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ヒューマンなマネーシステム MMTを超えて

通常、異端視される学説はそもそも大きく取り上げられないから、一般に広く知られることはない。なぜMMTが脚光を浴びるのだろう?と不思議に思っていた。ましてや、今や、緊縮財政の総本山ともいえるIMFまでが事実上の教義の凍結を宣言するような時代、今、世界で緊縮を叫ぶ声はどこからも聞こえない。私は、もちろん積極財政には賛成だが、こういう状況の中でのMMTの登場は何かとても違和感を覚えていた。

いつもどおり「流行り物はスルーする」というスタンスをキープしていたが、かなり時間もたってコロナの収束が見えて新たな時代に入ろうとする今、いい機会だから、MMTを検証しながらマネーの真実についてわかりやすく伝えようと思う。そしてヒューマンなマネーシステムをわかりやすく説く。特に今回、MMTの論客に加えて、スイスの通貨改革の国民投票の理論的な支柱となったヨセフ・フーバーの『ソブリン・マネー』にあたりながらわかりやすく視点を整理してみる。ソブリン・マネーは邦訳がないが、包括的にマネーやマネー思想の歴史を紐解きながら、具体的に銀行がどうやってマネーを処理しているかまでかなり詳しく書かれている。


ああ、反緊縮

ステファニー・ケルトンを読んで感じるのは「いつも財政均衡をもちだして何もしない政府関係者」に対する強い憤りだ。そもそも政府がマネーを発行しているのに、税金と政府支出のバランスを取る必要があるのか?という根源的な疑問、それは間違っているという確信。それに対しては、とてもシンパシーを感じるし、まったく正しいと思う。さらに、MMTのアドボケーターたちの目標とするのは完全雇用の実現だ。そのために可能な限り財政出動をして失業者に直接仕事を提供する。行政が提供する仕事は人や環境のケアにすべきで、実際の運用では、なるべく現場主導でやる仕事を決めることで、本当に役に立つ仕事をする。その人たちに支給される賃金は社会の最低賃金となって、そのお陰で有効需要が生まれて好景気になって、もっと良い仕事が見つかったら、そっちに移ればいい。失業対策として公的機関が供給する仕事は景気のバッファーの役割をはたす。それによって生まれる公的債務の大きさは問題ではない。なぜなら、自国通貨をもつ国が自国通貨建てで発行した国債がデフォルトすることはない。懸念事項はマネーサプライが過剰になった結果としておこるインフレーションだが、それは、物価が上がり出したら、増税してマネーを吸収することで落ち着かせればいい・・・。

MMTの主張を受ける形で日本で「反緊縮」を訴える人たちが増えたことにまず私はビックリした。そもそも日本には緊縮財政の経験はない。IMFやEUが財政支援と引き換えに要求する緊縮財政とは、公務員の賃金カットや解雇、医療費や教育費のカットだ。それは緩やかなデフレとは比較にならないほどの大きな影響を経済に与え、特に多くの若者が職にありつけなくなる。
最近、もうひとつビックリしたのは、公的債務残高のランキングを見たら日本を超えている国があったことだったが、それは、ベネズエラとスーダンだった。バブル崩壊ごろから急激に増えだした日本の公的債務は、やがて世界の歴史的な記録を更新し続け、ギリシャだって真っ青なぶっちぎりのナンバーワンだった。しかし、公務員も医者も学校の先生も、いまだにその地位が脅かされる日が来るとは誰も思っていない。

日本経済の問題点が緊縮であるはずがない。この国の一番の問題は、政治家も役人も税金の使い道に裁量権を発揮することこそ自分の仕事だと大いなる勘違いをしていることだ。自分達と関係のある業者に補助金を渡して有形無形のキックバックをもらうことばかり考えている。コロナ下の経済支援でさえ、この性根は遺憾なく発揮されていたのは誰の目にも明らかだった。こうした態度のお陰で政府が投じる補助金が普通の人たちの暮らしまでまわってこない。直接給付は経済には一番効果的なのは明らかだが、個人ではキックバックがもらえないから、政治家も役人も一番やりたくないことだ。

