日本中世文学の起源(56)

2020年08月24日


 日本後紀序、続日本後紀序を、学術文庫の現代語訳に従って、読んでみよう。
 前者に多くの人名がでてくる。

809年~823年 52 嵯峨天皇
823年~833年 53 淳和天皇
833年~850年 54 仁明天皇
850年~858年 55 文徳天皇
858年~876年 56 清和天皇

 緒嗣、貞嗣、冬嗣は兄弟か、と思ったが、藤原不比等が共通の祖先の式家、南家、北家の同時代の人物らしい。自民党の派閥のようだ。
 直世王、清原夏野、良岑安世、源常という、あまり見ない皇族の名前もある。
 良岑は、高千穂、又は比叡山の事だろうか。清原は、浄御原の事でもあるという。
 小野岑守は、小野妹子の子孫だという。

759年~824年 藤原貞嗣(藤原巨勢麻呂の十男)
 藤原鎌足―不比等―武智麻呂(南家)―巨勢麻呂―貞嗣
774年~843年 藤原緒嗣(藤原百川の長男)
 藤原不比等―宇合(式家)―百川―緒嗣
774年~843年 朝野鹿取
生没年不明 布瑠高庭
775年~826年 藤原冬嗣(藤原内麻呂の次男)
 藤原不比等―房前(北家)―真楯―内麻呂―冬嗣
777年~834年 直世王(清原王の子)
 天武天皇―長皇子―清原王ー直世王
778年~830年 小野岑守
 小野妹子―毛人―毛野―老―竹良―永見―岑守
生没年不明 坂上今継
779年~855年 島田清田
782年~837年 清原夏野(舎人親王の孫・小倉王の五男)
 天武天皇ー舎人親王ー三原王ー小倉王―清原夏野
785年~830年 良岑安世(桓武天皇の皇子)
786年~846年 藤原吉野
 藤原宇合(式家)―蔵下麻呂―綱継―吉野
798年~854年 山田古嗣
804年~872年 藤原良房(冬嗣の次男)
812年~854年 源常(嵯峨天皇の皇子)

 日本後紀などの逸文が残されている、類聚国史は、892年に、菅原道真によって編纂されたという。

森田悌『日本後紀上 全現代語訳』(講談社学術文庫)
日本後紀 序(逸文)
 臣緒嗣らが、先人が著した書物を調べ、古来の書索を閲覧しますと、史書が作られるようになって久しいことが判ります。そこにおいては些細な悪行についても隠すことがなく、小さな善行についてもすべて記載し、明らかな戒めとすべき事柄が限りなく含まれ、これにより正しい道が照らし出されており、史書の有用性は、ここにあります。
 伏して思いますに、前後太上天皇(嵯峨太上天皇と淳和太上天皇)は、一天における二つの太陽と同然でして、体を異にしつつ同じ光輝を発して、共に身心を慎み、道理に明らかで文徳が輝き思慮深い、という徳をもち、世を済い万物に利益を与え、中国古代の聖帝である黄帝が牧童に学んだ、と伝える牧馬の法に同じとする政治の要諦を身につけ、大国を治めるのは小魚を煮るのと同じだと説く老子の政治哲学を体得しておられます。しかし、人民が嵯峨・淳和両天皇の盛世を満喫しないうちに、お二人は退位されてしまいました。
 弘仁十年(819年)に嵯峨天皇は、大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣・正三位行中納言兼民部卿藤原朝臣緒嗣・参議従四位上行皇后宮大夫兼伊勢守藤原朝臣貞嗣・参議左衛門督従四位下兼守右大弁行近江守良岑朝臣安世らに勅して、国史の編修を監督・指導させることになりましたが、作業が終了しない間に三臣が相ついで死去し、緒嗣独り存命する事態になりました。そこで、淳和天皇が詔りして、左近衛大将従三位兼守権大納言行民部卿清原真人夏野・中納言従三位兼行中務卿直世王・参議正四位下守右近衛大将兼行春宮大夫藤原朝臣吉野・参議従四位上守刑部卿小野朝臣岑守・従五位下勲七等行大外記兼紀伝博士坂上忌寸今継・従五位下行大外記島田朝臣清田らを副えて、編修作業を継続させることになりました。しかし、淳和天皇の譲祚に至りましても完成できませんでした。
 今上陛下(仁明天皇)は、天地の間の優れた気を受け継ぎ、宇宙の精気を身に有して、皇位に即いて四方に徳を及ぼし、太平をもたらし、仁と孝の徳を本性として天下を治める大事業に当たられ、国史の編修を促す勅を重ねて出されましたが、作業は遅れてしまいました。ここで、さらに左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣・正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常・正三位行中納言臣藤原朝臣吉野・中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房・参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取らに詔りして、作業を遂行させることになりました。そこで、前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭・従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣らに、資料を排列して整った文章を準備させました。錯雑する種々の書物に関しましては要点のみを採り、煩瑣な細事はこのたびの史書では省き、先史である『続日本紀』に続けて本文の叙述を完了いたしました。ただし国史編修の慣行に従い、詳しい記事を曹案(文案)に記しましたが、本文の編修に当たっては棄てて採りませんでした。延暦十一年(792年)正月丙辰(一日)から天長十年(833年)二月乙酉(二十八日)まで四十二年間の歴史を記述して四十巻にまとめ、『日本後紀』と名づけることにいたします。巻次の目録は、左記のとおりです。願わくは、この『日本後紀』により、いまの人が古の社会を視るがごとく後世の人がいまの社会を視るようになればと思います。編修に当たった私たちは、司馬遷の才能をもたず、識見は董狐(中国春秋時代の史官)に及びません。優れた能力を有する大匠でない私たちは、努力したもののみずからを傷つけ、汗を流すのみで、十分な成果をあげることができませんでした。謹んで朝廷に参内して奉進し、上奏して序文といたします。
  承和七年(840年)十二月九日
               左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣
               正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常
               正三位行中納言臣藤原朝臣吉野
               中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房
               参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取
               前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭
               従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣

