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この世で目指すべき、たった一つの目的

人は常に何かを頼り、何かを信じる。心に不安がある限り、信じる癖は消えない。仏教徒は、仏・法・僧という三つの宝(三宝)に帰依して生きる。「三帰依」という。

帰依とは、仏法僧の三宝を自らの生き方のガイドとし、指導者・先生として尊敬すること。仏陀は努力によって完全なる悟りを開いたのだ、その方法も明確に教えたのだ、成功を収めた弟子たちもたくさんいるのだと思うと、自分も努力すれば心の不安を完全に取り除くことができると自信がつく。これが三帰依を行う意味。三帰依する人は、他の何かに頼ると気持ちが揺れてしまい、しっかり努力することができなくなるから、他に依存することをやめる。三帰依は、人を育てることで有名になった優秀な先生のところへ弟子入りするようなもの。

自分で人生のハンドルを握り、自らの責任で人生という道を運転する。その際、三宝を指導者として尊敬する。実践によって心の不安が消え、「三帰依してよかった」「有効でした」と思えたら、一時「頼る」働きを担った三帰依が、確信に変わる。これで、頼ること、依存すること、信仰することが最終的に消える。

このように仏教の世界でも、具体的な「依存」の形として三帰依の概念があることは否定できない。けれど、だらしない生き方をしても、三帰依すれば包み込んで完全に守ってもらえると思うのは単なる迷信。公園で子供が自由に遊び回ると、見守っている親に「守ってあげたい」という気持ちがあっても、守りきれない。しかし、真剣に勉強する生徒を、先生が全面的に指導すること、応援することはできる。三帰依の働きはこれと似ている。一時的に不安を解消するのではなく、何にも頼らない自由な心を育てるための最初の一歩なのだ。

三宝のうち「仏」とは、涅槃を体験した覚者。「法」とは、涅槃そのもの。「僧」とは、仏のあとに涅槃(その途上の清らかな境地も含む)を体験した弟子たち。特定の個人ではなく、聖なる境地を体験したすべての仏弟子たちを意味する。

三宝は現象としては別々の三つに見えるが、本質的には一体のものだ。中心には涅槃があり、八万四千の法門と呼ばれる膨大な教えは、たった一つ、涅槃へと繋がっている。つまり三帰依は、涅槃を人生の中心として生きるという決意表明でもある。仏教徒は、誰からも強制されず、自分で決断して涅槃を人生のガイドとして生きる。「私は違います」と言うなら、まだ本格的な仏教徒にはなっていない。できるかどうかは別の話で、涅槃に向かって努力しなければ、仏教徒とは言えない。

輪廻を脱出して解脱するという目的なんか関係ないと言ってしまうと、仏教は終わり。とにかく仏教の目的は、涅槃に達して、苦しみをなくすことだ。それを表に出しておかないと、必ず堕落する。加持祈祷に流れたり、商売の組織になったりする。逆に、商売しても「涅槃を目指す、解脱する」という目的さえブレなければ大丈夫。堕落してだらしない生き方をしてしまっても、涅槃を目指して生きることだけは忘れてはいけない。涅槃を前面に掲げている限り、仏教は壊れない。つまらない些事を気にせず、世間の波に左右されずに明るくいられる。

仏教徒は、涅槃に達することを絶対に諦めない。悟りに至るために活動しているのだ、すべては煩悩をなくすためだと、はっきり前に出す。「そうは言っても、あなたにもいっぱい煩悩があるでしょう」と言われたら、「だからこそ、煩悩をなくそうと頑張っています。今は悟ってないけれど、生きる目的は悟ることです。私は諦めません」と堂々と宣言する。「私は悟った」とは言わないが、「悟るために頑張っている」とは胸を張って言う。解脱のために頑張っているという決意表明は、まだ未熟だと認めているから謙虚なのだ。何か失敗しても、教えてもらうことができる。

涅槃を体験して解脱した人は、道徳を完成している。長い間、完全に道徳を守ってきたので、道徳を守るときに起こる問題も、守ることで得られる幸福も知っている。悟った人がいると、周りは自然に「この人のような生き方をしたい」と希望する。皆、道徳に挑戦したくなる。悟った人がいるだけで、周りは道徳的になり、この世でもあの世でも幸福になる。完全に悟った人こそ、生命に幸福をもたらす。しかし、完全に悟るまで待つ必要はない。仏道を実践するなら、嫌でも自分と他人の役に立つからだ。

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