そもそもこれまでつくってきた膨大な借金は、いったいどこへ消えてしまったんだろう?「反緊縮だ!もっとバラまけ!」とさけんで、いくらばらまいても、結局一部の人たちに溜め込まれるばかりだ。まずは、この構造を解体することこそ真剣に考えるべきだ。例えば、ヨーロッパの多くの国では、農家に対しては、まるで公務員のように所得を保障することで、市場で農産物の価格が低迷しても安心して食料生産をつづけられるようにしている。そうすることで初めて高い食料自給率を達成できる。農業予算を土木工事やら機械設備導入の補助にいくら当てても、食べ物をつくる人たちが安心して暮らせないようでは、食料生産は持続可能にならない。そんな、ちょっと考えれば誰でもわかることさえ、実行されていない。

MMTの主張する「自国通貨建の国債はデフォルトしない」と言うことについては、そう、確かに政府がマネーを発行すればいいから事実だ。ただ、今マネーを発行するのは中央銀行だ。中央銀行の株の過半数は政府がもっているからそれは政府の一部といえる。しかし、日本含め多くの国では財政ファイナンスという、中央銀行が政府へ直接融資することは法律で禁止されている。もちろん、法律は変えられるが、現状では、中央銀行がマーケットでどこまで国債を買い支えるかということになる。日本の国債のほとんどは国内の金融機関がもっているから大丈夫だという意見もよく聞くが、誰かが投げ売りして暴落が始まっても、投資家たちが巨額の含み損を抱えてまで国債を「鬼ホ(ールド)」するだろうか?確かに素晴らしい愛国心だが、営利目的の私企業の行為としては単なる背任だ。そもそも日本の銀行の株も外資がたくさんもっている。そして、彼らが債務超過に陥ったら、「最後の貸し手」なはずの中央銀行が助けてくれるだろうか?もし本当に彼らが最後の貸し手なら、そもそも過去に銀行の倒産は1つもおこっていないはずだ。ついでに、為替レートはどうなるだろう?変動相場制なら外貨準備に影響ないといっても、通貨が暴落して輸入品の価格が跳ね上がったら、生活必需な物資の多くを輸入に頼る日本にとっては冗談ではすまされない。
最後に、忘れてはならないのは、1000兆円の借金の金利は1%で10兆円、たった1%の利払いに4%の消費税が必要だ。バブルの頃、誰もが株と土地が値下がりすることはないと疑いをもたなかったが、金利の上昇と国債の暴落はありえないというのが、今は一番危険だろう。

そもそもマネーは自然物ではない

私たちは、おカネは人間社会の営みの中で自然に生まれて発展してきたものだと思わされている。これは実は商品貨幣説という考えで、アダム・スミスが『国富論』の中で説明してから定説となった。原始社会の物々交換の不自由さを克服するためにおカネが生まれたのだとスミスは言ったのだ。この刷り込みのお陰で、マネーの仕組みに疑問をもってその制度を見直すなんてことを考える人は今でも皆無に近い。しかし、実際のところ、そもそも原始社会では物々交換が行われていないとデヴィッド・グレーバーら人類学者が指摘して、この商品貨幣説は今ではその土台から崩れている。余ったものは交換するのではなく、無条件にあげるのが本来の人間の性質だ。

20世紀初頭、スミスの説は間違いで、本当はMoney is a creature of lawだと断じたのが、ドイツの経済学者ゲオルク・フリードリヒ・クナップだ。彼は、チャータリズム(Chartalism)を提唱したが、chartaはラテン語でトークンやチケットを意味する。日本語では、表券主義、あるいは、貨幣国定説や貨幣法制説と言われている。法の産物だから、当然、マネーのルールは時代とともに変わってきた。チャータリズムは経済学の中では今だに主流とは言えないが、MMT主義者もフーバーもこれを支持している。でも、彼らのチャータリズムに対する見解の違いがとても興味深い。

マネーは負債か?