    日本後紀 序(逸文)
    臣緒嗣等、討論綿書、披閲曩索、文史之興、其来尚矣、無隠毫釐之疵、咸載錙銖之善、炳戒於是森羅、徽猷所以昭晢、史之為用、蓋如斯歟、伏惟前後太上天皇、一天両日、異体同光、並欽明文思、済世利物、問養馬於牧童、得烹鮮於李老、民俗未飽昭華、薛羅早収渙汗、弘仁十年太上天皇(嵯峨)、勅大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣・正三位行中納言兼民部卿藤原朝臣緒嗣、参議従四位上行皇后宮大夫兼伊勢守藤原朝臣貞嗣、参議左衛門督従四位下兼守右大弁行近江守良岑朝臣安世等、監修撰集、未了之間、三臣相尋薨逝、緒嗣独存、後太上天皇(淳和)詔、副左近衛大将従三位兼守権大納言行民部卿清原真人夏野・中納言従三位兼行中務卿直世王・参議正四位下守右近衛大将兼行春宮大夫藤原朝臣吉野・参議従四位上守刑部卿小野朝臣岑守・従五位下勲七等行大外記兼紀伝博士坂上忌寸今継・従五位下行大外記島田朝臣清田等、続令修緝、属之譲祚、日不暇給、今上陛下、稟乾坤之秀気、含宇宙之滴精、受玉璽而光宅、臨瑶図而治平、仁孝自然、聿修鴻業、聖綸重畳、筆削遅延、今更詔左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣・正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常・正三位行中納言臣藤原朝臣吉野・中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房・参議民部卿正四位下勲六等臣朝野宿禰鹿取、令遂功夫、仍令前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭・従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣等、銓次其事以備釈文、錯綜群書、撮其機要、瑣事細語、不入此録、接先史後、綴叙已畢、但事縁例行、具載曹案、今之所撰、棄而不取、自延暦十一年正月丙辰、迄于天長十年二月乙酉、上下卌二年、勒以成卌巻、名曰日本後紀、其次第、列之如左、庶令後世視今、猶今之視古、臣等才非司馬、識異董狐、代匠傷手、流汗如漿、謹詣朝堂、奉進以聞、謹序
      承和七年十二月九日
                  左大臣正二位臣藤原朝臣緒嗣
                  正三位守右大臣兼行東宮傅左近衛大将臣源朝臣常
                  正三位行中納言臣藤原朝臣吉野
                  中納言従三位兼行左兵衛督陸奥出羽按察使臣藤原朝臣良房
                  参議民部卿正四位下勲六等臣朝野禰祢鹿取
                  前和泉守従五位下臣布瑠宿禰高庭
                  従五位下行大外記臣山田宿禰古嗣
類聚国史147国史

