創造記事の併置について

 モーセが創世記の筆者であると知り、神話に特定の筆者がいるのか、と思った。古事記の太安万侶、稗田阿礼を思い出した。
 創世記には、創造記事が併置されているという。記事の併置は、日本書紀の一書と同様だと思う。
 創世記の「神言いたまいけるは」の多用は、ニーチェ「ツァラトゥストラはかく語りき」、論語の「子曰く」のようである。
 ウジヤ、アハズ、イザヤの名が、日本のウガヤフキアヘズ、イザナギ、イザナミに似ている。
 キリスト教の「イエスは神の子である」という思想は「神武天皇は神の子である」と同様であり、旧約聖書・新約聖書は、記紀の神代・人代に対応すると言えるだろう。

前1513年 モーセ「創世」
前1512年 モーセ「出エジプト」「レビ」
前1473年 モーセ「民数」「申命」「ヨブ」
前829年~前777年 ユダ・ウジヤ(アザリヤ)
前762年~前746年 ユダ・アハズ
前732年 イザヤ「イザヤ」

     イザナギノミコト、イザナミノミコト
     ウガヤフキアへズノミコト(神武天皇の父)
前660年~前585年 神武天皇
712年 「古事記」
720年 「日本書紀」

『古典世界文学5 聖書』(昭和五十一年、筑摩書房)
関根正雄「解説――旧約聖書――」
モーセの五書とはこれがモーセの書いたものと素樸に考えられていたための名称であるが、これがモーセ――イスラエル人をエジプトの奴隷状態から救い出した偉大な指導者――が書いたものではなく、ずっと後代の、複雑な過程を経てできた書物であることは確かである。このモーセ五書の学問的研究は近代の旧約研究の果たした大きな仕事であった。学問的には『申命記』に続く『ヨシュア記』をも含め、モーセ六書を一括して研究対象とする場合が多い。こんにちの通説によれば、モーセの書はいくつかの資料を編纂してできたもので、そのため互いに相違し、重複する多くの記事が存在している、と考えられている。たとえて言えば、『創世記』一章一節から二章四節前半にある七日にわたる整然たる天地創造の記事と、二章四節後半からこの章の終わりまでの、素樸な、アダムとその妻の創造の記事は、同じく神の創造を取り扱っているが、その思想・文体その他においてかなり違っている。これは新旧二つの資料の創造記事をただ並べてあるのである。また『創造記』七、八章のノアの洪水の記事では、この二つの資料が細かく組み合わされていて、そのままでは筋が通らない。たとえば一つの資料では雨が四十日、四十夜続いたとあり、他の資料では百五十日も降り続いたとある。その他多くの相互に矛盾する叙述が組み合わされているのである。このようにいくつかの資料が、併置されたり、組み合わされたりして、モーセの書ができているのである。