MMTの中心的なアドボケーターであるランダル・レイは言う

通貨は、納税その他の国家への支払義務の弁済手段となる政府の負債である。「債務なし貨幣」という言い方は論理の飛躍や誤解に基づいている。・・(略)・・貨幣はすべて債務証書であり、支出するか、貸し出すことで創造される。

一方、フーバーは、世界最古と言われるリディア王国のコインを引き合いに出してこれを酷評している

「マネーは信用」とか「マネーは借金」というのは、机上の会話では気の利いた言葉だが、文字通りに受け取れば、単なるナンセンスだ。歴史的に見て、マネーよりもずっと前に信用や負債が存在していたことが、なぜマネーが信用や負債であることの「証拠」になるのだろうか?・・(略)・・貨幣と信用が別個に存在することは、2500年前のコイン通貨の時代には明らかだった。・・(略)・・貨幣の製造とその真のシニョリッジ(通貨発行益)は、決して債権債務関係に結びつくものではなかった。・・(略)・・支払い手段であるマネーは、単位である通貨とは違うし、投資やマネーの貸し借りによって形成される資本とも違う。

私たちの日常生活を例に取っても、お金のやりとりの中で「貸し借り」が占める比重は決して大きくない。現在、確かにすべてのマネーは負債として発行されているが、それは、政府の債務を共同で引き受けるために、銀行の連合体として中央銀行が設立されて以降のことだ。政府がそこにマネーの発行を委託した。その歴史はそれほど古いものではないが、だから今は、銀行という金融業者だけがマネーを発行していて、そのためにマネーは負債だという誤解が生じている。

かつては領主たちは、金属でマネーをつくって発行することで、製造コストと貨幣価値の差額を利益としてそのままえていた。そのコインには数字が刻まれておらず、コインの価格は領主の一存で決めることができたから価値も変わった。しかし、金属でマネーに権威をもたて流通させるのことには量的な限界があった。さらに、貴金属そのものに利用価値があるために、コインが溜め込まれたり削り取られて転用されたりしてマネーの流通に支障がでてくる。やがて貴金属の純度を下げることで対応するしかなくなるが、そうすると価値が下がり、信用が低下する。

いつからか、金属貨幣よりも商人や両替商の決済ネットワークの方が力をもつようになった。帳簿上の貸し借りや証書のやり取りで対応する方がより大きな取引ができる。特に戦争の時には遠隔地で巨額の決済が必要だ。王たちは彼らから借金をする必要に迫られた。しばしば、徴税権がその担保となった。

MMTの提唱者たちが、なぜマネーは負債だと声高に主張するのかが分からない。もちろん発行されたマネーはバランスシート上は負債として計上されるが、それはどこにも何も負っていない。貸付金が返済されたら数字が消えるだけだ。MMTの意図が、今の金融システムを維持することだとしたら、それは、まったく感心できない。私たちがここで再確認するべきは、マネーは必ずしも負債として発行する必要はないということだ。

マネーは民間銀行がつくっている

ランダル・レイはいう。

「マネー創造」ビジネスは、多くの人にとって非常に理解しがたいものであり、錬金術や詐欺のようにすら感じられる。銀行が融資をするだけで、預金は創造されるのか?政府が支出する(貸す)だけで、現金通貨や中央銀行の準備預金は創造されるのか?無から貨幣を創造するとでも言うのか?答えは、もちろん「イエス」である。

こう言いながら、続ける。

政府は大きくなったが、我々が望む規模の経済活動に必要なだけのマネーを供給するには不十分だ。さらに我々──少なくとも米国人──は、貨幣経済化された経済活動のすべてを大きな政府の手に委ねることに懐疑的である。民間金融機関は、我々が民間のイニシアチブに委ねることを好む経済活動の多くに必要な貨幣を創造しているが、それを抜きにして、現代の貨幣経済化された資本主義経済を運営することはまったく考えられない。

