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リーダーのいない世界 そして社会が臨界に達するとき

五つ星運動にとってリーダーは、過去の言葉で、汚い、見当外れな言葉だ。 何のリーダー?それはあなたが知性と意思決定能力を他人に帰属させることを意味するが、 あなたはもはや奴隷でも、物でもない。
G. カザレッジョ

リーダーレスという言葉、日本では聞いたことがないけど、海外のアクティビストと話していると耳にする。彼らははっきりとリーダーがいないことが理想的、先進的だという意識を共有しているし、そういうマネジメントを目指している。誰もが平等でフラットなディスカッションの中で合意をつくっていく、そういう世界だ。

そう、リーダー・・・

大学の頃、アメフトのサークルのキャプテンをやって思ったことはたったひとつ。皆んながキャプテンだったらどんなにいいチームになるだろう・・・。意識のギャップはどうしてこんなに大きくなるんだ?

ルソーは、代表者をもつと人は自由じゃなくなり、もはや人間じゃなくなる、とまで言っている。でも、今の社会ではあらゆる集団に代表者を置く、まるで当然で、それが人間社会では自然なこと、それしか選択肢がないようだ。

そして、責任なるものを代表者に強いる。よく考えるとこの責任という概念はどこまでも不明瞭だけど、その意識は社会で共有され、何か問題があったら、代表者に対してその責任なるものが追求される。一方で、集団の意思決定には、多くの場合、責任のある代表者が大きな権力をもつ。

誰も当然のことだと思って疑わないけど、間違いなくこんな責任システムができたのはそう遠くない昔だと思う。検証はしてないけど、おそらくは金融業の発達とともに、借金返済をより確かなものにするためにできたに違いない。

こういう社会で、中には、重たい気持ちで責任者として振る舞う人もいる。でも、多くは、強権的な立場を利用して私利をえる一方で、いざとなったら、平然と責任逃れの見苦しい対応に終始する。特に、日本人の地位への執着ぶりは異常だ。そんなに美味しいのかな?(笑) 
武士道、ハラキリの潔さをもつリーダー、今まで出会った事ある?
権力を行使する事は、とても怖い事で、いつも自制しなきゃいけない。そして、その乱用は自滅を招く・・・、そんな事知ってるリーダー、いるのかな?

社会人になって目の当たりにしたのは、何か問題が起こったら、弱い人が切り捨てられるということ。上層にいる人は自分の立場を守ることだけに汲々として、弱いものを切って見捨てて少し言い訳じみたこといいながら、知らんぷりする。本来、リーダーとは、弱いものを守ることが存在意義だろうに、残念ながら、そういう人がいた記憶はない。

それから私は33才の時に、会社やめて総選挙に出て、しばらく政治活動をした。まさに公人になって社会のリーダーにならないといけないから、誰から言われたわけでもないけど「自分の言動の中に、エゴ、私利私欲は本当にないか?」といつも自問自答していた。でも、周りにそんな政治家はいなかったと思う。彼らは、とても国民を見ているとは思えず、やはりただ自分の地位の確保に汲々としていた。

そして、リーダーを中心とした権力のピラミッドの中で、多くの人たちは、考えること、意見をいう事を放棄して、ただ日和見な対応をとる。権力にとり入って、私利をえようとする人は多い。一方で何か問題が起こった場合は、自分は関係ないという素ぶりをしながら、倒せそうだと思ったら、スケープゴートをつくって叩き落とす。

さて、

2011年5月、スペインでは、全土52都市で自然発生的なデモが起こった。当時のスペインは、アメリカのサブプライム危機の影響を受けて、不動産バブルが弾け、失業率が20%を超え、若者の失業率に至っては40%を超えていた。政府は銀行の救済のために巨額の公的資金を投入したために財務状況が悪化、国債の格付けが下がって危機的な状況に陥った。緊縮財政によって公務員は削減、給与もカットされ、年金も減額、教育費や医療費にまでメスが入って、運営に支障をきたす状況に陥っていた。日本で反緊縮とかよくわかんないこと言ってる人いるが、これが緊縮の現実だ。今の状況だと、やがてくるかもしれない。

デモに参加した人たちは、今までにないとても大きなことが起こっていると一様に感じたという。この運動を既存の組織はどこも支持しなかった。ただ普通の人たちが、SNSを使って呼びかけただけだった。そしてこれ以降、人びとの意識は明らかに変わった。特に、マドリードの中心であるプエタ・デル・ソル広場では、主に仕事のない若者たちがそこに泊まり込んで広場を占拠し、そこでの話し合いからダイレクトデモクラシーの運動が起こっていった。そして、これが先駆けとなり、デモは世界のあちこちに飛び火し、およそ半年後にウォールストリートの占拠運動がおこっている。

