げなくてはならない。あの映画では一本の演劇作品が出来上がっていく過程と、その実際の上演が組み合わされていた。長期間にわたる演技のワークショップを経て撮影され、ヒロインを演じた無名の四人の女優にロカルノ国際映画祭最優秀女優賞をもたらした『ハッピーアワー』(二〇一五年)や、インタビューや著作で開示される独特なリハーサル方法や演技論からも、濱口監督の演出術が「演劇」から多くのインスパイアを得ていることは間違いない。また、『ドライブ・マイ・カー』の共同脚本と監督補の大江崇允は、関西を拠点に活動していた「旧劇団スカイフィッシュ」出身で、自身が監督した秀作『適切な距離』(二〇一一年)も演技を学ぶ大学生を主人公にしていた(『ゴドー』を映画に取り入れたのは大江の発案だったという)。とはいえ、『ドライブ・マイ・カー』の「多言語演劇」は、こうした事どもと、もちろん繋がりながらも、まったく新たな次元をも指し示している。それは他ならぬ「多言語」ということ、その内実、にかかわっている。

 家福が(おそらく)彼独自の考えによって編み出した「多言語演劇」とは、バイリンガル演劇、トリリンガル演劇、あるいはポリグロット演劇とは違うものである。映画の後半、広島の劇場でオーディションが行われ、高槻を含むキャストが選出され、稽古が始まる。これに先立つ場面で、東京での『ゴドー』の上演で家福は主役の片方を演じているのだが、彼は日本語で台詞を言い、もうひとりの、外見からすると外国人だと思われる俳優は違う言語で喋っている。それと同様に、家福演出の『ワーニャ』でも、日本語、韓国語、北京語、フィリピン語、インドネシア語、ドイツ語、マレーシア語、英語、そして韓国手話が話される。ミーティングでは英語が使用されている。それぞれが、それぞれの使用言語で台詞を言っており、ひとりが複数の言語を使ったり、複数人によって言語が共有されたりすることはない。たとえば二人の人物の場面では、二つの言語が並走する。つまりここには、翻訳という要素が皆無なのである。実際に、このような状況に置かれたとしたら、一方はもう一方が話している台詞を自分の言語では覚えているだろうが、今まさに聞いている言語自体は理解出来ないことがあり得る。ましてや九つもの言語となると、全員が全員の言語をわかるなどということは到底想定し得ないし、映画でも言語間の齟齬や不調が描かれている。それはそうだろう。要するにそこでは自分の言語しか話さないバラバラの九人がてんで勝手に台詞を言っているだけなのだから。だが明らかに、そのような事態こそ、濱口監督が描こうとしたものなのである。どういうことか?

 このことを考える鍵となるのは、韓国手話で話すユナの存在である。彼女はユンスの妻なのだが、そのことを隠してオーディションに応募し、『ワーニャ』でも極めて重要な姪のソーニャ役を射止める。手話は基本的に個々の言語に紐づけられているので、たとえば日本の手話がわかっても韓国手話は理解出来ない。ユナは「多言語演劇」に更なる位相を付与している。声を発することのないユナの手指による台詞は、夫のユンスを除けば、他の俳優たちも、家福も、観客も、ひと言も聞き取ることが出来ない。だがそれでも、ソーニャが語りかけると、ワーニャはそれに応えるのだ、別の言語で。

 翻訳=通訳というもの、あるいは複数言語の習得ということに常に潜在している問題は、では訳せなかったら、話せなかったら、それで終わりなのか、もうどうにもならないのか、ということである。言語的なコミュニケーション、ことばを介した他者同士の関係の打ち立てと育みは、言語=ことばが十全に使用可能でなかったら、中途半端な、場合によってはまったくの無意味な営みになってしまうのだろうか。そう考えればたぶんそうなってしまう。だが家福は、濱口監督は、そうは考えなかった。そうではなくて、ことばを、言語を用いながら、それと同時に私たちは、ことば=言語以外のさまざまな何かを動員しながら他者と通じ合っているのだ。これはけっして、ことばの価値を貶めているのではない。むしろその逆で、つまり私たちが言語だと信じているものだけが言語ではないのだ。てんでバラバラな言語がバラバラなまま並走しながらも、そこにはそれぞれが「理解し得ないことば」をも含んだ、もっとおおきなコミュニケーションが立ち現れ、成立している、そういうことがあるのである。

 家福演出の『ワーニャ』のラストシーンで、チェーホフの劇中、もっとも重要と言ってよいだろうソーニャの台詞は、ユナによって韓国手話で語られる。では観客はそれを日本語字幕で読んで理解しただけなのか。そうではない。韓国語も手話も解さない者にも、彼女の「声」は届いたのだ。このように考えるとき、この映画の「多言語演劇」のありさまは、誰もが理想だとわかっていながら、どういうわけかなかなか実現出来ないでいる「多様性」に向けた貴重なレッスンとして捉えることが出来る。確かにそれは現段階では、一種、ユートピア的な試行でしかないのかもしれない。だがしかし、濱口監督が「多言語演劇」ならぬ「多言語映画」を夢見ているのは確かだと思う。いや、この映画がすでに部分的にはそうなのだが。