1929年の大恐慌以来、貨幣改革を訴える一部の経済学者たちの共通認識は、問題の根本には民間銀行によるマネー創造(信用創造)があるということだった。商業銀行が自分たちの利益のためにマネーを発行するから、経済がバブルとその破綻を繰り返し、その結果、私たちの現実生活にまで大きなダメージをもたらす。

誰もがおカネを使う前に、何らかの手段でそれを調達しなければならないが、なぜ、銀行だけが、印字するだけでマネーをつくれるのか?」実は、銀行は作り出したマネーを融資だけじゃなく何にでも使える。この問題を正さないとよい社会はできないというのが、フーバーたちの主張だ。

マネー史をひも解くと、そもそも19世紀までは、それぞれの銀行が銀行券を発行していた。ちょっと想像しにくい世界だが、お陰で銀行券の乱発もあったろうし、銀行の信用度合いでその価値も違ったことは推察できる。それが社会で不都合が多かったから、やがて中央銀行だけが銀行券を発行するという法をつくった。例えばスイスでは1892年に政府提案による憲法改正で、憲法にこの条項が盛り込まれている。これは、チャータリズムの進化だが、不完全だった。今では、現金の流通量はわずかで、圧倒的な量を占める民間銀行の預金通貨は、彼らが自分たちの利益のために発行している。本来、銀行券だけじゃなく、すべてのマネーを国の機関が発行するのがチャータリズムのはずだ。

この主張は、どうだろう?

当然のことだが、中央銀行はすべての銀行の口座をすでにもっていて融資もしている。民間銀行は中央銀行の口座においた資金を準備金としながら、融資をする時は貸付先の口座に印字をしてマネーをつくる。実は私たちの銀行口座でのやりとりは、中央銀行のものとは完全に分離している。この部分準備じゃなくて、民間銀行は全額融資で資金調達してから貸し出す方がより健全な金融ができるという意見は、マトモ(decent)と言えるのではないか?
いうまでもなく、民間銀行が中央銀行から資金を調達することは、政府に経済を任せることでは決してない。銀行の数は決して多くないし、資金を全額融資で調達するといっても、中央銀行にあるそれぞれの銀行の口座の印字のケタが1つ2つ増えるだけだ。

かつてリチャード・ヴェルナーは、銀行融資における日銀の窓口指導の実態を詳しく調べて、バブルの発生と崩壊は日銀の仕業だと言ったが、中央銀行は、銀行の融資をこと細かく管理すべきではない。ただ、バブルが起きないように、かつ実体経済に不足なく資金が流れるように総枠で管理することは、大切なことだ。そして、それはそれほど難しいことでもないし、経済を萎縮させることでもない。

もちろん、国がすべてのマネーを発行することは、計画経済になることを意味しないし、それで政府予算が増えるわけではないから、大きな政府も意味しない。さらに、アメリカの国民は世界の他の国民と同様に、今すでにすべてのマネーは政府が発行していると勘違いしているだろう。信用創造の事実を知る人は金融業界にはある程度いるに違いないが、それだけだ。スイスでは、民間銀行の信用創造の禁止を憲法に盛り込む国民投票をやったが、国民の過半数は、もともとすべてのマネーは中央銀行が発行していると思っていたので、そもそも、その投票の趣旨が理解できなかった。3ヶ月ごとに憲法改正の国民投票をやっているスイスの人びとは、俗にいう「民度」がかなり高いと感じるが、それでもこれが現実だ。でも、みんなが信じ込んでいるこの幻想、国がすべてのマネーをつくることを法として明文化することに本来異論はないはずだ。

MMT派は、税によるマネーの還流こそマネーがマネーとして機能する根幹だという。そして、積極財政によるマネーサプライの過剰とインフレの発生は増税によって調整されるべきだとしている。しかし、中央銀行がすべてのマネーを発行すれば、マネーサプライの調整は、銀行への融資残高の調整で済む。もちろん、社会にカネが余ってインフレがおこるのだから無理に貸しはがす必要はない。

