フォーマルとしての責任、あるいはインフォーマルとしての共感

先日、某団体の主催するセミナーに参加した。内容は学生や20代向けのもので、自分の年齢とは少し離れていたのだけれど、だからこそ発見があった。

1つは、支援者としての自分の立ち位置について。PSWの勉強を始めたときは、ピア(同僚、仲間の意)として支援ができればと考えていたけれど、始めてみると、専門職として資格取得を目指す以上は、プロとして知識や技術を活かす責任があると思うようになった。

というのは、対象者の抱えている課題は、その内容(健康問題や経済的問題などや複合的な問題など)や対象(対象者自身か、友人や恋人か、家族かなど)によって、どこまで踏み込めるのかや援助の方法も変わってくるからである。知識を身につければ身につけるほど、「悩んでいるから」というだけで決まった援助はできなくて、周りの状況にも目を向ける必要がある。これはソーシャルワーカーの宿命かもしれない。

それなら、専門職などフォーマルな支援があればいいかというと、そうではないと思う。それがもう1つ感じた「共感することの難しさ」だ。

セミナーで講義を聴いたり、グループワークをして、自分自身が20代の頃に比べて、悩みに対してものすごく「鈍感」になっているのを感じた。それも愕然とするレベルで。

自分自身に対して鈍感になったならまだいい。事実、20代の自分が持っていたある種の過敏さをいまも持っていたとしたら、それはしんどいだろうと思う。問題なのは、他人に対して鈍感であることだ。若い人が目の前の問題でどうしようもないくらいにー過去の自分と同じようにー悩んでいるとき、「そこまで大したことじゃない」という思いの一切を捨てて、その人の思いに共感することができるだろうか。それは専門的な知識や技術で補いきれるものではなく、同じ目線に立てる人の共感が必要になってくる。

フォーマルな支援とインフォーマルな支援のどちらがいい悪いではなくて、学生には学生の、友人には友人の、専門職には専門職の役目があって、それを全うすること、その上でネットワークとして機能することだ大事だということ。自分は専門職を目指しているけれど、同時にピアとしての部分も持ち合わせている。棲み分けの難しいところもあるけれど、違う立場の人と意見を交換することで、その人あるいは過去の自分との違いを知り、それなら何ができて何ができないのか、一人では問題解決ができない以上、現状を把握すること。それについて考える機会になった。

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