旧約聖書(日本聖書協会、関根正雄編)
一 歴史
1 歴史 上
1 創世時代
A 創造記 新(創一1―二4イ)
 元始に神天地を創造りたまえり。地は定形なく曠空しくして、黒暗淵の面にあり、神の霊水の面を覆いたりき。神「光あれ」と言いたまいければ光ありき。神光を善しと観たまえり。神光と暗を分かちたまえり。神光を昼と名づけ、暗を夜と名づけたまえり。夕あり暗ありき。これ首の日なり。
 神言いたまいけるは、「水の中に穹蒼ありて水と水とを分かつべし。」神穹蒼を作りて、穹蒼の下の水と穹蒼の上の水とを判ちたまえり。すなわちかくなりぬ。神穹蒼を天と名づけたまえり。夕あり朝ありき。これ二日なり。
 神言いたまいけるは、「天の下の水は一処に集まりて乾ける土顕わるべし」と。すなわちかくなりぬ。神乾ける土を地と名づけ、水の集合れるを海と名づけたまえり。神これを善しと観たまえり。神言いたまいけるは、「地は青草と、実蓏を生ずる草蔬と、その類に従い果を結びみずから核をもつところの果を結ぶ樹を地に発出すべし」と。すなわちかくなりぬ。地青草と、その類に従い実蓏を生ずる草蔬と、その類に従い果を結びてみずから核をもつところの樹を発出せり。神これを善しと観たまえり。夕あり朝ありき。これ三日なり。
 神言いたまいけるは、「天の穹蒼に光明ありて昼と夜とを分かち、また天象のため時節のため日のため年のために成るべし。また天の穹蒼にありて地を照らす光となるべし」と。すなわちかくなりぬ。神二つの巨なる光を造り、大いなる光に昼を司らしめ、小さき光に夜を司らしめたもう。また星を造りたまえり。神これを天の穹蒼に置きて地を照らさしめ、昼と夜を司らしめ、光と暗を分かたしめたまう。神これを善しと観たまえり。夕あり朝ありき。これ四日なり。
 神言いたまいけるは、「水には生物饒に生じ、鳥は天の穹蒼の面に、地の上に飛ぶべし」と。神巨なる魚と、水に饒に生じて動くすべての生物を、その類に従いて創造り、また羽翼あるすべての鳥をその類に従いて創造りたまえり。神これを善しと観たまえり。神これを祝して曰く、「生めよ繁息よ海の水に充牣よ、また禽鳥は地に蕃息よ」と。夕あり朝ありき。これ五日なり。
 神言いたまいけるは、「地は生物をその類に従いて出だし、家畜と昆虫と地の獣をその類に従いて出だすべし」と。すなわちかくなりぬ。神地の獣をその類に従いて造り、家畜をその類に従いて造り、地のすべての昆虫をその類に従いて造りたまえり。神これを善しと観たまえり。神言いたまいけるは、「我らに象りて我らの像のごとくに我ら人を造り、これに海の魚と天空の鳥と、家畜と全地と地に匍うところのすべての昆虫を治めしめん」と。神その像のごとくに人を創造りたまえり。すなわち神の像のごとくにこれを創造り、これを男と女に創造りたまえり。神彼らを祝し、神彼らに言いたまいけるは、「生めよ繁殖よ地に満盈よ、これを服従わせよ、また海の魚と天空の鳥と地に動くところのすべての生物を治めよ。」神言いたまいけるは、「視よ、我全地の面にある実蓏のなるすべての草蔬と、核ある木果の結るすべての獣とを汝らに与う。これは汝らの糧となるべし。また地のすべての獣と天空のすべての鳥および地に匍うすべての物など、およそ生命ある者には我食物としてすべての青き草を与う」と。すなわちかくなりぬ。神その造りたるすべての物を視たまいけるにはなはだ善かりき。夕あり朝ありき。これ六日なり。
 かく天地およびその衆群ことごとく成りぬ。第七日に神その造りたる工を竣えたまえり。すなわちその造りたる工を竣えて七日に安息みたまえり。神七日を祝してこれを神聖めたまえり。そは神その創造りなしたまえる工をことごとく竣えて、この日に安息みたまいたればなり。天地の創造られたるその由来はこれなり。(二章四節前半)

B 創造記 旧(創二4ロ―25)
 エホバ神地と天を造りたまえる日に、野のすべての灌木はいまだ地にあらず野のすべての草蔬はいまだ生ぜざりき。そはエホバ神雨を地に降らせたまわず、また土地を耕す人なかりければなり。霧地より上りて土地の面をあまねく潤したり。エホバ神土の塵をもって人を造り、生気をその鼻に嘘き入れたまえり。人すなわち生霊となりぬ。エホバ神エデンの東のかたに園を設けて、その造りし人をそこに置きたまえり。エホバ神、観るに美麗しく食らうに善きもろもろの樹を土地より生ぜしめ、また園の中に生命の樹および善悪を知るの樹を生ぜしめたまえり。河エデンより出でて園を潤し、かしこより分かれて四の源となれり。その第一の名はピソンという、これは金あるハビラの全地を繞るものなり。その地の金は善し、またブドラクと碧玉かしこにあり。第二の河の名はギホンという、これはクシの全地を繞るものなり。第三の河の名はヒデケルという、これはアッスリヤの東に流るるものなり。第四の河はユフラテなり。エホバ神その人を挈りて彼をエデンの園に置き、これを理めこれを守らしめたまえり。エホバ神その人に命じて言いたまいけるは、「園のすべての樹の果は汝意のままに食らうことを得。されど善悪を知るの樹は汝その果を食らうべからず。汝これを食らう日にはかならず死ぬべければなり。」
 エホバ神言いたまいけるは、「人独りなるは善からず、我彼に適う助者を彼のために造らん」と。エホバ神土をもて野のすべての獣と天空のすべての鳥を造りたまいて、アダムのこれを何と名づくるかを見んとてこれを彼の所に率いいたりたまえり。アダムが生物に名づけたるところは皆その名となりぬ。アダムすべての家畜と天空の鳥と野のすべての獣に名を与えたり。されどアダムにはこれに適う助者見えざりき。ここにおいてエホバ神アダムを熟く睡らしめ、睡りしときその肋骨の一つを取り肉をもてその処を填塞ぎたまえり。エホバ神アダムより取りたる肋骨をもて女を成り、これをアダムの所に携れ来たりたまえり。アダム言いけるは、「これこそわが骨の骨、わが肉の肉なれ。これは男より取りたる者なれば、これを女と名づくべし」と。このゆえに人はその父母を離れてその妻に好合い、二人一体となるべし。アダムとその妻は二人ともに裸体にして愧じざりき。


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