「公」と「私」―障害と恋愛の相談について

自分はいま、障害(病気)をオープンにして働いている。
今している精神保健福祉士(PSW)の勉強や将来の働き方など、オフィシャルな部分ではそのスタンスは変わらないと思う。

けれど、プライベートな部分ではどうだろう。
趣味の集まりや友人関係などで、病気に関する話はほとんどしていない。
そこには、まだ自分の障害に対する偏見があることを感じている。

社会の支援についても、生活課題や就労、学業など「公」の部分では、相談できる環境は整いつつある(もちろん、まだまだ不十分で困っている人はたくさんいる)。
一方で、余暇をどう過ごすかとか、人づきあいなど「私」の部分では、支援は遅れているように思うし、支援することにもむずかしさがあると思う。

その最たるものが、「恋愛」だろう。

恋愛に対する悩みはひとによって千差万別だけど、自分を振り返ってみれば、病気になる前と後を比べても、悩んでいる内容はあまり変わっていないように思う(成長していないともいう)。
もちろん、病気のことを相手にどう伝えるかとか、生活面・経済面での課題とどう向き合うかということはあるけれど、それは恋愛そのものの先にある話だと思う。

一番変わったことは、「周りへの相談」についてだろう。

学生の頃と社会人になってからの環境の違いは、確かにある。
けれど、病気のことをひっくるめて、恋愛に関する相談をするのは、はっきり言ってとても難しい。
まず第一に、その人が自身の病気のことを受け入れてくれるかというステップがある。
そのことのむずかしさは割愛するが、そのうえで恋愛のことを相談するとき、相談を受けた人には、健常者のそれとはちがう「答え」が必要になるのではないだろうか。

あなたは、障害者から恋愛の相談を受けたとき、どうしますか?
その答えは楽観的なものですが?あるいは悲観的なものですか?それはなぜですか?

そして、どんな回答であっても、障害者は(健常者と同様に)自分で判断をしなければならない。けれど、そこに潜むハンディキャップに対する理解者は、究極的には自分しかいない。

病気による症状や障害そのもので、未だ多くの人が苦しんでいる。一方で、医学の進歩やリハビリテーション技術の発達で、社会参加を果たしている人も増えてきた。それは同時に、「障害があるから十分な所得が得られない」「病気のことで恋愛や結婚に前向きになれない」といった、いわば「障害×○○」に関する悩み(専門用語でいう「参加制約」)が増えることも表している。

これを書いている今の自分にもその問題をどうすれば解決できるのかはわからないでいる。
自分の悩みだって解決できていないし、自身も持っている、病気や障害に対する偏見をどうしたら克服できるのか、その糸口さえもつかめていない。

前述したように「私」の部分を支援するのは、その課題が個別的で多様なものであるだけとても難しい問題である。
遅れている「私」の支援が進むためにも、知見が蓄積されることを願って、この文章を終えたいと思う。

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