日本古代文学の起源(99)

2020年05月12日

 「史記4~8」(ちくま学芸文庫)、叢小榕「中国五千年の物語」を受け取った。
 天皇(てんこう)という言葉が出てくる、史記・始皇本紀を見たかったのだが、前回、購入した「史記1」に収録されていた。
 「いにしえ、天皇があり地皇があり、泰皇があって、泰皇がもっともたっとかった」とあり、「泰皇がもっとも貴い」というのが、意外だった。天や地より、人を司る存在が最上である、という意味だろうか。天皇、地皇というのは、天や地を畏れる、擬人化した言い方かもしれない。人こそが世界を支配する、という中国人の現実主義という感じもする。
 日本の天皇という称号も、日本史上、現実の権力は、藤原氏や源氏が持ち、天皇が持つ事が少なかった事を考えれば、三皇の天皇に通じるのかもしれない。
 5世紀頃、天皇陵の規模を考えれば、仁徳天皇の権力が強大だったと思われる。その頃は、葛城氏、次いで、7世紀まで、大伴氏、蘇我氏という豪族が有力だった。
 更に、大化の改新後、藤原氏の権力が確立したのと同時に、天皇という称号が使われ始めたと思う。

「史記1」(ちくま学芸文庫)
始皇本紀第六
 二十六年(前二二一年)、斉王建は宰相の后勝と兵を出して国境を守り、秦との連絡を絶った。
 丞相綰(王綰)、御史大夫劫(馮劫)、廷尉斯(李斯)らはみな、「昔の五帝の封疆は、広さ千里四方で、その外は侯服・夷服などがあり、諸侯はあるいは入朝し、あるいは入朝しなかったのですが、天子は制御することができませんでした。しかるに今、陛下は義兵を興して残賊を誅し、天下を平定して海内を郡県とし、法令を一途に出るようにされました。上古より以来、このようなことはいまだかつてないことで、五帝も及ばないところです。わたくしらは謹んで博士と相談し、『いにしえ、天皇があり地皇があり、泰皇があって、泰皇がもっともたっとかった。それで、わたくしらはあえて尊号をたてまつり、王を泰皇とし、その命を制、令を詔、天子の自称を朕としたい』と申し合わせた次第です」と言った。王が言うよう、「泰皇の泰を去り、上古の帝位の号を採って皇帝と号し、その他は議のとおりにしよう」と。

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