歴史上、税は常に強制力をもって徴収されてきた。有史以来、税金は払わないと罰せられるものだったから、増税を快く受け止める人は皆無に近い。歴史を遡ると、王や政府が勝手に徴税できないようにするために、課税するには議会で法律を通過させなければならないというルールになった。そのルールは大事だと思うが、MMT派はどう考えるのだろう?増税によるインフレ抑制は、実務的には本当に課題が多いに違いない。

文明、債務と奴隷制

人類最古の法に類するハンムラビ法典には、支払い不能に陥った債務者は、その家族ともども人質にとって強制労働をさせてもかまわないと書かれていた。そもそも余っているものしか人には貸せないのに、どうしてこんなルールができたのだろう?

人間が他の動物と違うのは、文字やマネーや法を作り出して文明を築いたことだ。

しかし、ルトガー・ブレグマンが言うのは、最初のコインは税金を効率的に徴収するためにつくられたし、最初の文字による文章は、未払いの負債のリストだった。ハンムラビ法典は、奴隷の脱出を防ぐための罰でいっぱいだった。

そう、文明はずっと奴隷制とともにあった。

ホモ・サピエンスが生まれて20万年、長い間人間は、移動しながら狩猟採集をして暮らしてきた。その間、戦争をした痕跡はない。働く時間は短く、衛生環境もよく、ピラミッド型の支配構造もなかった。物ごとはみんなで話し合いを尽くして決められた。リーダーは緊急時、タスクが与えられて一時的に存在したが、それで優越感をもったものは社会に災いをもたらすとして排除された。

しかし、最後の氷河期が終わってから、人間社会には大転換がおこった。
ジャンジャック・ルソーは言う

地面の一部を囲んで、「これは私のものだ」と言った最初の男からすべてうまくいかなくなった。

自然状態の人間がおよそ思いつきそうにないことをなぜ主張しだしたのだろう?

人間は、定住して農耕をはじめたことによって、重労働を担う奴隷が必要になり、武装して奪い合いをするようになった。やがてリーダーが武力を独占して、強固な支配システムがつづくようになった。戦争に敗れたり、債務が返済できなくなったものは奴隷にされた。余ったものを金利をつけて貸し出すという制度の目的は、奴隷をつくるためだった。

デモクラシーの発祥の地と言われる古代アテネでは、人口の3分の2が奴隷だった。プラトンやアリストテレスは奴隷制のない文明は想像できなかったし、トーマス・モアが描いたユートピアでさえ、奴隷は、待遇が改善されただけだ。そして、万里の長城をつくった本当の目的は、民が逃げ出せないようにすることだった。
実は、こうした状況はつい最近まで続いた。フランス革命まで、ほとんどすべての国が強制労働で機能していた。世界人口の少なくとも4分の3は領主に束縛されて暮らしていた。人口の90%以上が地面で働き、80%以上が悲惨な貧困状態で暮らしていた。直近のわずか200年だけ、テクノロジーの驚異的な進化で、文明は人類に恩恵をもたらしたように見える。しかし、社会制度はいまだに過去を引きずっている。奴隷も社会のルールとしてはなくなったが、マネーシステムが、いまだに事実上の奴隷制を維持している。

ああ、ブルシットジョブ

グレーバーから単刀直入な引用だ

イギリスのYouGovによる世論調査では、自分の仕事が世の中に意味のある貢献をしていると確信している人間は、フルタイムの仕事にある人びとの50%しかおらず、37%の人びとは貢献していないとはっきり感じていた。スコーテン&ネリッセンによって実施されたオランダの世論調査では、後者の数値は40%まで高まった。

ずばり、あなたはどう感じているだろう?