2016年秋には、韓国で朴槿恵の辞任を求めて多くの人がデモに参加した。辞任するまでのおよそ半年間、厳冬のソウルで毎週末、膨大な数の人々がデモを続けた。ピーク時には1日200万人以上、延べ1700万人もの人が街にくりだしたと言われている。冬のソウルは本当に寒いが、単一のテーマのデモとしては世界史上最大と言える。

長い軍事独裁との闘いで韓国では本当に多くの市民が犠牲になってきた。1987年、独裁を終わらせたデモの時でも、警察署や車両などが破壊されたが、朴槿恵退陣の運動では、暴力行為は皆無と言ってもよく、だから誰でも参加できた。デモの運営にあたったのは、「退陣行動」という2000以上のNGOの連合体で、徹底して「平和デモ」を呼びかけ、簡易トイレやステージの運営、広報や清掃などの環境整備に徹し、普通の人たちが自然に自発的に参加できるようにした。もちろんリーダーレスに徹して、政治家を舞台にあげて喋らせないという原則もあった。

そして、2018年、フランスの地方にすむとある女性がchange.orgで燃料税に増税に反対する署名活動を始めた。これがきっかけとなって、11月末の土曜日、フランス全土でデモが起こった。驚くべきは、これから延々と毎週土曜日にデモが続けられたことだ。私はちょうど1周年に当たる日に、リヨンで彼らの活動に参加して、生まれて初めて催涙弾の洗礼を受けた。(笑)
みんな煙吸ってむせるイメージだろうけど(自分はそうだった)、いやいや内臓がえぐれるような痛みがする。10メートルくらい離れた場所に落ちてそれだから、目の前に落ちたら、ほんと死ぬかもと思う。

1年経って、さすがに運動は下火になったとは言え、フランス政府は、お茶を濁す程度の対応をするだけで、広がる貧困問題に対してなんら抜本的な対策を取らないから、彼らの怒りはちっとも収まっていない。革命の発祥の国の市民は、大義は我われにあると悠然と自在に抗議活動をしていて、随分と日本と様子が違う。

「どうやったらこんな運動を起こせるんだろう?」ってメンバーの友人にきいたら「俺も知りたい」だってさ。みんなが予想外なんだ。

彼らは、長い運動の中でリーダー然と振る舞おうとする人を排除して、リーダーレスであることに徹した。そのため過激派の暴力行為を抑えられず、メディアがそれをクローズアップしてイメージダウンに繋がった側面はある。でも、誰かが統制することははっきりと拒んだ。

もちろん、冒頭で紹介したイタリアの五つ星運動も、リーダーレスだ。創設者の圧倒的なカリスマ性、存在感のために誤解されるし、敵対するマスメディアもそう描こうとする。でも、彼らは、社会のピラミッドを解体すると公言し、実際の運動の運営もフラットなものだ。

こうして実際、世界のあちこちにリーダーレスな世界を築こうとする運動がある。みな今の社会の問題を根源的にみつめて、この原則にたどり着いている。普遍性があるし、私たちも未来社会のひとつの指針としたらいいと思う。権力者たちのボス猿争い、マウントごっこがいつまでも続いて、それにどう乗ったら自分が得か?なんて世界は、もうウンザリ、意識を変えたほうがいい。最初はどんなにいい志をもっていても、権力の階段を上るうちにリーダーは例外なく腐る。そもそもシステムが悪い。いいリーダーなんて永遠に現れないなんて、もうとっくに歴史が証明している事だろ?

私の人生の中で一番悲しい思い出のひとつは、イラク人質事件の時、自衛隊のイラクからの撤退を要求するデモを呼びかけてもほとんど人が集まらなかった事だ。でっち上げの「大量破壊兵器」疑惑で始まった戦争、それで多くの罪のない市民が犠牲になった。それに、アメリカに要請されるがままに、後に憲法違反の判決がでた自衛隊派遣を実施、そのお陰で、NGOの人たちが誘拐され、彼らの命と自衛隊の撤退が取引された。それに対して、メディアも与野党問わず政治家もこぞって「自己責任論」を広め、自衛隊派遣を正当化し、国民を見殺しにしようとした。この国の言論は心底腐ってるし、まぁ、今さら政治家は言うまでもない。
結局、日本のNGOの説得に応じて無条件に人質を釈放したテロリストたちだけがいい人だった。私は、疲れ切って永田町から赤坂のカプセルホテルまで歩いて、ベッドで絶望に打ちひしがれて、ボロボロ泣いた。

原発反対のデモに大勢の人が集まるのを見て、実は私は悲しかった。人の事はどうでもいいけど、自分に火の粉が降りかかりそうだと、さすがに動くんだね。

まぁ、こんな風に日本人がどんなに去勢され、自分で考える事を放棄し、権力に従順で、ソーシャルなことに無関心でも、同じ人間、いよいよ暮らしがなりたたなくなったら、自然発生で動きがでてくるだろう。かつてない経済危機がくる、そう遠くないかもしれない。

そう、その時は、リーダーレスで行こう!!


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