 続日本後紀序に、伴善男の名が出てくると思ったら、応天門の変(866年)にも言及があった。
 伴善男、大伴家持の共通の祖先は、大伴金村の孫の長徳だという。

大伴金村―咋―長徳―古麻呂―継人―伴国道―伴善男
       長徳―安麻呂―旅人―家持

森田悌『続日本後紀上 全現代語訳』(講談社学術文庫)
続日本後紀 序
 臣藤原良房らが窃かに思いますに、史官(記録係)が記載することにより、帝王の事跡が集積され、司典(編集係)が整った文章とすることにより、事蹟の得失について議論し、基準に則って過去について学び、悪を止めて善を勧め、遠大な計画に備え、将来の手本とし、事に応じて自在に行動することを可能にするところの、不朽のものとして後世に伝わることになります。伏して思いますに、先帝文徳天皇は善徳を身につけて皇位に即かれ、民心に適うよう心がけて万機を修め、天下太平の国を追い求められました。そして、宮殿の高殿で手を組み沈思され、仁明天皇の治政が長期にわたり、たくさんの善政が行われ、良い評判が広まっているものの、史書に編まれておらず、亡失してしまうことを恐れ、太政大臣従一位臣藤原朝臣良房、右大臣従二位兼行左近衛大将藤原朝臣良相・大納言従三位民部卿兼太皇太后宮大夫臣伴宿禰善男、参議正四位下行式部大輔臣春澄朝臣善縄・散位従五位下臣縣犬養大宿禰貞守らに詔りして、過去の例に倣い、史書の編修を命じられたのでした。作業にとりかかりますと文徳天皇は崩御して、白雲の彼方に去られ、お慕いしましても遥か遠くの方となってしまいました。今上陛下(清和天皇)は千年に一度黄河が清み、土地の神が神徳を明らかにする瑞祥が出現して即位され、その徳は古代中国の聖帝である堯・舜に並び、その宮殿においては仁を宗とし、国内は常に平安で、政治に余裕があり、書物を閲覧されて、前代の史書の欠けていることを嫌い、文徳天皇の史書編修を指示する詔命が未達成であることを恨み、再度臣らに勅を下され、速かな完成を求められたのでした。臣らは勅を奉りまして狼狽えつつも懈ることなく努めましたが、記述ごとに食い違いが多く、やはり延引してしまいました。この間に右大臣良相朝臣は病に伏して死亡するに至り、大納言善男宿禰は応天門の変で伊豆国へ流され、散位貞守は編修に参画したものの、完成しないうちに駿河守を拝任して京を離れてしまい、臣良房と式部大輔善縄の二人のみで苦労して努め、完成することができました。天長十年(833年)二月乙酉(二十八日)より起こして嘉祥三年(850年)三月己亥(二十一日)まで、併せて十八年の歴史を『春秋』の文体に依拠して編年体で記述し、書き上げたものを検討して巻に分かちて全二十巻とし、呼称を『続日本後紀』といたしました。日常の些事たる米塩絡みについては採用することをせず、君主の言動に関しては大小となく一括してすべて載せました。臣らの識見は春秋時代の史官である南史や董狐のそれでなく、才能は『史記』を著した司馬遷や『漢書』を著作した班固に及ばず、誤って編修のことに当たり、伏して浅く劣った才識を恥じる次第です。ここに謹んで参内して進め奉り、序文といたします。
  貞観十一年(869年)八月十四日
    太政大臣従一位臣藤原朝臣良房
    参議正四位下行式部大輔臣春澄朝臣善縄

    続日本後紀 序
    臣良房等、竊惟、史官記事、帝王之跡攅興、司典序言、得失之論対出、憲章稽古、設沮勧而備遠図、貽鑒将来、存変通而垂不朽者也、伏惟先皇帝、体元膺籙、司契脩機、夢想華胥之壃、拱黙大庭之観、以為、承和撫運、歴稔惟長、善政森羅、嘉謩狼藉、未編簡牘、恐或湮淪、爰詔太政大臣従一位臣藤原朝臣良房、右大臣従二位兼行左近衛大将藤原朝臣良相、大納言従三位民部卿兼太皇太后宮大夫臣伴宿祢善男、参議正四位下行式部大輔臣春澄朝臣善縄、散位従五位下臣縣犬養大宿祢貞守等、因循故実、令以撰修、筆削之初、宮車晏駕、白雲之馭不返、蒼梧之望已遥、今上陛下、河清而後興、社鳴而乃出、其道徳則堯与舜、其城郭則義将仁、四海常夷、万機多暇、校文芸閣、嫌旧史之有虧、留睠蘭台、恨先旨之未竟、重勅臣等、責以亟成、臣等奉勅廻遑、不敢懈緩、事多差互、尚致淹延、其間、右大臣良相朝臣嬰痾里第、收影北邙、大納言善男宿祢犯罪公門、竄身東裔、散位貞守且參其事、不遂斯功、出吏辺州、没蹤京兆、唯臣良房与式部大輔善縄、辛勤是執、以得撰成、起自天長十年二月乙酉(廿八)、訖于嘉祥三年三月己亥(廿一)、惣十八年、拠春秋之正体、聯甲子以詮次、考以始終、分其首尾、都為廿巻、名曰続日本後紀、夫尋常砕事、為其米塩、或略弃而不收、至人君挙動、不論巨細、猶牢籠而載之矣、臣等識非南董、才謝馬班、謬參撰修、伏慙浅短、謹詣朝堂、奉進以聞、謹序、
       貞観十一年八月十四日
         太政大臣従一位臣藤原朝臣良房
         参議正四位下行式部大輔臣春澄朝臣善縄

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