 「多言語演劇」は村上春樹の原作小説にはまったく出て来ない、映画の独創である。だがしかし、濱口監督はただ単に自分の問題意識や関心のあるテーマを紛れ込ませたわけではない。それは、みさきのことを考えればわかる。「多言語演劇」の一連の描かれ方が示しているのは、言語というものは習得すればいいわけではない、ということである。語彙や文法も大事だが、そうしたテクニカルな側面よりも、現実に異国の誰かと出会ってかかわりを持つ、ということのほうがきっかけとなる場合も多い。言い換えればそれは、いつのまにかわかるように、わかり合えるようになっていた、ということだ。そしてそれは運転も同じである。小説でも映画でも、家福は最初、みさきのドライバーとしての腕に疑念を抱いている。だが、運転させてみてすぐに、彼女を雇うことに決める。小説の方で、みさきは家福の「運転はどこで身につけたの?」という問いに、こう答える。「北海道の山の中で育ちました。十代半ばから車を運転しています。車がなければ生活できないようなところです。谷間にある町で、あまり日も射さず、一年の半分近く道路は凍結しています。運転の腕はいやでも良くなります」。この台詞は、ほぼそのまま映画でも口にされる。みさきの説明に、家福は「でも山の中で縦列駐車の練習はできないだろう」と返す。「彼女はそれには返事をしなかった。答える必要もない愚問だということだろう」。確かに、生きていくために、必要に迫られて、ということだったのだろうが、みさきの運転技術はそれだけでは説明出来ない。彼女は努力もしたのだろうが、そういうことだけではなく、要するにみさきには何故だかそれが出来たのだ。それはいつのまにか言語が使えるようになっていた、そのことにとつぜん気づく、というのに似ている。そして、ここで何よりも肝心なことは、みさきは自分のために運転しているのではない、ということである。みさきは雇われ運転手なのだ。彼女は誰かのためにハンドルを握り、車を走らせる。たとえば、家福という男のために。

 プレス資料のインタビューで、濱口監督はすでに『ハッピーアワー』に至るワークショップで小説「ドライブ・マイ・カー」を参加者に読んでもらっていたことを明かしている。そして「ぼくが一番心に残った部分は、高槻というキャラクターの言葉を「高槻という人間の中にあるどこか深い特別な場所から、それらの言葉は浮かび出てきたようだった。ほんの僅かなあいだかもしれないが、その隠された扉が開いたのだ。彼の言葉は曇りのない、心からのものとして響いた。少なくともそれが演技でないことは明らかだった。」と評する部分です」と語っている。では、その「それらの言葉」とは、どのようなものか? 原作の高槻の言葉を、映画はおそらくそのまま使用している。やや長い台詞だが、後半だけ引用する。

……でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います」
(「ドライブ・マイ・カー」)

 小説でも映画でも(映画のほうがもっと)、高槻という人物は必ずしも深みのある人物としては描かれていない。小説ではやや浅薄な、映画ではかなり短慮な性格設定であり、そのような人間がふと右のような含蓄のある言葉を口にするところに「ドライブ・マイ・カー」という作品の妙味がある。原作とは異なり、映画では高槻のこの台詞は家福の車の後部座席で語られ、みさきもそれを直に聞いている。そしてこの場面をいわばスイッチポイントとして、映画『ドライブ・マイ・カー』は小説「ドライブ・マイ・カー」から大きく離陸していくことになる。

 言語の習得や運転の習熟は、あるときとつぜんに、いわば奇跡のように成される。努力は大切だし、それだけのことはある。けれどもしかし、忘れてはならないことは、それでもけっしてじゅうぶんではない、ということである。言語による/言語によらない、完璧にして万全な相互理解も、何があろうと絶対にミスのない運転も、この世界には存在しない。高槻が言っていたのは、還元すれば「他人を理解したいのなら自分を理解しようと努める他にない」ということだが、映画を最後まで観れば、この言葉が一面の真理を伝えるものではあれ、濱口監督がそこで終わりだと考えているわけではないということがよくわかる。他者との共振と自己との対峙は、どこまでも往復運動としてあり続ける(べきだし、そうあるしかない)。原作とはまったく異なったラストの展開と、更に付け加えられた驚くべきエピローグとによって、映画『ドライブ・マイ・カー』は村上春樹が「ドライブ・マイ・カー」では書かなかった、おそらくは書き得なかったフェーズへと敢然と足を踏み入れる。それについて述べることはここでは慎んでおこう。その代わりに、このささやかな論のとりあえずの結語を簡潔に記す。

 「自分の車を運転する」ーーそれは「自分の言語を話す」と同義であるーーを「他人の車を運転する」「他人の言語を聞く」と絶えずくるくる廻転させながら生きること。小説にも映画にもメッセージなんて必要ないと私は思っているが、仮にそれを汲み取るとするならば、『ドライブ・マイ・カー』が教えてくれるのは、このようなことだ。ちなみに私は日本語以外は英語が少しわかるだけだし、運転免許は持っていない。

(初出「文學界」)

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