人との関わり合いに喜びを見出せば、そもそも役に立たない仕事でもやりがいを感じることはできる。しかし、事実から目を背けようとしても、実は、あなたの魂は、悲鳴をあげているかもしれない。自分の仕事が本当に役に立っているかどうかは、やっている本人はわかる。そんなことに人生の一番多くの時間を費やしてしまう。
おカネのための仕事をするために、私はうまれてきたんじゃない
分かっていても、それでも続けてしまうと、実は、あなたの魂は傷ついている。

経済学者という職業はうまれて100年ほどのようだが、そもそも現実社会ではない仮定をもとに演習して評論する仕事は、実際に社会に役にたったことがあるのだろうか?まず、人間=労働力という定義こそ、改めるべき間違いだ。

ケインズの穴掘り物語以来、政府が景気対策だ雇用対策だといって税金や借金を投じて人を拘束してきた。今のケインズの信望者たちは、「ケアの仕事ならいいはずだ」と言って、すべての人を拘束しようとする。テクノロジーが発達して今や1人が100人分の食料をつくれる時代になっている。本当はあらゆるものが過剰で、今の社会に、足りないものは何もない。ケインズが予測した週15時間労働の時代は、技術的には可能なのに、なぜまだ人びとを長時間拘束するのか?

ブレグマンは人間は善なる存在だと言うことと、善なる人間社会が失敗に陥るパターンを解説した。みんな生まれて間もない頃は、見返りを求めずに人を助け、不平等を嫌う存在だ。ケインズがいうように無駄な穴を掘らせて人を発狂させるのではなく、黙ってカネを出してすきなことをさせても、社会は悪くならないことは明らになっている。人びとは、マネーの呪縛から解き放たれ、社会に思いやりがあふれ、ひとりひとりの創造力が遺憾無く発揮されるようになる。はるかに人間らしい社会になる。


ヒューマンなマネーシステム

マネーは法の産物だ。でも、現実に銀行が貸付の際の印字でマネーを創りだすことに対して明文化された法律はない。昔から続く習慣が容認されているに過ぎない。マネーはほとんどの人にとって日々一番の関心事に違いないが、それについて文章化された法があまりに少ない。それもまたマネーは自然物だという刷り込みを強固なものにしている。

でも、マネーは確かに私たちの社会のルールなのだ。
だから、考えてみよう!
私たちの社会には、どんなマネーのルールが望ましいのか?

スイスでは、book moneyも中央銀行だけが発行するというルールを市民たちが憲法に盛り込もうとした。それが実現すると、これまで民間銀行が信用創造したマネーはすべて中央銀行からの借り入れに変換される。

19世紀は金本位(Gold standard)の時代だった。ゴールドとの交換を保証するするとこで、紙切れに信用をもたせた時代もあったのだが、ニクソンショックでその時代に幕がとじられてから、もう50年も経っている。今のマネーにはなんの裏付けもないが、誰もそれを信用できないとは言わない。だが、実体経済の規模をはるかに上回る銀行のマネーが発行される一方で、多くの人は、長時間拘束され続けても、日常生活をおくるために十分なマネーが回ってこない。事実上、奴隷制は続いている。

そう、人を労働力と位置づけるのはもう終わりにすべきだ。多くの場合、学歴という偏った価値観を尺度にしながら、人間をランクづけをして賃金を決めているが、学歴は本来人間がもつ知恵とは程遠いものだ。そういう制度は人間をひどく傷つけている。
私たちが再確認したらいいのは、どんなにテクノロジーが発達しても、経済の中で需要をつくるのは人間だけだということだ。私たちが誰かの役にたつ喜びを味わえるのは、誰かが生きていて、何かを必要とする、何かを欲するからだ。そう、つまり、私たちは生きてるだけで十分存在価値があるということこそ、再認識すべきだ。

CHダグラスは、モノの生産は、はじめに製造プロセスをつくった先人たちの貢献が大きいので、そこからもたらされる利益は国民が等しく享受すべきだとして国民配当を提案したが、フーバーはこの概念を持ち出して、毎年のマネーサプライの増加分、年率2-3%程度は配当として国民がシニョリッジを享受するのは望ましいと言ってる。例えば、日本のマネーサプライが1300兆円として、その3%はおよそ40兆円、およそ3ヶ月間すべての国民に10万円のシニョリッジを与えられる。どうだろう?

