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日常を善で満たす

人間社会の善悪は、勝手気ままに決められている。ある時代に善とされていたことが、別の時代には悪とされ、その逆もある。仏教では、心の立場から現象をみる。まず「汚れている心がある」と確認して、「汚れている心で行動するとき、その行為は不善である」と認める。このようにみると、時代にも場所にも社会状況にも影響されることなく、いつでも普遍的な立場で善悪を判断できる。考えたり、話したり、行動したりするときの心が汚れているかどうかで、客観的に善悪が判断できる。

たとえば、ライバル意識をむき出しにして「他の会社を倒してやる」と闘争心で仕事をすると、せっかく頑張っても怒りの感情だから、頑張れば頑張るほど、あらゆる罪を重ねていくことになる。不善心にもとづく行為なので、やがて大病して健康を害するとか、落ち着きや威厳がなくなるとか、会社の人間関係や家庭の家族関係がムチャクチャになるとか、悪い結果が現れる。本人はマジメに必死で頑張っているのに、実は怒りの感情で、汚れた心で不善行為をずっと続けていたことになるので、期待とは違う最悪の結果を招いてしまう。必死になって最悪の結果に向かって突き進んでいたなんて、本人にとっては、やり切れないだろう。

現代の教育も、仕事も、政治も、「競争」という感情で動いている。これは怒りに激励されていることだ。怒りは、破壊という結果をもたらす。怒りに激励されて生きてみると、何かが破壊されるという結果になる。自分が怒りを持っているので、自分が破壊に追い込まれることは避けられない。智慧の人は、競争しても怒りは持たない。「自分の能力を、ただ生かしている。私より能力のある人は先に行っても構わないし、能力のない人は後から来ても良い」と、穏やかな気持ちで努力する。数百人の候補者から一人しか選ばれない場合でも、「周りは全員ライバル、敵だ」という悪思考ではなく、「みんなが頑張って、もっとも卓越した人が選ばれればいい」と明るく努力する。自分が選ばれたら、「勝ったぞ」と喜ぶのではなく、「努力の結果として、能力が認められて良かった。他の人は残念だったなぁ」と落ち着いている。

いつの時代も、人々は競争の感情で混乱状態にいて、互いにうまくいかず、深い苦しみを味わっている。日常生活が不善心に支配されているからだ。仏陀の慈しみのメッセージは、「修行のために仕事を辞めなさい」とか「結婚は止めなさい」なんて現実離れしたことではない。「人生はそのままで結構です。ただ、少し心を入れ替えて、智慧を持って行動してはどうですか」と提案するのみ。智慧を持って行動することを心掛けるだけで、日常生活は、そのまま善の心に溢れた善行為に転換できる。

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