小池光の「わからなさ」と服部真理子の「わからなさ」

まず、『短歌・2015年4月号』「次代を担う20代歌人の歌」と『歌壇・2015年6月号』…時評「わかる」とは何か、「読む」とは何か(服部真理子)を読まれ上での論考であることを共有していることを前提としてほしい。 

以下はどちらも『短歌・2015年4月号に掲載された服部真理子の作品である。

a,水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかな水
b,白木蓮に紙飛行機のたましいがゆっくり帰ってくる夕まぐれ

a,小池は「イメージが回収されないのでキツネにつままれたようである。」と服部の作品を評する。「まったく手が出ない」というのが、率直な感想なのだろう。
b,一方で「これは感じが出ている」と述べ、「はじめてついていける歌に出会ってほっとした」と安堵する。

小池は服部の『塩と契約』という作品群を評して、「もう少し作者と読者の間に共有するものがある歌であってほしい。作品が作者のものに止まっているかぎり、客観的に自立した作品の誕生は望めない。」と結ぶ。

これに対して、服部は歌が「わからない」とは何か、ひいては「わかる」とはどのような状態なのかというラジカルな問いかけで応える。

小池や佐々木(幸綱)ら、歌壇における所謂『重鎮』らは、歌とは「作者が表現しようとしている意味内容が、読者にわかる/わからない」という基準で「わかる」ものであるべきとしている。しかし服部は、読者と作者が意味内容を共有できる歌が望ましいとされる雰囲気に抵抗を持つ。「作者と読者は、そもそも言葉を共有することができないのだ。」と言ってのける。大胆な発言である。

さらに服部は続けてこう述べる―「読む」ことは、読者が作者の言葉を自らの言葉に置き換え、作品を再構築する作業に他ならない
。読者が作品を読むとき、そこに現れるのは読者自身の言葉であり、世界である。―

再構築(discotruction)は、ポストモダニズム的な極めて現代的な課題であり、そこで小池と服部の間には生きてきた時代の差があるとも言える。あるいは、既に言語コードの違いがあるのかもしれない(だからこそ小池は服部の歌が「わからない」ことに違和感を覚えるのだ。)小池と服部は同じ日本語を使い、同じ短歌という表現手段を用いているからこそ、この「わからなさ」が先鋭化する。

服部は読者と作者の間にある「わからなさ」をそのまま楽しみたいと考え、小池は「わからなさ」を乗り越えたいと考える。重なる点はどこに見いだせるのだろうか。

※小池は1947年生まれ。1979年、第一歌集『バルサの翼』で第二十三回現代歌人協会賞受賞。服部は1987年生まれ。2014年第一歌集『行け、荒野へと』を上梓。生まれ年は40年、歌集の発表は35年の開きがある。

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