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畏愛

流氷が押し寄せる地方に育っていた自分の、昔の記憶。
ある冬の終わりの吹雪の日、バイトで海沿いの街に商品を届けにいったとき、ついでに立ち寄った海岸で見た流氷原。

薄い灰色の空から風を伴って強く降る雪と、一面氷に閉ざされた海。
目の前のすべてが白い、どこまでが海でどこからが空かわからないほど白い。目を開けているのに何を見ているのかわからなくなる感じ。

「人間って小さい」
その時初めて自然というものに畏れを抱いた、ように覚えている。

おそれうやまいながら親しむこと。

畏れ。畏怖とは少し違う、畏敬ともまた違う、と調べていったら「畏愛」という言葉があると知った。畏れ、敬い、そして親しむ。それが自分の自然観に近く、その自然観を形作ったのはあの流氷原だった。


翻って昨日の四大陸フィギュア男子SP。
2年前の五輪で連覇を成し遂げたプログラムの再演など、大きな決断なしには演じられない。評価されたプログラムをもし失敗すれば、栄光に泥を塗ってしまう可能性だってあったはずだ。積み上げてきたものを無にしてしまう可能性だってあったはずだ。とても安易に選択できるようなものじゃない。

それを選ぶ勇気と、それを(見ている側の想像よりも上で)遂行する力。両方揃えなければ開くことのできない扉を彼はそれは見事に開けて、自分を含めた見ていた者たちを熱狂という名の坩堝に放り込んだ。

むかし流氷原を見たときとおなじような感情が、テレビを見ている自分の中にあった。うつくしいもの、圧倒的なもの、抗い難いもの、畏れるべきもの、そして同時に、大切にすべきもの。

絵画や音楽など優れた芸術は、ときに壮大な自然に触れたときと近い感情を呼んでくることがあると思っているけれど、自分にとって昨日の演技はまさにそれだった。

五輪連覇のときとは違った色の感情がある。あのときと単純に比べるのは難しいけれど、いくつもの大切な瞬間のひとつになったことには違いないと、思っている。


(カバーの流氷原の画像は知床斜里観光協会のフリー画像アルバムからいただいてまいりました。自分の記憶の流氷原は、この画像から色味を抜いて吹雪を付け足す感じです)


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