日本中世文学の起源(52)

2020年06月16日
 司馬貞「三皇本紀」の「天皇・地皇・人皇は、図・緯に記載されている」という記述から、どの図・緯に記載されているのか、確認したいと思った。後の箇所で、春秋緯を明記した引用があるので、春秋緯であるかもしれない。

 緯書は、「漢代、儒家の経書を神秘主義的に解釈した書物で、原本は隋の煬帝により禁書処分されて散逸した」という。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/緯書

 三善清行「革命勘文」(901年)には、確かに、易緯、春秋緯、詩緯の引用がある。
 清行は、緯書に辛酉革命・甲子革令の記述があり、前660年(辛酉)の神武即位から数えて、901年(辛酉)は革命が起きる年に相当する為、改元が必要だと主張したようだ。
 但し、諸家輯佚緯書類に、辛酉革命・甲子革令の記述はないという。
 神武即位の前660年について、那珂通世による、601年(推古9年・辛酉)の1260年前としたという説は知っていたが、664年(白村江の戦の翌年、甲子)の1320年前という説が興味深い。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/辛酉
 清行は、詩緯・宋均注に「周の文王の辛酉の年、青竜が図を銜みて河に出た」と記載があると書いているようだ。だが、この河図伝説も、文王ではなく、伏羲と共に説かれるのが普通だという。
 「革命勘文」を読んでいると、周や夏という王朝名も神秘的な感じがしてくる。
 清行は、日本書紀に記述された神武の即位年・辛酉を解明したいがあまり、緯書を誤読したのではないか、と思った。辛酉革命について他に文献がないのは、根拠が弱いと思う。
 経・緯という言葉も、思えば神秘主義的だ。
 司馬貞は、「三皇は、伏羲・女媧・神農であるが、図・緯に天皇・地皇・人皇の記載もある」と言っている。天・地・人も、緯書の神秘主義を示しているのではないか。

三善清行「革命勘文」(今井宇三郎校注)
山岸徳平・竹内理三・家永三郎・大曾根章介
『日本思想体系8 古代政治社會思想』(岩波書店)
神武即位紀元の元年辛酉を根拠として辛酉革命説を論じ、今年昌泰四年(九〇一)がその辛酉に当たるゆえ改元すべきことを請うた上申書。革命改元の勘文として残る最も古いもの。清行は前年の昌泰三年十月十一日に「奉菅右相府書」、同十月二十一日に「預論革命議」の二文を書き、次いでこの勘文を上申したもので、この勘文の主意をなす辛酉革命・甲子革令の説が容れられ、同年七月十五日に延喜と改元された。清行の辛酉革命説は神武即位紀元の辛酉年を基点とし、一蔀を一三二〇年とすることを前提とする。そして易緯鄭注の六甲一元、四六・二六交々相乗じ、七元三変の大変革命年を説くにある。然るに後文に挙げている四六・二六の年数が必ずしも四六の二四〇年、二六の一二〇年として計上されていないことと、易緯とその鄭注の文が早く佚亡し、諸家輯佚の緯書類に徴検できないこととて、この勘文を一層難解なものとしている。ここには可能なかぎり清行説の根拠とする資料について検討した。この革命勘文は諸書に徴引されていると共に、辛酉改元の典拠として、後来、辛酉年毎に大変革命年に当るや否やの論議を引き起こし(続群書類従巻二九一、公事部四十四参照)、そしてまた辛酉年に改元されている例がすこぶる多い。底本には、群書類従本(内閣文庫蔵)を用いた。

革命勘文
   文章博士三善宿禰清行謹みて言す
    改元して天道に応ぜんことを請ふの状
     合して証拠四条
一、今年大変革命の年に当るのこと
 易緯*に云ふ、辛酉を革命となし、甲子を革令となす、と。鄭玄*曰く、天道は遠からず、三五にして反る。六甲を一元となし、四六・二六交相乗じ、七元にして三変あり。三七相乗じて、廿一元を一蔀となす。合して千三百廿年なり、と。春秋緯*に云ふ、至道は遠からず、三五にして反る、と。宋均注に云ふ、三五は、王者改代の際会なり。能く此の際に於て、自から新たにすること初めのごとくなれば、則ち無窮に通ずるなり、と。詩緯*に云ふ、十周して参聚し、気神明を生ず。戊午運を革め、辛酉命を革め、甲子政を革む、と。注*に云ふ、天道は三十六歳にして周るなり。十周を名けて王命の大節と曰ふ。一冬一夏し、凡そ三百六十歳にして一たび畢り、余節あるなし。三推終れば則ち始めに復り、更めて綱紀を定む。必ず聖人あり、世を改め統理する者はかくのごとし。十周を名けて大剛と曰ふ。則ちまた乃ち三基にして会聚し、乃ち神明を生ず。神明にして乃ち聖人は世を改むる者なり。周の文王は、戊午の年*、虞の訟へを決し、辛酉の年*、青竜図を銜みて河に出で、甲子の年*、赤雀丹書を銜む。しかして武王、紂を伐つに至り、戊午の日*、軍孟津を渡り、辛酉の日、泰誓を作り、甲子の日、商郊に入る、と。

易緯 易経の緯書。辛酉革命・甲子革令の一文は諸家による輯佚緯書類に見えない。→補
鄭玄 後漢末の大儒、字は康成(一二七―二〇〇)。武英殿聚珍版本易緯八種に注している。
春秋緯 春秋の緯書の合誠図。但し底本の天道は「至道」、道無は「通無」。→補
詩緯 詩経の緯書。後年の勘奏文に「詩緯推度災曰」としている。然し諸家輯佚緯書の推度災には見えない。→補
注 魏博士宋均注。
戊午の年…・辛酉の年…・甲子の年… →補
戊午の日… 尚書の泰誓・牧誓・武成に見えるのは戊午と甲子の両日で、辛酉の日は見えない。孟津は孟の渡し場、商郊は商(殷)の郊外の牧野。→補

辛酉の年 諸家輯佚書に見えない。河図伝説は伏羲八卦と結んで説かれるのが普通で、尚書中候「伏羲氏有天下、竜馬負図出于河。遂法之以画八卦」とあり諸書に徴引されている。同じく尚書中候に「青竜臨壇、銜元甲之図、吐之而去」の一文が見えるが、これは「武王観于河」に繫げて説かれ、文王のことに関しない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?