本当は、まずは無条件に人の暮らしに対してマネーを発行して、それで経済をまわすのがベストだ。金額はまずは生活保護費の全国平均が妥当だろう。マネーシステムを人間本位(Human standard)にするのだ。

もちろん、それによって誰もが賃金労働の義務から解放され、人生の時間の使い方はあなたが自在に決められる。引き続き賃金労働をして収入を上乗せできるが、その条件は働く側が優位にたって決められる。もちろん、もう会社でパワハラができるはずもない。

MMTがいうように物価が安定していれば、マネーサプライはどれだけあってもいい。日本のマネーサプライはGDPのおよそ2.5倍もあるがそれでもデフレから抜け出せない。一方で、香港のマネーサプライはGDPの4倍だが、それで酷いインフレに悩まされているわけではない。長い間、経済学では、物価は需要と供給が折り合ったところで決まると言われてきたが、それは今の現実とはかけ離れている。今は、生産力があまりに過剰で、物価はただ人びとの購買力で決まっている。そして、たとえ過剰なマネーサプライが資産インフレを起こしても、私たちの生活にはほとんど影響がない。住宅コストの高騰は問題になるが、家もすでにあきれるほど供給過剰だ。

マネーサプライは、税金による調整より、民間銀行の信用創造を禁止したらより容易になるというのは、ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)は総額でGDPの3割程度に過ぎない。国民負担率は国によって異なるが、GDPの4−6割。財政から考えたらUBIは巨額だが、マネーサプライ全体から考えると決して多くを占めない。

また、マネーサプライの調整方法として、マネー自体の価値を減価、償却するのも良い方法だ。かつてシルビオ・ゲゼルが提案したように、一定のマイナス金利を課すことで、マネーもあらゆる自然物と同様に時とともに消えていくというのもとても良いシステムだ。ベルナルド・リエターがいうように、マネーの回転速度が増すと経済が活況になるだけじゃなく、人びとはより長期的な投資にマネーを向けるようになる。もちろん、それでマネーから貯蓄機能はなくなるが、そもそも、生きていくことが無条件に保障されても、カネを溜め込むことに情熱を注げる人間がどれほどいるかは、おおきな疑問だ。いずれにせよ、貯蓄は、ただの個人の趣味の問題になる。

だれもが社会から無条件の愛を受けとるようになったら、この世界はどうなるだろう?

くり返すが、マネーは無から生まれる印字に過ぎない。私たちがマネーに負い目や足かせを感じる必要はない。最適なルールを見出して合意形成ができればいいだけだ。ユニバーサル・ベーシックインカムをマネーの発行機関が支給したら、ファンディングの問題はなくなる。誰も反対する意味は見出せなくなるだろう。

フーバーは、貨幣発行機関は、株式会社であるべきではない。そして立法、行政、司法と並ぶ独立した権力として存在すべきだと主張している。それも検討すべきだが、それより、人の暮らし対してマネーを発行するという原則を確立することの方がより大事だ。それができれば、誰が発行するかは二の次と言える。

長い支配の歴史の中で、人類は少しずつデモクラシーを回復させてきた。代議制を核にした今のデモクラシーは本当の民意を反映しにくいので、まだまだ不十分だ。だが、今や、デモクラシーは誰も否定できない揺るぎない価値となっている。ほとんど価値のない情報の洪水の中で、私たちは判断力を失いがちだが、一方で、ひとりひとりが大事なことを世界に伝える力も備わった。まだまだ人間を支配したい人たちはいるが、デモクラシーで支配なき世界は合意形成できる。

私たちの本当の約束の地は、決して遠くない。


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